第45話-「譲れない」③

 ――そんな篤があんなゴロツキ集団に負けたのだ。


 信じたくなかった。これまでの篤だったら絶対に負けなかっただろう。ならばこうなった要因は一つ。そこに相原優月がいたからだ。


 竜也にはなぜ篤の拳が届かなかったかわかっていた。それはたぶん、篤が優月にその姿を見せたくなかったからだ。篤は振りだした拳が止まってしまうほどに優月のことを……。


 考えれば考えるだけ悔しい。これを嫉妬と言ってしまえばおかしな話だが、滲み出す感情はそれに近かった。これまで一緒にいてどうしてやることもできなかった早乙女篤という人間を、相原優月はこんな短期間で変えてしまったのである。


 篤は自分でこそ気が付いていなかったが、とても幸せそうだった。そんな篤を見ているのも竜也は嬉しかった。だから今まで何も言わなかった。


 しかし、この現状を見て竜也は後悔する。なぜもっと思慮深く考えなかったのかと。

 母親の話、優月がもう数週でいなくなってしまう話。なぜ篤を選んだのか。なぜそんな中途半端なことをしでかしているのか。だって……この女はもういなくなる。


 なのに、なぜ、そんなに篤の人生に介入するんだ。もともとおかしな話だったんだ。篤の何かが変わればいいだなんてのは浅薄だった。こんなに篤を傷つけて、こんなにも篤の人生に影響して、それでいなくなるんじゃ、篤の母親と同じじゃないか。


 優月がいなくなったらまた篤は今みたいにボロボロになってしまうのではないか。

 それは……そんなの……俺が許さない。


「……なあ、優月ちゃん。悪いんだけど篤から手を引いてくれないか?」


 竜也は言った。


 言うべきではない。他人が介入して良いことではないのは痛いほどわかる。しかし、この役目は自分でなければできないとも思っていた。


 竜也は振り返らず言う。振り返らなくてもわかっていたのだ。優月がそれを拒否することを。篤と同等に、いや、それ以上に優月が篤を想っていることも見ていればわかる。


 だからこそ故にわからない。相原優月とはいったい何者なのか。何が目的で一ヶ月だけという期間をわざわざ設けたのか。それに先日の試合。篤がダウンした時のあの表情と言葉。いったい優月はなにを考えているのだろう。


「嫌……お願い、それだけは……いや……。あたしから……篤を取らないで」


 嗚咽に混じって優月のかすれた声が響き、竜也は決意して振り返る。そして痛む心と険しい表情で優月に詰め寄った。


「抱いてる感情は優月ちゃんとは違うけどさ、オレにとっても篤は大切な人なんだ。その篤がこんなに傷ついてまで優月ちゃんのことを想ってる。なのに優月ちゃんはあと少しでいなくなっちまうんだろ。そんなの……納得できねえんだよ」

「わかる。妹尾くんの気持ちはわかる……けど……」


 竜也は唇を引き締めた。横の中野は口を出さず、俯き気味で二人の会話を見届けている。

 そんな優月と中野を交互に見て、竜也は口を開いた。

 ここでしっかりとそのことを言ってやりたい。優月がしようとしていることが篤にとってどれだけ過去のトラウマを引き出させるようなことなのかと。


「じゃあ……篤がなんで女が嫌いなのか教えてやるよ――」



 

 ――すべて言い終えた時、優月はその場に膝をついて泣き崩れた。

 何度も何度も謝罪の言葉を口にして、背中で意識の無い篤に向かって涙をこぼす。


 やはり優月は知らなかったのだ。篤の母親は死んだものだと思っていたらしい。

 勝手に同じように母を失ったと解釈して、距離が縮まった気がして、それで喜んでいた自分が本当に憎いと、お団子頭を振りほどき、思いっきり自らの頬を手で叩きつけていた。


 そんな優月を必死でなだめる中野を見て、竜也はいたたまれない気持ちで目を逸らす。

 女の涙は幾度か見たことがあるが、こんなに後味の悪い思いはしたことがなかった。

 でもこれでいいんだ。これで篤は――。


「妹尾くんごめん、それでも……、それでも篤から離れたくない」


 竜也は逸らしていた目を戻して見開く。


「な……。今の話聞いただろ! それでも優月ちゃんは――」

「それでも……なのよ。譲れない」


 乱れた髪が覆い被さり、真っ赤になった優月の瞳からは今まで味わったことのない狂気を孕んだ意志が滲み出ていて、竜也は思わず息を飲む。


「お願い。あたしの話を聞いて……」

「お嬢様っ!? それは――」


 なにかを言いかけ、中野が驚いて牽制しようとするが、


「中野。いいのよ。本当は言わなきゃいけない事だったの。せめてでも妹尾くんにはきちんと伝えておくべきだった」


 優月はそれを振り切った。

 そして篤がまだ意識を戻さないことを確認して、しっかりと竜也に向き直る。


「さっき納得できないって言ったよね。別にこれを聞いたから納得してもらおうなんて思ってないよ。けどね、あたしやっぱり譲れないんだ。だからその理由だけでも聞いて――」


 優月は涙を拭きとりながら、柔らかく、でもどこか強さを秘めて話し始めた。


 いつの間にか心に同調するように空は泣き出しそうな顔をし始め、その中で優月は思いの丈を余すことなく伝える。そしてただ茫然と立ち尽くす竜也に「篤には内緒にしてね」と健気に笑う。


 それがあまりにも無理のある笑顔で、竜也は心臓を根こそぎ引き抜かれたように俯くしかなかった。

 言い返せないし、優月から篤を引きはがそうという考えも完全に失せてしまっていた。


 ただ思うのは、この二人を結びつけた運命の神とやらがいるのであれば、一発殴ってやりたいということ。でも、この二人だからこそ……そうなったのかとも思う。


 竜也は優月に一言絞り出すように謝ると、背中の篤に小さく語りかける。


「ごめんな、篤。優月ちゃんがいなくなったら、ちゃんとオレがサポートするからさ。今は優月ちゃんのために頑張ってくれ」


 優月が「ありがとう」と横で微笑む。

 ただ、ひたすらに寒い。凍えてしまいそうなほど冷たい冬の夕暮れだった。

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