アプリコットジャムの手品

Sanaghi

——ねえ、それってもしかして、私も死んじゃう?

「え、お母さん。死んじゃうの?」

「ええ、何もなければ。一年後、来年には」

「どうして」

「病気だから」


 少女は、窓から射す陽光と安楽椅子に座る自分の母を見ていた。母はしばらく前から足を悪くしていて、杖を持って歩く時以外は、いつも木の安楽椅子に座っていた。椅子に座る彼女はどこか超然としていて、まるで、ガンを患者に申告する医者じゃないかってくらい、彼女は落ち着いていた。そのせいで、「余命宣告をされているのは母? それとも自分?」と、少女は一瞬、頭を迷わせた。


「——ねえ、それってもしかして、私も死んじゃう?」


 目の前にぽけぇっと立つ自分の娘が真面目な顔で、随分と突拍子もないことを言うものだから、彼女の母は「まさか」と言って、二、三秒ほどカラカラと笑った。窓際に植えられていた、花なきアンズの木の葉もつられて、ゆらゆらと揺れているみたいだった。


「どうにかしないの?」

「ええ、もちろん。どうにかするわ、しますとも。

 確かね……あれは、ええと」


 そう言って母の方は人差し指で自分の側頭部をトントンと叩いて、何かを思い出そうとしていた。昔から少女の母は物忘れしやすかった。そして少女は何か母が思い出そうとするたびに手助けする必要があった。少女の母が人差し指で自分の側頭部をトントンと叩く時、母は何かヒントを求めていて、少女はそれに応えるのだ。


「探し物は食べ物?」

「うーん……。食べられない、と思う。

 その気になれば、世の中のものはだいたい食べられるけれどね」


そりゃそうだ、と少女は心の中で笑った。鉄だって毒だって、食べようと思えば食べられる。食べた後のことは知らないけれど。そう考えて、少女は次の質問に移った。 


「探し物は四角い? 丸い?」

「そうね、確か……四角だった気がするわ」

「紙じゃない?」

「紙かも」

「それってメモ? それとも手紙?」


 それを聞いた少女の母は思わず、頭をトントンと叩く行為を止めた。何か、少し閃くようなものがあったようで、彼女の黄金色の視線がゆぅっくりと上へ昇った。そうして、天井をしばらく眺めていた母はポツリと呟く。


「ノート、だった気がする」

「ノート?」

「そう、ノート。二階の納戸に赤いダンボールがあるでしょう?」


 少女は嫌そうな顔を自分の母に見せてから二階の階段を登り、納戸のドアを開ける。すると、確かにりんごみたいに真っ赤なダンボール箱が隅に置いてあった。そのダンボール箱はすぐに見つけることはできたけれども、母のところに持ってくるのは一苦労だった。彼女の細腕では、運んで一階まで降りるのには少し大変だったから。


 それでも母の死をもたらす病を治すために、なんとか力を振り絞って一階まで降りてきた。リビングに戻ると、少女は自分の母が「なにやら申し訳なさそうな気持ちでいる」と気付く。嫌な予感がした。


「あのね、ごめんね。

わざわざここまで持ってきてもらって申し訳ないけれどね」

「……あまり聞きたくないかな」

「——ノートじゃなくて、メモだった」

「ヘボ、お母さんのヘボ」

「ごめんねえ。ほら、廊下の収納のところに、使用済みのメモ用紙がいっぱいまとめられているところ、あるでしょう? よろしく」


 少女は悪態を吐きながら、もう一度来た道を戻ってダンボール箱を仕舞って、帰り道のすがら例のメモがたくさん入っている小さな箱を持ち帰った。それはお菓子の箱のようで、中には小さな正方形のメモ用紙が、まるで宝石箱みたいに仕切られて収納されていた。


「それで、この中の、どのメモが必要なの?」

「さあ、どれかしら。ちょっと読み上げてみて」

「ハム、キャベツ、卵、トマト……

これはサンドウィッチのレシピ?」

「サンドウィッチかもしれないし、パイかもしれない。」

「だとしたら変わったパイだね。

そんなパイ、生まれてから一度も、食べたことないけど。

美味しかった?」

「忘れちゃった。忘れっぽい性格だから」


 性格じゃなくて、体質でしょ。彼女はそんなことを呟きながら、次のメモ、次のメモとそれらしきものを探っていった。

アプリコットジャムの作り方、三年前の五月の予定、結婚式の招待の日取り、アプリコットジャムの作り方、アプリコットジャムの作り方、家計簿、パソコンのパスワード。


「アプリコットジャムの作り方、覚えすぎじゃない?」


 少女は余分なアプリコットジャムと、——セキュリティ防止のために——パソコンのパスワードをメモした紙を、リビングの暖炉に燃やしてしまいながら、母に尋ねた。


「まあ、忘れっぽい性格だからね」


 忘れっぽい性格ならしょうがないか。と少女も納得して、次のメモを手繰ろうとして、思わず手を止める。ここから先は、メモの紙質が異なったからだ。少女は思わず取り出して、まるで鑑定士みたいによく観察すると、それは羊皮紙「風」の紙だと気づいた。


「なにこれ」

「さあ?」


 少女の問いかけに、母は曖昧な返事をする。羊皮紙風の紙に書かれていた言語は、少女の母語ではなかった。少女が今まで見たことのない言語で、細かい文字で、走り書きなどではなくきちんとした筆跡で、なにやらが大事そうにメモされている。少女は不思議に思って、母に尋ねた。


「なにこれ」

「アプリコットジャムのレシピ?」

「また?」

「——ああ、いや、待って。ちょっと思い出したかもしれない。

そのメモをよく見せてくれない?」


母は胸のポケットからメガネを取り出して、そのメモを見た。「もしかしたら見ているのではなく、読んでいるのかもしれない」と少女は思った。それにしても、いったい何語で書いているのかしら? それは少女が、全く見たことない言語だった。

なんてぼんやり考えていたら、母はいきなり「魔法少女!」と叫んだ。少女はびっくりして、今まで持っていたメモの箱を滑り落とす。母の方はちょっと興奮した様子で、少女の名前を呼んだ。


「いったい何? なんて言ったの、お母さん、そんな興奮してさ」

「魔法少女。そう、魔法少女よ。あなた、魔法少女におなりなさい!」


 この時、少女はとうとうお母さんは馬鹿になってしまった、と思った。少女は魔法使い、魔法少女のことについてそこそこの知識を持っていた。豊作のお祈りをしたり、怪しい薬を作ったり、舞を踊ったりしている人だということも知っていた。


「確かに、あの怪しい人たちの作る、怪しい魔法の薬なら、母の病気は治るかもしれない」少女はそう思った、が、「でも、魔法使いは気まぐれで、猫みたいな奴で、いつもどこにいるかわからない」と少女は考えていた。それに、魔法使いに弟子入りさせてもらえるか、誰も知らない。魔法使い以外は。


「魔法使い以外は。——って、考えているんでしょう?

 安心しなさい。これは一見メモに見えるけれどね、スゴいやつなのよ」

「スゴいやつ」

「そう、ベリーベリー、スゴいやつね」


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