第57話-「あなたにしかできないのです!」①

「なんでだ!」

「まあ落ち着けよ。焦るのはわかるけどさ」


 外の冷気が染み入ったかのように静かな朝の教室。

 嫌な沈黙を断ち切るように怒鳴った篤の肩に、竜也がぽんと手を置いた。


「そうだよ、早乙女くん。きっとユヅだって調子が悪いだけだよ」


 いつの間にか普通に話すようになった隣の女子も落ち着かない篤をなだめている。


「だってよ、なんの連絡もねえんだぞ! 病院行っても中野もいねえしさ。結局家も知らねえし……。もう時間だってねえのに……」


 弥生の死を受けてからの優月は、連日学校を休み、誰からの連絡にも返事がない。

 すでに木曜日を迎え、もし今日もまた休んでしまえば、優月との時間はあと一日。土曜日には出国の準備を整え、日曜にはアメリカに発つのが優月の予定だとみんな聞いていた。


 クラスでは明日に向けた送別会の準備が着々と進められている。そんな一日の朝だった。


 親しい人が死んだから少し疲れているんだ、とクラスの連中には言っておいたが、さすがに「このままアメリカに行くまで一度も学校に来ないのでは」という声も小耳に挟むようになった。


 だが、一番焦っているのはもちろん篤だった。

 優月とは結局、月曜のあれっきりで泣き顔が脳裏に焼き付いたままだ。

 それに弥生の葬式は密葬で行われることが決まり、しかも優月が日本を経った後。篤は優月の分もという意味で招かれている。なんとかそこで、優月を明るく送り出したと弥生に報告したかった。


 そのために篤も弥生の死で受けた動揺を抑えて、今週は放課後からでも遊べる場所をめいっぱい探した。竜也に相談したり、クラスの女子に頭を下げて教えてもらったり、全てを投げ出して優月のためにと必死だった。大好きなボクシングだってお預けにしてある。


 なのに、それなのに、優月はいっこうに連絡をよこさなかった。


 篤は頭を抱えて唸る。ちょうどその時、がらりと戸が開き、轟が教室に入ってきた。


 篤の悩みを意ともせず、一番前の優月の席を空けたままで、日常は始まろうとしている。轟が教壇に立ち、出席簿を開く。もちろん最初に呼ばれるのは相原優月だ。


 今日も轟の「相原さんはまたお休みですね」というため息が聞こえると思った最中、


「――グスン……うっ……うっ……」


 聞こえたのは何かを必死で堪えようとしているすすり泣きだった。


 篤が、竜也が、そしてこの教室にいる全員がその嗚咽の方を向く。

 黒板の前。この部屋の中央正面。泣いていたのは轟だった。


「な、奈菜子ちゃん……? いったいどしたの!?」


 突如、涙を流す担任教師にクラスは唖然となり、竜也は駆け寄って、轟を覗きこむ。すると轟は叫んだ。


「無理ですっ! ……そんなの私には無理ですっ! これでも私はこのクラスの担任なんです。一人のわがままなんかに付き合ってあげないんですからっ!」


 そして驚いて一歩下がる竜也を気にかけず、教壇の両端を掴むと喘ぐように言った。



「相原さんは……今日、日本を発ちます!」



「んなっ……!?」


 篤は立ち上がり、その場で固まった。

 教室中の視線が束になったように篤に向く。


「おい……篤、オマエ何も聞いてないのか?」


 竜也に問われ、篤は動揺の隠せない顔を横に振った。

 そんなやりとりを崩すように轟は潤む声で言葉を繋ぐ。


「早乙女くんも知りません。昨日の晩に相原さんの代理人という人が学校に来て、すぐに出国することになったと……相原さんの大馬鹿者っ……! なんで、なんで……」


 涙を必死に堪えながら、轟は二つの手紙を胸ポケットから取り出した。

 そのうち一つを開いて読む。


「これは相原さんからみなさんに向けてです……」


 書かれていたのは、みんなへの謝罪と感謝。そして優月の病気にまつわることだった。

 自分の命が五分五分だということ。みんなと別れるのが辛くて一方的にアメリカへの出発を決めてしまったこと。このクラスで過ごした僅かな時間はとても楽しくて、一生の思い出になったということ。


 轟はすすり泣きながら優月の正直な胸の内を読み終え、何人かの女子は同調したように涙を溢している。


「なんで……なんでだよ……」


 篤は俯いた。


「また……そうやって勝手にいなくなるのかよ……」


 拳を握りしめて唸る。

 優月は母親とは違うことはわかっているはずだ。

 なのに、左胸は抉り取られたように痛み、息が詰まる。


 呼吸が浅くなる。心臓がいたい。なんでだよ、くそっ、まだ笑顔にすらできてないのに。どうしてそうやって、俺の前からいなくなるんだよ……。


 握った拳が震える。

 その時だった。轟が力んだ篤の手を包んで、持っていたもう一通の手紙を差し出した。


「これは早乙女くんにです。本当は放課後に渡してほしいと言われたのですが、私はそんな一人の生徒のワガママを通すわけにはいきません」


 手紙と一緒に一つのメモが付いていた。それは轟の字。

 書いてあったのは空港とフライトの時間。今から約二時間半後のその時を示していた。


 篤が呆然とそれを見つめて黙ると、肩をばしんと叩かれる。


「行きなさい!」

「……え?」

「行きなさいと言っているんですよ!!」


 轟は叫んだ。


「まだ送別会で渡すはずだったクラスの色紙……渡せてないんです。だから早乙女くんが代表して渡しに行ってあげてください! 行かないと現文で留年させますからねっ!」

「なんだよそれ……」


 顔をあげるとクラスの連中も同じように「行け」だの「早く」だの訴えかけてくる。


「でも……」


 篤は口ごもった。行ったところで何ができるというのだ。きっと会いたくなかったから優月はこうやって別れることを望んだはずだ。なのに、わざわざ後を追ったところで……。


 篤が再び俯くと、その顔を叩きあげるように、竜也が胸ぐらを掴んで引っ張り上げた。


「だせぇ……今のオマエ、最高にかっこ悪い」

「あ? 竜也……なんなんだよ。いきなりどういうつもり――」

「どういうつもりは篤の方だろっ!」


 吐き捨てるように言って、竜也は篤を突き飛ばす。


「いつからオマエ、そんな情けなくなったんだよ。早乙女篤っていう人間はつべこべ考えずに、とにかく突っ込んでいく単細胞くそ野郎じゃねえのかよ?」

「てめぇ……」


 突然の竜也の言いぐさに篤は拳を握るが、ぐっと堪えた。それは竜也が自分を煽るためにわざとそう言っているのがわかったからだ。


「けどな。これだって優月が考えて出した結果なんだ。ここで俺が会いに行っちまったら、また優月を悲しま――」

「んなこと聞いてねえんだよ!!」


 竜也は話を遮って大股で詰め寄ると、篤の両肩を鷲掴んで叫ぶ。


「また優月が、かよ! 優月ちゃんに無理矢理彼氏にさせられて、優月ちゃんにかっこ悪いとこ見せられねえからって試合に勝って、そんで優月ちゃんが悲しむから行かない方がいい? ふざけんな! そうじゃねえだろ。オマエが……、篤自身がどうしてえんだよ! つい一ヶ月前まで自分の事しか考えられなかったような馬鹿が一丁前に他人の心情なんか察してんじゃねえ。だって篤は本当に優月ちゃんのことが――グフゥッ……」


 竜也が最後まで言い切る前に篤は殴った。

 気に入らなかったのだ。

 竜也が、ではない。そこまで言われないと踏ん切りがつかなかった自分が、だ。


 腹を抱えて苦痛に悶える親友に目を合わせる。


「上等だ。行ってやるよ」

「それでこそ……篤だな。てか今のは八割くらい込めたべ。かなり……痛ぇんだけど」

「ああ、悪い。それくらい力入れちまったかも」


 そういって笑うと。竜也は辛そうに顔を上げて、教室を目で一巡する。


「と……まあこういうことだ。篤が優月ちゃんに色紙を渡しに行く。異論はねえよな?」


 みんなが一斉に頷き、竜也はそれを確認して話を進める。


「よしじゃあ色紙だけど、」

「――まだ書いてない人がいるから、あと少しだけ待って!」

「OK。空港までの道のりは、」

「――駅までは俺のチャリ使え! 今鍵渡す」

「――電車は調べたから、早乙女くんにメール送信する」

「ありがと。あと、おい篤、電車代くらい」

「――妹尾っち、それなら送別会で使うはずだったお金が余ってるから大丈夫だよ!」

「ははっ、みんなマジ最高。ああ、そうだ空港に着いてからのことはオレに任せてくれ。なんとかしてみるから」

「みなさんっ! 本当に私は担任として誇らしいで――」

「ほらほら、奈菜子ちゃんはとりあえず落ち着いて座ってなって」


 篤が唖然とする中で、次々と手順が決まっていく。


「ほら早乙女、チャリの鍵だ。駐輪場の一番手前の赤いやつだから」

「あ、あぁ……。ありがとな」

「早乙女くんっ、電車は快速が一番早いからそれ以外乗っちゃだめだよ! 注意してね!」

「わかった。気をつける……」


 つい最近までは避けられていた男子から自転車の鍵を渡され、普段しゃべらない女子から乗継の説明を受ける。さらに「また遊びに来なって言っといてよね」なんて頼まれる。


 他にも篤には次々と優月への伝言が押し寄せてくる。

 そんな幾多のメッセージを処理しきれずにいると、竜也が一喝してみんなの声を塞いだ。


「おい、篤。みんなの伝言はまとめて『元気でな。また来いよ』で十分だ。それよりも篤自身が優月ちゃんになんて伝えるかだけ考えとけ」


 そう言うとクラスからは冗談交じりのブーイングが飛び、竜也は笑って「うるせぇー!」と怒鳴っていた。


 そんな喧噪の中で篤は頷き、考える。

 自分が何を伝えたいのか、そして去りゆく優月になんと声をかければいいのか。今から命をかけた勝負に挑む優月に何をしてやれるのか。


『――あたしの篤への応援すべてには勝利の魔法がかかってるから』


 優月は篤の試合直前にそう言っていた。それで自分は勝つことができたと思う。

 ならば、俺だって魔法をかけてやらなきゃいけないんだ。馬鹿みたいな話だけど俺にはそれをやる義務がある。残された時間で考えろ。なんて言いたいのか。そして優月に何がしてやれるか。


 篤は気合を入れ直すために自分の胸を叩いた。すると制服の下に着ていたパーカーからチャリン、と音がする。不思議になってポケットに手を突っ込むと、


「これは……」

『――ずっと大切にしよっ!』


 取り出したものから優月の笑顔が垣間見えて篤は無意識に頷いた。


「こんな縁起悪いもん。俺だって持ってたってしょうがねえんだよ」


 そして轟に問いかける。


「先生、事務員室の備品とか使っていいのか? あと技術室でもかまわねぇ、どうせ鍵とか開いてねえだろうからついて来てくれないか?」

「えっ、あっ、はい。いいですけど……」

「竜也! まだ色紙に時間かかるよな? 五分くらい俺も少しやりたいことが――」

「行ってこい! そのかわり早くしろ!」


 篤は頷いて、轟と教室を出る。

 そして数分後。篤は色紙とみんなの想いをバッグに詰めて教室を飛び出す。


「篤! 自分の正直な気持ち、優月ちゃんに伝えてやれ!」


 廊下に響く竜也の声に篤は右手を上げた。

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