第28話-「嫌だ……負けないで……」③

「よろしくな早乙女くん」

「ああ、どうも矢代やしろさん。……負けませんから」

「いきなりそれか。まあいい、それはこっちもだ。覚悟しておいてくれ」


 控え室を出てすぐ。矢代は笑って手を差し伸べてきた。

 金髪で篤よりも数センチ大きい対戦相手は見かけによらず社交的な男だ。試合前独特の緊張感は保ちながらも、好意的に接してくる。


 篤も返事をするのだが、気さくに話しているからといって特段やりにくさがあるわけではなく、互いに敵として認識していた。もちろん対戦相手として不備もなければ、その強さには尊敬すらしている。


 だが、


「なあ、さっき控室に来ていたのは相原優月じゃないか?」


 予想外の言葉に篤の矢代に対する感情は簡単に揺れた。


「小学校の後輩でな。相変わらず可愛くて衝撃を受けたよ。まさか付き合ってるのか?」

「……そんなかんじというか、そうでもないというか……、友達っすよ」


 ストレートにその手の質問をされたのが初めてだった篤は思わず無意味な嘘をつく。しかし、それは無意味なようで大きな落とし穴だった。


 矢代は篤の言葉を聞くと、どこか安心したような顔で口を開く。


「友達……か。よし、じゃあ俺が今日の試合に勝ったら、デートでも誘ってみるかな」

「え!?」

「ん?」

「いや、べつに、なんでもないっす」

「そうか。まあな、実はあの子のこと結構好きで、中学入ってからも地元で見かけた時は話しかけたりしてたんだぜ。悲しいことにあっちは覚えてないみたいだけど」

「そ、そうなんすか……。いや、でもデートって――」


 そこまで言いかけたところで案内係に会場へ呼ばれる。


「まあ、だからと言って気なんか遣わなくてもいいから、全力でこいよ」


 冗談染みた笑顔で先に会場に入る矢代を篤は遠い眼で見送った。


 不思議だ。なぜか頭と心臓では違うことを考えているような錯覚に陥って、深く息を整える。この人に勝ちたい。そう思って見ていた矢代の背中は、意識のどこかで絶対に勝たなくてはいけない相手になっていた。


 しかし、どちらにせよ勝利するつもりだ。結果としては変わらない。先程と何一つ違いはない。揺れるな。ただひたすらに倒せ。そうでなければ……殺される。


 そう頭に言い聞かせて、篤は自らの頬を叩く。

 無論、リングに上がると矢代から発される空気に先程の面影はなかった。


 その小さな箱庭は生きるか死ぬかの戦場だ。敵を屈服させるという強い闘志だけが濃霧のように渦巻き、ヘッドギア越しに見える相手の眼光がびりびりと四肢に刺さる。


 熱くて静かすぎる空間で邂逅の一瞬を待った。無限に長い六分間が始まろうとしている。

 レフェリーが中央に二人を呼びよせて、軽い拳での挨拶が交わされた刹那――ゴングが鳴った。

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