ラズライト・ダウン

 ピアノの音が、廃墟林の梢の合間を駆ける。

 勇ましいコーダに、トリオの楽節。流れるハ長調は大河のように雄大だ。

『戴冠行進曲 《王冠》:西暦1967年に儀式音楽として採用された原始音波。付近の有機生命体反応との関連性は不明』

 カムリの有機知能網オープンAIが電子音声で彼自身に告げる。彼はすこしだけ、「冠」に対抗するために造られた、鼻と耳を──狼の鼻と耳をうごめかす。


 林冠によって円劇場のように光が差し込む森の床に、旧いピアノが座っていた。

 旋律がほどけ、そしてやむ。静謐な朝の空気は、淑女のように草花を優しく撫でる。

 そのなかに誰かがいる。


 金砂の髪、白い花環。

 右耳には青金石のピアス。

 もういないはずのヒトが。

 美しい少女が、っていた。


           + 


 AIによるテキスト・レンダリング・ジェネレータ──[₢se]ロゼが暴走し、言語生命体「冠」ケテルが生まれたのが、西暦2067年のことだ。既にIot化が七割ほど進んでいた人類のインフラはプログラム言語を自在に書き換える「冠」の前に砂の城のように崩壊した。

 くわえて、既にインプラント可能な技術として社会に浸透していた仮想感覚(仮想現実ではなく)により、「冠」から閾値の28倍の苦痛感覚を無差別かつ大量に付与された人類は、行動爆発によって抵抗する間もなく同時多発的に六割ほどが死に絶えた。無論何十層ものフィルタリングをぼろ紙のように引き裂かれた状態で。

 そこからは電撃的に人類の敗北が加速していくことになる。状況は「冠」がハックした軍需工場から生産されるドローンを使った掃討戦に移行し、そして三十年後。

 ホモ・サピエンスは世界から駆逐された。

「冠」は環境維持ナノマシンと放棄された垂直農場群を乗っ取って地球を大気組成段階まで健全な状態に復元し、そしてさらに百二十年が経った。

 地球はもう人がいないことを除いて、代わりに黒い通電樹脂の体躯を得た「冠」が闊歩していることを除いて、概ね元の状態に還っていた。

 だが。

 カムリが――対・「冠」兵器のカムリ・ケーニクライヒ11型が森の奥に遺棄された兵廠で目覚めたのもちょうどその頃だった。

           

           +


「こんにちは、狼さん」

 目の前の、白と金と蒼を湛えた少女がいう。

『こんにちは:旧人類マスターのコミュニケーション手段だと仮定。センサーに熱源反応及び敵性反応無し。《アイサツ》の継続を提案』

 カムリは電子音声のサジェストを無視し尋ねた。

「きみは、誰だ」

「ジュディ。ジュディ・アンク――人間よ。決まってるじゃない、ブレイな人」

 カムリのセンサーは、少女の如何なる虚偽も感知してはいない。装備を起動アクティベイトさせながら、狼の頭をめぐらせながら、かれはゆっくりと少女に歩み寄る。

「すまない。私はカムリ。『冠』に対抗するために造られた生体兵器だ。従って、プロトコル・ハーグ第三項に基づき、ジュディは私の管理権限を有することになる」

 ジュディ・アンクは一瞬目を丸くする。

 空色の瞳だった。彼女の右耳のピアスがかるく揺れた。

「私にはきみを保護する義務が存在する。付近5kmに『冠』反応はない」

「まって」

 カムリは振り返る。

「みんな、死んでしまったの」

 その声は硬い。彼女は何をどこまで知っているのだろう。

「私たちの間だけで[₢se]をオープンソースにしてくれ。まだオンラインにはしなくてかまわない。敵にペネトレイトされるおそれがある」

 簡易ジャミングは既にオープンAIが済ませていた。

 カムリは黙ってジュディに旧人類のデータを開示する。ジュディは中空を睨みながめ、カムリには見えない記事を片っ端から咀嚼していたが、しばらくして脈拍が乱れ始めるのがわかった。涼しげな眦から、一筋、宝石のような涙が流れた。

「ジュディ」

 カムリはジュディの肩を抱いた。

「どうしよう、カムリ」

 彼女はカムリの白い体毛に顔を埋める。

「もう、どこにも行けないんだ。誰にも会えないんだ。なのに私、どうしてここにいるのかぜんぜん解らないの」

 朝の星がぼんやりとみえる森の中、ジュディは柔らかそうな髪をなびかせ泣いた。








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