オムニバス・コンプリート

 一匹の狐が、森を駆けていた。拇跡あしあとがつつましく土に刻まれてゆく。

 彼女は木立を抜け、小川を望める丘へ足を踏み入れる。

 つるりとした眼が空を捉えた。尾が稲のようにさわりと揺れる。

「マルクト」

 狐の背後の森に人の影があった。

 白い――白い髪と、赤い瞳をもつ少女が狐を眺めている。

 小さな手には大振りの刃物が握られていた。銀の光は粘つき、血に濡れている。

「イェソド」

 マルクトと呼ばれた狐は振り返って、彼女の名をよんだ。

 あの刃物も、それを振るう術も。暴虐を誇る『森の王』を殺す――ただそれだけのため、マルクトが少女に与えたものだった。

 穢れた手がここにあるのに、空は晴れている。

 イェソドは沓を脱ぐ。そのまま、転がるようにマルクトの方へ走り出す。

「それでも」

 マルクトは呟いた。そうして彼女も足を踏み出す。

 失われた王国への道を辿るかのように。失ったものを、託すかのように。


 暗転。


 ホドは手慰みに読み終えた本を閉じた。魔法持つ狐と勇気持つ少女の物語だった。

 今はこんなことをしている場合ではなかった――怪盗稼業がちょうどひと段落ついたところだったのだ。   

「ティファレトの姉貴。流石に王城に盗みを働くのって馬鹿のやることですって」

「てめェ私が鹿面だって言いたいのか、ホド。もういい私らカバラ怪盗団は今日限りで解消だ」

「姉貴自意識ヤバ過ぎでしょ。別に――お宝は盗めたんで、僕のほうからは何もいうことないですけど」

 そう言ってホドは手に持った宝冠をしげしげと眺める。

 青金石ラズライト翠緑石エメラルド、ひときわ輝く蓮花石パパラチア――美しい宝石の数々が、環状に連なり冠を飾っていた。

「ま、ネツァクの姐さんも喜びますよ。あの人光り物好きですし」


 暗転。


「こんなじゃダメだクソ! 鼻糞みてーな文章だなマジで!」

 おれは頭をがしがしと掻いた。PCには今しがた書いていた怪盗小説......の、ようなものが残っている。

黒間くろま。あんたホントにうるさいんだけど。あたしまだ大学の課題やってるからちょっと静かにしてて」

 階下からは陽菜ひなねえさんの声が響く。おれだってねえさんが苦労しているのは解っているけれど、これは出版社からの仕事なんだから終わらせなければとんでもない方面にとんでもない迷惑がかかるんだ勝手に留年してるねえさんと違ってね――そう返そうかと思って、やめた。折角二人でいるのだ。別にくだらない冗談で空気を悪くすることもない。仕事が終われば、去年のようにまた富士へ一緒に旅行してもかまわない。少し喉が渇いた。梅ジュースを取りに、立ち上がる。

 蝉がやかましく鳴いていた。


 暗転。


 ゲプラーが踏み込み、右手の短槍を素早く突き込む――瞬間ずしりと重く、そして空を切る手応え。

 脊髄に雷が走った。

 すばやく身を引く。あやまたず、狙い澄ました足刀が中空よりゲプラーを襲う。槍を順手に持ち、柄を地に突き立て槍衾のように迎撃する。

 墜とされた鉄の蹄がぎんと弾かれ、砂地の試合場に鉄と火花の匂いが散った。

 ゲプラーは思い返す。

 傭兵隊の同士に裏切られ。

 忌むべき「魔女の秘儀クラフト」によって身体を虎に変えられ。国から放逐され。

 それでも――彼はさまざまな旅を経て、遂に王都の上覧試合まで辿りついた。優勝者には呪術王による「魔女の秘儀」が施され、どのような力も富も手中に納めることができるという。

 円形闘技場の最上部では、髑髏の顔をした男がこちらを睥睨している。

 呪術王クリフォト。世の理を冒し、生きとし逝ける存在に仇なすものだ。

 かつてゲプラー達の仲間だった、ただのあさましい男だ。


 かまわない。

 この身体が戻ろうと、戻るまいと、ゲプラ―にとっては等しく意味がない。

 相対するは翡翠色の角を持つ雌山羊の戦士ケセド。彼女もまた、「魔女の秘儀」に身体を変えられた美しき仲間の一人だ。

 打ち合わせ通りに彼女が頭上からの蹴りを繰り出したということは――程なくしてゲプラーたちの仲間が試合場に雪崩れ込んでくるということだ。

 それに乗じて、「秘儀」を繰る王を討つ。もはやそれのみの為の命だった。

 峻厳たる虎は魂魄を焚べ、血塗られた槍を振るい続ける。

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