第7話-「あたしの彼氏になりなさいっ!」②
「ゲイチキンって言ったことは謝るわ。ごめん」
「全部謝れ。そんで納得できないからちゃんと説明しろ。まずそのナースは誰だ」
「まあまあ、ちょっと待ってて」
思考停止した頭を思いっきり振って顔を両手で叩いた後、篤は相原の上から芝生に腰を移した。相原は涙の溜まった目じりをセーターの袖でこすりながら立ち上がると「完全に想定外だった……」と溢しながら、中野と呼ばれたナースのカメラを覗きこむ。
「あら、よく撮れてるじゃない! でかしたわよ中野っ!」
「でっ、ですがお嬢様……、これはあの方に失礼過ぎるのでは……」
ナース中野がこちらを横目で見ると「ひぃ」っと声を上げて、また顔を背ける。この反応はなんとなく轟に似ているから違和感がなかった。
「いいのよ。これくらいやらないと篤くんは――」
「なにがいいんだ? あと軽々しく俺のことを名前で呼ぶな」
「いいったら、いいの。それにこれから毎日名前で呼び合うようになるんだから、そんな細かいこと気にしないで」
気にするというよりは癪に障る。篤は訝しげに相原を睨んだ。
「まあいいわ。ちゃんと説明してあげるから。あたし達のこれからのことも踏まえてね!――ってことで、まずこれはあたしのお付きの中野。お手伝いさんだと思ってくれればいいわ。でも職業は本物の看護師よ」
中野が「先程は失礼しました」と頭を深く下げる。お付きというとメイドのイメージだが、目の前にいるのは確実にナースだ。メイドでナース。白が基調という意味では同じような気がしなくもないが、そういう話ではない。
「そして次にこれを見なさい」
相原が意味深に微笑むと、中野が小声で「すみません」と謝りつつ、カメラのプレビューを見せてくる。そこにはいかにも不良少年が美少女を押し倒し、胸を揉みしだいている写真。まさに先程の二人を客観的に写していた。
「おい、まさかこれを――」
「ばらまくつもりよ」
語尾にハートでもつけるように相原は片目を瞑る。
ふざけるな。いくら他人のことが気にかからないと言えど、そんなことになればさすがに周りの目が気になってしかたない。
「てめえ。ぶっ壊してやる」
篤は考える間もなく即座に飛び起き、中野の持つ一眼レフに向って、鋭く右ストレートを放った。
だが、
「ご、ごめんなさいっ!!」
瞬時に身を翻した中野によって、それを阻まれる。しかもそれだけではなかった。中野のか弱い手は篤の拳をカメラに届く瀬戸際で下に弾き落としていた。
見切られた? いや、そんなはずはない。まぐれか。
篤は驚いたが、いたって冷静に次を撃つ。
身体を反転させた中野の胸元にぶらさがるカメラに得意の左フックを叩きこもうとする。
右ストレートからの速攻左フック。少しコツはいるが、並みはずれた身体能力を持つ篤にとって、これは中学時代から相手をねじ伏せるための十八番だった――が、しかし、
「すみませんっ!」
同様に中野は人間離れした反射神経でそれをかわす。左足を軸に踊るようにまた反転。そして一瞬で死角に回り込み、掌底を篤の真横で寸止めした。
横顔には中野の小さな手の平から放たれた突風がかすめ、篤は思わず声を失って、大きく一歩退く。
そこで気が付いた。一発目もまぐれなんかじゃない。動きにまるで無駄がなかった。
たしかに標的はカメラで、女だから本当にあたったら困ると手は抜いていた。しかし、いともたやすく避けられるようなほど、篤はぬるいパンチを出してはいない。
というかなんだこの得体の知れない底深さは。今までだったらこれで相手は倒れなくとも膝をつくくらいはする篤の連続攻撃をゆうにかわして立っている。それに中野は道端の子猫のように不安げにこちらを見つめていた。
拳があたらない。仮に自分が殴られても、殴り返し、ねじ伏せることしかしてこなかった篤にとって初めての感覚だった。当然のように困惑する。しかも相手は情けない容貌の女。底の見えない相手に対して、篤は試合さながらの集中力でファイティングポーズを構えていた。
じりり、と間合いを詰めると、それに怯えるように中野は大きく一歩後ろへ下がる。
肌を触る空気は張りつめ、眼が捉えているのはカメラではなく、もはや中野自身だった。
「――はい、はいはい。ストォップ! もうやめなさい、篤くん。君のパンチは中野には、もちろん彼女が持っているカメラにも当たらない」
篤の目が獰猛な猛禽類のそれになった瞬間、緊張を溶かすように相原のため息が聞こえる。
「女子相手に本気でそんな顔しないで。それに……無理もないわ。中野はあんな感じだけど、少林寺拳法と合気道の師範代よ。だから言ったじゃない、あたしの
「ひとつも納得できねぇ」
「いいから、少し、冷静になって、話を聞いて。お願い」
相原は一つずつ丁寧に諭すように言って、篤の前に立つ。
その影で視界に中野が入らなくなり、篤はしぶしぶ構えを崩した。
「おまえ……本当にどういうつもりだよ」
「とりあえず謝るわ。ごめんなさい。それにあの写真をばらまくってのも半分冗談。でも半分は本気。だからあたしの話を聞いてほしいんだけど……OK?」
写真はあっちが持っている。今自分が不利な立場にあることは沸騰しかけの頭でもよくわかっていた。だから顔を逸らすことで了解の合図とする。
「うん、ありがとう。じゃあ話をさせてもらうわね。とは言ってもさっきの続きなんだけど、やっぱり――」
相原は軽く息を吸い込むとぐっと喉元で溜めて、
「君、一ヶ月限定であたしの彼氏になりなさいっ!」
不敵に微笑んだ。その瞳にはひとつの迷いもない。
さきほどと二人の関係もそれほど変わっていない。むしろ悪くなっているようにすら思う。それに依然お互いのことなんてわかっちゃいない。この場の空気も、流れる風も、なにひとつ変わってなんかいない。
けど相原は再びそう言った。
もちろん篤の答えも決まっている。それが意味のなさない答えだとしても、自分の信念でそう返す。
「断る」
「はぁー。本当に強情っていうか……わかってないわね」
篤の返事も相原にとってはもう想定の範囲内だったようで、先ほどのように慌てることなく、どこか演技じみたように顔をしかめてみせてきた。
「じゃあ、あの写真をばらまくわ。なんならあれを持って出るとこ出るわよ」
返せる言葉がない。あまりにも理不尽すぎる。篤は拳を強く握って唇を嚙んだ。
すると相原は不満そうに口をつんと尖らせるが、急に真剣な顔で、
「あたしもこんなやり方は間違ってると思う。けど時間も余裕もないのよ。それに一ヶ月の期間限定だから、ね?」
前かがみに篤を覗きこんだ。
黒くて真珠のようにぱっちりとした、でもどこか切ない色を醸す瞳がすがるように見つめる。桃色でなにかを求めるような柔らかい唇は引き結ばれた篤のそれに向き、その淡い灯のような相原の表情に思わず言葉も感情も失った。それを篤は自分でも感じていた。
『――ごめんね、篤。でもお願いよ、許して……』
篤の記憶を割くように浮き出る風景。暗い部屋、自分とあの女。
悪いと思っているのに、身勝手だと自覚しているのに、それでも無理強いてなにかを求めようとする瞳。
篤はこの瞳を昔一度、止めることができなかった。止めようとしたからといってどうにかできた問題でもなかったが、やっぱり駄目だった。
そして、それをまた篤は受け入れようとしていた。自分の信念とは違う。でも断り切れなかった。
「――ッ。どうせ俺に断る選択肢はないんだろ」
「えっ!? それは良いってこと?」
「ちっとも良くなんかねぇ。けどそうせざるを得ないなら、そうするってだけだ」
強要してきた分際でなぜか聞き返してくる相原に舌打ちすると、そいつはぱぁっと顔を輝かせる。
「ほんとのほんとに? やった! やったわよ中野っ! あたし口説き落とした!」
「口説き落とされたわけじゃねえ」
篤がぼやくのを気にもせず、相原はいつの間にか遠くまで避難していた中野に手を振る。
それを返すように中野も微笑ましく手を振ると篤にむけて一礼し、役目を果たしたようでそのまま視界からフェードアウトしていった。
中野が帰ったのを確認して相原は振り向く。
「さてと。目的も済んだし、あたし達も教室に帰ろっか!」
「はぁ? いや、待ておい。他にも聞きたいことは山ほどあんだよ。まず付き合うって言ったっておまえとなにすれば――」
そこまで言うと相原はびしっと人差し指を篤の口に押し付けて「シャラーップ」と笑う。
「それは順を追って話していくわ。けど今は帰らないといけないの。ここに来るのだって、先生に呼ばれたって適当な嘘でみんなを待たせて来てるんだから! ほら、あたし今人気者でしょ? シンデレラはそんな長くいられないってわけ。わかる?」
「わからねえし、わかろうとも思わねえ」
「まあとにかくあたしは戻るわ。あと今日の放課後から一緒に帰るから、よろしく」
「は? よろしくってどういうことだよ?」
「カップルは一緒に下校するものよ。それに名前で呼び合うの。いいわね、篤?」
「いや、おま――」
「優月よ。おまえ、って老夫婦じゃあるまいし勘弁して。ちなみに篤に断る権利はないことはもうわかってるよね?」
「てめぇ……」
「てめぇ、もなし! 優月よ! リピート、アフタミー、ユ・ヅ・キ! OK?」
明るく、小馬鹿にしてくるような優月に篤はこめかみをひくつかせるが、もうこうなっては仕方ないと頭を掻く。そして腹をくくろうと諦めたが、
「まあ、これくらいはいいよな?」
遠くに優月の
「えっ、ちょっ、今の気に障った? もしかして本当に殴ったりしないよね……?」
「さあ、どうだろうな?」
優月は青ざめて後ろを振り返るがすでに中野はいない。
「え、嘘でしょっ!? ごめんなさい!! だからちょっとタイム! タイム!」
「タイムは……相手が倒れた時しかねえんだよ」
「い、いやぁっ!!」
優月が悲鳴を上げるのと同時に篤の拳が一閃を貫いて、優月の額ぎりぎりで止まる。もちろん本当にあてるなんてまねはしない。
両手をグーにしたまま子どものように固まった優月の右目が恐る恐る開き、篤を見た。
泣きそうに怯えた瞳が篤の視線と交差した瞬間。
「気に障ってるのは、さっきからずっとだ!」
すぱんっ! 額の前で寸止めした拳から怒気を込めた中指だけを思いっきり弾いた。つまりは篤が撃ち出す、たぶん並みの人間の数倍は痛いであろう……デコピン。
「――いいぃぃぃっだぁぁぁぁあああぁぁ…………」
叫びも出ずに優月は悶絶してその場にしゃがみこんだ。
しかし口をへの字にして赤くなったおでこを顕わに、負けじとすぐに立ち上がる。
「おお。根性あるな、おまえ」
「だから、グスッ。お、おまえじゃなくて、ゆ、優月よ……だぁぁぅぅぅ」
そして、やっぱり額を押さえてへたり込んだ。忙しない傲慢っぷりに篤は思わず笑う。
しばらくして優月はやっと起き上がると恨めしそうに篤を睨み、「覚えてなさいっ! けど、とにかく今は教室に戻るっ!」と半泣きで背を向けた。
篤は聞きたいこと、納得いかないことが山ほどあったが、とりあえず一時のいらいらをデコピンで解消したので良しとした。
だが、一番の疑問だけはここで解消しておきたかったのでやっぱり呼び止める。
「おい! おま……優月、だっけ? とりあえず一つ聞かせろ」
すると優月は額を擦りながら、ちゃんと名前で呼ばれたことに驚いた顔をそのままに振り返る。唖然として固まった優月に篤は問うた。
「なあ……なんで俺なんだ?」
二人の間を駆け抜けた一迅の風が優月の髪をしなやかに揺らし、その表情を涅色のカーテンの向こうに隠す。それを優月が払って綺麗にまとめた時、篤は呼吸を失った。
髪を払った手を耳元でそのままに小さく首を傾けて、優月は少し恥ずかしそうに篤を上目遣いで見つめる。白玉のような頬をほんのり紅く染めながら、相原優月はおしげもなく微笑んだのだ。
「――そんなの決まってるじゃない。あなたが一番良かったからよ。篤」
そう言って、髪を横に靡かせると「放課後にね」と投げキッスをし、優月は身を翻す。
篤は錯覚を見せられたかのようにその場で固まった。理由はわからないが、身体が動こうとしなかったのだ。
ここは十月末の桜並木。当然桜は咲いていない。
しかし、篤を包む感覚は満開に輝いた桜吹雪の中に立つような、それ。
タイムリミッドまであと二十日弱。忘れもしない秋晴れの昼下がりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます