5 不可視なる毒
「大丈夫、大丈夫よ」
トロメーオ夫人の励ましの声に突き動かされながら、すすり泣く声を内包した集団は地上の柵をくぐるように地下に掘られた、真っ暗な緊急脱出口をランプの明かり片手に歩いていた。村の計画では、村において有事が起きた際に女子供はここから脱出することになっている。トロメーオ夫人が持つ一つのランプ片手に、暗く涼しい穴の中をゆっくりと進んでいった。
ふいに、先頭を歩くトロメーオ夫人は前方で影が異様な動き方をしたように見えて、足を止めた。そしてじっと前方の暗闇を見つめる。何かが動いたような、そんな気がしたのだが、この裏口にそうそう大きな生き物はいないはず。見間違いか、と杞憂に澄ましたところで、常闇に潜んでいた者は動き出す。
パリン、と夫人の持っていたランプが割れて火が消えた。視界は一気に闇に覆われ、悲鳴と泣き声が穴の中を反芻する。夫人もすぐさま悲鳴を上げてしまうそうになったが、ランプを見っていた右腕に違和感を感じて左腕でそこを恐る恐るなぞってみた。突起物が腕から垂直に生えており、それがランプを貫き腕に刺さったナイフだと理解した途端に痛みと恐怖がこみ上げ、1人遅れて甲高い悲鳴を上げる。
「――」
何かが俊敏に動くかすかな音。しかしそれは密閉の暗闇空間にばらまかれた阿鼻叫喚により、完全なる無音と化す。その影は素早く悲鳴のひとつひとつをつぶしていき、女であろうが子供であろうが関係なく打ち振るった。闇からの奇襲に、戦闘経験もない彼女らが対応できるはずもなく、次々と悲鳴は消えていく。その意味を理解する間もなく、最後の一振りでその穴ぐらはしんと静まり返った。
木刀を片手に、暗闇に潜み彼女らに不意討ちしたイブリースは、ふうと息を吐いて木刀を壁に立てかける。暗闇に慣れた目でさえも、光の届かぬ穴の中は気を抜けば何も見えなくなってしまう。慎重に、緊張を抜かすことなく、小さなナイフを取り出した。それから、そのナイフで木刀の打撃により気絶した彼女らひとりひとりに、5センチほどの切り傷をつけていく。ひとりひとり、全員に傷がつくように、それは暗闇の中でゆっくりと静かに執行されていった。
――息絶えたものに意味はない。生きているものにこそ意味がある。イブリースは、気絶した彼女たちを置いて村へ向かっていった。
村の中での戦闘は、どう見てもオーガたちの優勢だった。オーガの大きな巨体とそれを覆うぶ厚い皮は、村人の持つ腕力と武器の刃を軽く凌でいるからだ。トロメーオはまたひとり、またひとりとオーガに殴られ倒れていく村人たちを見て、怒りを募らせていく。
「――っうぉおお!」
トロメーオは青いハチマキをつけたオーガ、インホルトに向かって駆けだした。それを見たインホルトは近くにいた村人を遠くへ投げると、どっしりとトロメーオに向かって構える。両手で薙刀を握り、トロメーオの特攻を完膚なきまでに叩き潰すつもりらしい。
トロメーオの槍による突きがインホルトに放たれるも、巨体ながらにして鋭敏な感覚による回避により、いともたやすく避けられる。同時に振り下ろされた薙刀の刃がトロメーオを襲った。
しかしこれをトロメーオは槍を回転させて弾くと、すぐにまた攻撃へと転じる。インホルトはまさか反撃してくるとは思わなかったのか、虚を突かれて回避に間に合わず、槍の長いリーチを利用した分厚い皮のない眼球を一閃斬られ、思わず薙刀を放り投げて悲鳴を上げながら両手で斬られた目を覆う。そんな不意をトロメーオと、その周りにいた村人が見逃すはずもなかった。村人たちの足への攻撃により、さらに態勢まで崩されて尻餅つくインホルト。この時点ではっとするが、もう遅い。傷ついた目から手の覆いを取り去った眼前には、自らに槍を向けた怒りの形相のトロメーオがいたのだから。その刃は無慈悲にもインホルトの無事だった方の目を貫き、そのまま後頭部を通過して頭を貫通した。ピクリ、と大きく体を振動させるが束の間、次から次へと周りの村人から無数の刃が降り注ぎ、頑丈な皮を持つとはいえど、その力に及ばず緑色の鮮血をまき散らしながら震えて絶命していった。
「貴様ァアアアアアア!」
仲間の死を見た、装飾もない普通のオーガ、ホルストフは歯を思いっきり噛みしめ、周りにいた人間などお構いなしにトロメーオへ突っ込んでいく。トロメーオの周りにいた村人は一目散に回避するが、トロメーオは逃げださなかった。今度は自らが迎え撃つつもりのようだ。トロメーオは緑色の血液に染まった槍を構える。
ホルストフによる、走りの速度と体重をかけた決死の掌底打ちをトロメーオは冷静に見破り、迫ってくるホルストフの掌に槍を突き刺した。厚い皮も、相対的なものではあるがあれほどの速度と力が加わった突きには耐えられないだろう。右腕をもらった、とにやりと勝ち誇るトロメーオに反して、ホルストフは槍が腕の中を貫通していくのにも関わらず、そのまま腕を押し続けた。トロメーオは青くなって、すぐさま槍を投げ出し身を横に投げ出した。このオーガは、自分の右腕を犠牲にしてまで、自分を押し殺すつもりだったのだと、その体格ゆえにできる力業とその執念に身ぶるいする。槍に持ち手がいなくなったことで、槍によるホルストフの右腕の貫通行為はなくなり、数センチ刺さったところで刃の進行は止まった。掌底が空をかいたホルストフは、血走った目で身を投げ出し回避したトロメーオを睨む。そのまま叫んで手のひらから腕に刺さった槍を一気に抜いて、真っ二つに割った。
武器を失ったトロメーオに、もう攻撃の手段はなかった。すぐに立ち上がって逃げようと駆けだすも、すぐ後ろには黄色いバンダナをつけたオーガ、テゴットがすでに接近しており、その太い腕で捕まってしまう。他の村人はトロメーオを解放させるべく、怒り狂い危険そうなホルストフの方ではなく、テゴットに向かっていき攻撃を繰り出すが、圧倒的な筋肉による蹴り技により、それはかなわない。トロメーオは拘束され動けない中で、のそのそとゆっくり、自分を血走った目で睨み、右腕から緑色の血液を垂れ流しながら近づいてくるホルストフを、見ていることしかできなかった。
「死ね!」
ついにトロメーオの目の前に迫ったホルストフはそう叫ぶと、彼の顔を左右から両手で叩き潰した。完全に潰してホルストフの重なった両掌から赤い液体とひき肉がはみ出ていからも、念入りにぐちゅぐちゅと練りこみ、それからようやく手を離した。首から上の何もかもを失った体はピクリとも動くことなく、テゴットの腕の中でだらんと残った。テゴットも顔がつぶれたとなると、その体を投げ捨てて最後に巨大な足で踏みつぶした。トロメーオの、もう人間ではなく肉として存在する体を、テゴットは追い打ちとばかりに踏み慣らしていく。それを生き残った村人たちは、煮えたぎった思いで睨むことしかできなかった。
「もう、皆殺しだァァァアァアア!」
ホルストフの怒声が村だけでなく、森中に響き渡る。生き残ったテゴット、赤いバンダナのオーガ、ゲルハも同意の咆哮を上げる。
「ッ!! トロメーオ村長の、犠牲を無駄にするなァァアア! いくぞ!」
勇敢にもオーガの1体を刈り取ったトロメーオの雄姿に激励された残りの村人たちも、さっきまで感じていた恐怖を振り切ってオーガに対抗すべく雄たけびを上げた。
士気が上がった両者はこの瞬間だけ睨み合うと、何が合図になったのか、双方とも駆けだした。巨体と多勢、そちらの属している生き物にしても、勝つという闘志は過激なまでに膨れ上がっている。
――それを影から盗み見る、ただ1人を覗いては。
「ウ、ゴ、ォォアァアァアアッあぁあ!」
突然、駆けだしていたはずのオーガたちが濁声を上げながら、足を止める。駆けだしていた村人たちはその不可解な行動に、思わず距離を取った。
濁声の次には、体中をさすりながらもがき出していく。オーガたちは、まるで体の中にいる虫を潰そうとしているかのように、体中をかきむしった。村人たちは突然すぎるその奇行に、攻撃しても大丈夫なのかと動けずにいる。
と、そんな中影にいた男がようやく舞台に上がってきた。コツコツと他人のリズムに流されない、一律した足跡に村人も気づいて目を丸くする。
「い、イブさん?」
村人の、それは期待か、それは疑心か、それとも怪奇か、数々の目線と漏れた呟きに目もくれず、イブリースはオーガと村人の真ん中へ歩いていく。
「オーガ1体と、人間数人……。この戦いで出た損失です」
抑揚の感じられないイブリースのしゃべり方に、オーガのうめき声以外には声が上がらなかった。上げられなかった。彼らの本能というべき器官が、警告をしている。村人は、イブリースに何もできなかった。。
「命というのはとても貴い。自然発生もしないので、今存在している命ひとつひとつに、価値があるのです」
何を言っているのか。誰もが理解できなかった。いきなりこの場に現れ、何を説くつもりなのか。村人が息を呑む。
――刹那、風が変わったのをこの場にいた誰もが察知した。何かが、変わる。
イブリースは白く鋭い歯を噛みした。
「
それは、憤怒。ただ純粋な怒りの呪詛。その場にいた全ての生に無差別の憤怒を浴びせた。
言葉の憤りに感化されたのか、もがき苦しむオーガの各箇所が突然に膨れ上がっていった。口、両手、胸、そして腹が緑色の皮を伴いゆっくりと膨らんでいく。何が起こっているのか分からないオーガに対し、イブリースは最後の啖呵を吐き捨てた。
「
膨れ上がった箇所が破裂し、緑色の鮮血が水風船が破裂したときの水のように、辺りに飛び散った。それからイブリースはその醜悪な者どもに唾を吐く。異様な光景に村人たちは問答無用に圧せられ、日の出を迎えたばかりだというのに太陽から見放されたかの錯覚に陥った。
刹那、イブリースを達観する村人のひとりの頬に鋭くも小さな痛みが走った。頬に手を当てると赤い血がついていて、それが切り傷であることを理解するころにはその男の体は痺れて動けず、そのまま倒れていた。イブリースの投擲したナイフが、地面に落ちる。
それが開戦の合図となった。イブリースは村人の集団へ両手にナイフを持ち駆けだした。村人も硬直から溶けたのか、困惑しながらもそれを迎え撃とうとする。
村人の男の剣が振り下ろされるも、イブリースはそれをすらりと避けると、その男の頬にナイフで軽い切り傷を残し、そのまま流れるように次の村人へと向かっていった。その男はイブリースがどうして自分をスルーして次の村人へ狙いを変えたのか、どうしても解せないもののすぐにイブリースの背中を追う。が、駆けだしたところで足が震えだし、視界がぼやけていつの間にか地に寝そべっていた。
イブリースは多数の村人に対し、ひとりひとりを確実に仕留めようとするどころか、ただ軽い傷を残して放置するのだから、先までの行動からして戸惑っている村人にさらなる戸惑いを与えた。異質さ、それが村人の行動と思考を縛り、さきの闘志はどこへやら、全てを消極的にさせている。――何がしたいんだ、コイツは。村人のそういう思考が他とシンクロして普段の行動を起こせぬまま、イブリースは斬撃は一閃ずつ、生き残っている村人に浴びせていく。リーチで負けている槍相手にも、イブリースの戦術は極めて簡単で浅い。ヒットアンドアウェイ、というよりはヒットアンドエスケープだ。
だが、その戸惑いも時間が経つにつて消えていく。イブリースは敵なのだと、村人が理解していくがそれはすでに遅かった。
――すでに、残りの毒が、暴れ出しているから。
声も上げられず、倒れていく村人たち。縦横無尽に動き回っていたイブリースは、足を止めると乱れた呼吸を整える。痙攣して倒れている村人たちを見下ろして、言った。
「いただきます」
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