第10話 転生Ⅲ
「商人の気持ちも分かる。私の態度は、どう見たって冷やかしだ。自分が冷やかされて、気分の悪くならない人はいない。だから、私も次の露店を探した。食べ物屋がダメなら、『服屋の商人に聞いてみよう』とね。私はある服屋の前で止まって、相手に先程と同じ事を聞いた。相手は私の質問に苦笑したが、質問自体には『ιτ』と答えてくれた。実に感動的な場面だよ。答えの意味は分からなくても、その態度がとても嬉しくてね。思わずニコッと笑ってしまった。
私は辞書の一頁目を開いて、商人に『それ』を渡した。和葉辞典は『日本語として訳されたパティア語』は探せても、『パティア語として訳された日本語』は探せ……いや、探すのが難しいからね。だからどうしても、相手に今の単語を書いて貰わなければならない。私は、相手の目を見た。そして、目ぶり手振りを交えながら、相手にその事を伝えた。相手は、私の意図を理解した。相手が辞書の空白に何やら書きはじめると、私も黙ってその様子を眺めつづけた。
相手は私の目をチラリと見て、それから私に辞書を返した。『ありがとうございます』と、その商人にお礼を言う。商人は、私の言葉に苦笑した。私は店の前から歩き出して、今の商人に書いてもらった文字を読みはじめた。商人の字は汚く、かなり読みづらかった。その文字に苦笑する。だがその好意は嬉しかったので、特に不快な気持ちは抱かなかった。辞書の後ろ側にある頁を開く。辞書の後ろ側には、『和葉辞典』の逆……つまりは『葉和辞典』が設けられている。その頁は少ないが、和葉辞典を助ける役目としては、十分な量だった。その頁を開いて、商人の文字を訳していく。
『水が飲みたければ、町の川にでも飛び込んだらいい。あそこには、嫌と言うほど水があるからな。お前みたいな浮浪者には、最高の場所だろうよ』
私は、その言葉に愕然とした。相手は親切で、私の質問に答えたのではない。私の事を見下していたのだ。国の言葉も分からず、その存在自体が汚らわしい私の事を。その現実に絶望する。誰も知らない土地で、ただ一人、今の現実と向き合わなければならない現実に。私は、市場の中を歩きつづけた。上を見上げず、また下も見下ろさないで。私の目はずっと、前を向いたままだった。……市場の外に出た。市場の外は静かで、人がほとんど歩いていなかった。その光景にホッとする。孤独である事には変わりなかったが、誰かに自分の心を犯されるとよりはずっとマシだった。
私はその安心感に満足する一方で、商人の言っていた川とやらを探しはじめた。町の川は、すぐに見つかった。市場の通りからしばらく歩くと、道の先から音が聞こえてきてね。『まさか』と思って駈け寄ってみたら、目の前に大きな川が現れた。川の上には、石造りの橋が架けられている。橋の表面には、いくつかヒビが入っていた。橋のヒビから視線を逸らす。川の水面は、お世辞にも綺麗とは言えない。もっと言えば、かなり濁っている。私は、その川をしばらく眺めつづけた。
『どうしよう? この水は、流石に』
心の迷いに苛立った。本音を言えば、飲みたくない。でも飲まなければ、死んでしまう。商人達の態度を見れば、水の入手は絶望的だった。私は、生唾を呑んだ。渇きはもう、限界に来ている。喉の渇きを取るか。それとも、自分の健康を取るか。そんな下らない事で、迷っている場合ではなかった。私は一つの覚悟を決めて、川の水を飲んだ。川の水は、不味かった。言葉では言い表せない、微妙な味わいが口の中広がった。でも……両手で救った水を何とか飲み干した。それに合わせて、目から涙が溢れた。涙は私の頬を伝って、地面の上に落ちて行った。
私は、両目の涙を拭った。今の悔しさは、拭い去れない。でもだからと言って、こんな所でくたばるのは、あまりにも悔しすぎる。その悔しさには負けたくなかった。私には、生の欲求がある。「どんな事があっても、生きつづけてやる」と言う欲求だ。その欲望に従って、二杯目の水に口を付けた。……時間が進んで、昼になった。朝食は食べられなかったから、昼食にはどうしても有り付きたい。背中の鞄を背負い直して、町の中にまた入って行った。町の中は、人で溢れていた。道行く人々はまた、華やかな服を身に纏っている。彼等はおそらく、この町に住んでいる貴族達だろう。相手と口調はもちろん、その態度にも上品さが窺えた。
私は、彼等の姿に目を奪われた。転生する前は色々なパーティーやら集まりやらに出席してきた私も、彼等の雰囲気にはどうしても気後れしてしまってね。彼等が町の中を歩いている間、私も黙ってその様子を見つづけていた。『そうだ!』と閃いたのは、一人の貴族がこちらに視線を向けた時だった。相手は楽しげな顔で……おそらくは、その好奇心を刺激されたのだろう。彼が私の所に歩み寄っている間、私も鞄の中から辞書を取りだした。
『す、い、ま、せ、ん』
相手は、私の発音に驚いた。
『ξΩμΕηΓ?』
『水、食料、無料、貰える、場所、何所?』
相手はまた、私の発音に驚いた。でも、質問にはちゃんと答えてくれた。βΩΙΦΛ』とか何とか。私はその答えに『あは』と笑って、相手に右手の日葉辞典を渡した。辞典の頁を開いてさ。私が目ぶり手ぶりでその意図を伝えると、相手も楽しげな顔でその意図に応えてくれた。相手は辞書の空白に答えを書いて、私にそれを返してくれた。
『少し待っていろ。家から食べ物を持ってくる』
救いの言葉だった、
私はその言葉に感動し、目の前の青年に何度も頭を下げた。
『ありがとう、ありがとう』
相手はその言葉に微笑んで、私の顔から視線を逸らした。視線の先には五人、おそらくは彼の友人達だろう。友人達は、私の姿を笑っている。友人達の所に戻った彼も同じだ。彼等は私の姿をしばらく眺めて、それから町の東側に向かって歩き出した。私は、彼等の後ろ姿を眺めた。彼等もまた、私の事を蔑みに来た人間達だった。彼等の態度に苛立った。彼等の背中に鞄を投げつけなかったのはおそらく、ギリギリの所で『それ』を抑えたからだろう。見掛けの歳は彼等よりも若いが、中身の方は彼等よりもずっと年上なのだ。ここは常識ある大人として、その態度を見せなければならない。私は不安な気持ちで、彼等の事を待ちつづけた。彼等は、一時間ほどで戻って来た。彼等の腕には食料が抱えられていて、その両手にも水の入った容器が握られていた。彼等は、私の前で足を止めた。そして、私に向かって麻袋を投げた。麻袋の中には、食料が入っていた。私は複雑な心境で『それ』に手を伸ばしたが、私が『それ』に触れた瞬間、青年の一人が私に向かって水を掛けた。水は、とても冷たかった。
『何するんだよ』と怒鳴ったが、相手は『それ』に怯まなかった。それどころか、訳も分からない言葉を言って、私の事を睨みつけてくる。彼等は、私の事を嘲笑った。
私は彼等の顔に一発食らわせてやろうと思ったが、彼等が私の前から歩き出してしまったので、その拳を仕方なく引っ込めた。彼等のいなくなった後は、静かだった。私の周りを歩いている人はもちろん、道の隅っこで相手と話す貴婦人ですら声を潜めている。私は地面の麻袋を持って、その場からゆっくりと歩き出した。入手の経路は最悪だったが、それでも食べ物を得た事には変わりない。足取りが軽くなった。気持ちの方も何故かホッとして、町の川まで戻って来た時にはもう、彼等の対する怒りを忘れていた。
私は、橋の下に座った。橋の下にいれば、雨風をしのぐ事ができる。鞄の中から食料を取りだした。食料はどれも、美味しそうだった。火が使えないので温かい物は食べられないが、『贅沢は言っていられない』と思い直して、彼等のお恵みにガブリと噛み付いた。私の昼食は、十分くらいで終わった、自分の隣に麻袋を置く。麻袋の中にはまだ、彼等から貰った食べ物が入っている。食べ物に関する知識はあまりないが、それでも『二、三日くらいなら大丈夫だろう』と思って、とりあえずは『これで何とか頑張ってみるか』と落ち着いた」
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