第7話 領主の正体

 記憶の流れが止まりました。記憶の流れを止めたのは、ダリアの足下を駆け回っている一匹のネズミでした。ダリアは足下のネズミを追い払おうとしましたが、ネズミの方が一枚上手でなかなか上手く行きませんでした。


 ネズミは、彼の足下を走りつづけました。その光景に苛立ったがダリアでしたが、諦めに近い感情を抱いてからすぐ、不機嫌な顔で部屋の壁に寄り掛かりました。「好きにしろ」と言った後は、悲しげな顔で蝋燭の灯りを見つめました。彼が蝋燭の灯りを見つめている間、ネズミもその周りを走っていましたが、彼の表情に感じるものがあったのか、彼の周りをしばらく走り回って、それから床の穴にひょいと入ってしまいました。

 

 ダリアは、蝋燭の火を消しました。疲れの方は感じていませんでしたが、何となく起きているのが嫌になったので、今日はもう寝ようと思ったのです。床の上に寝そべると、その瞼をゆっくりと瞑りました。瞼の上には、暗い空間が広がっています。空間は、周りの音を鮮明にさせました。獣達が動き回る音、梟の鳴き声、近くの家から聞こえて来る楽しげな会話。

 

 ダリアはそれらの音をしばらく聞いていましたが、領主の顔が脳裏を過ぎった瞬間、その顔に意識を奪われてしまいました。領主の顔は、「ニコッ」と笑っています。その笑顔は昔と変わらず、キラキラと輝いていました。「くっ」と、その顔に苛立ちます。


「『私は、君と話がしたいだけ』か。ふん、下らない! 俺と何を話そうって言うんだよ。自分の自慢話か?」


 ダリアは領主への嫌悪感を膨らませる一方で、その来訪に胸を高鳴らせました。



 自分一人で服を着替えたのは何年ぶりでしょう。普段は召使いの女性が手伝ってくれるので(本当は遠慮したいのですが)、今朝は何だか不思議な気分です。

 領主は服の襟元を正し、部屋の中から出て、今日の朝食を食べました。今日の朝食はいつもと同じメニューでしたが、何故かいつも以上に美味しく思えました。

「朝食とは、こんなにも美味しい物だったのか?」と。椅子の上から立ち上がった時は、その口元に笑みを浮かべてしましました。


 領主は食堂の中から出て行くと、モルスに用件を話し(「今日は、大事な用があるんだ」)、館の外に出て、いつもの馬に跨がり、その馬を勢いよく走らせました。馬は、何処までも走りました。町の水車小屋を通りすぎ、パン焼き竈の前を横切った後も。その足を決して止めようとしません。

 それどころか、走れば走るほど、その速度が上がっていきます。まるで主人の気持ちを代弁するように。道の途中に障害物があっても……周りの農奴達から「おはようございます、領主様」と挨拶された時は別ですが、その速度はまったく落ちませんでした。

 


 周りの景色が変わりました。周りの道を歩く農奴達はもちろん、その家々もほとんど見られません。視界の大半を占めるのは、広くて美しいライ麦畑です。


「自分の土地は、良く見られない。彼も哀れだな。こんなにも美しいライ麦畑を『淋しい所』と決めつけるなんて」


 領主はライ麦畑から視線を逸らしましたが、ダリアの姿を見つけた瞬間、そのダリアに向かって手を振りました。


「おおい、ダリア」


「あっ」と、その声に驚くダリア。「領主様」


「約束を果たしに来たぞ」


 ダリアはその言葉に呆れましたが、内心では「それ」を嬉しく思っていました。


「それは、律儀な事で。俺としては、約束を破ってくれた方が」


「約束を破るのは、良くない。信用は、愛情の次に大事な物だ」


「ふ、そうかい。俺は、そうは思わないけど」


 領主は、その言葉に微笑みました。


「まあ、そう言う考えもあるだろう。私は、『それ』を否定しない」


 を聞いて、ダリアの顔が歪みました。


「否定しない、か。ふん! 良い人ぶりやがって。俺は、そう言う」


「なんだ?」


「……いいや、何でもない。アンタの事を少し、見下したかっただけだ」


 領主は青年の目を見つめ、青年も彼の目を見返しました。


 二人は無言で、相手の目をしばらく見つめ合いました。


 最初に「フッ」と笑ったのは、領主でした。


「本当に静かな所だな。人の姿がほとんど見られないし、それに」


「な、なんだ?」


「君のご両親は?」


「え? くっ! 俺の親に何か」


「『用がある』と言うわけじゃない。ただ一応、挨拶はして置こうとして思ってね。今日は私の都合で、君の自由を縛るんだから。それは、やっておかないと」


 ダリアは、その言葉に暗くなりました。


「俺の親はいない」


「え?」


「ずっと前に死んだ。二人とも同じ病気で」


「そうか」


 領主は、彼に頭を下げました。


「すまない。君には、辛い事を」


「『聞いてしまった』ってか? ふん! アンタだって、人の事は言えないだろう? 自分の家族に死なれて。アンタは」


「……ああ、そうだな。私も君と同じ境遇だった」


 ダリアは、彼の言う境遇に苛立ちました。


「ふん、何が同じ境遇だよ? ぜんぜん違うじゃないか? アンタは、封土のみんなから好かれている。その反対に、俺は」


「そうしてしまったのは、君自身の責任だろう? 自分から調和を乱して、その報いに」


 ダリアは、彼の言葉を無視しました。今の言葉にカチンと来てしまったからです。彼は右手の拳を握って、領主に殴り掛かりました。


「アンタに何が分かる!」


 領主は、その拳を避けました。


「ふん、遅いな。君は、人を殴り慣れていない。そんな人間が」


「うるさい! そんな人間でも、一発くらいは」と言ったものの、彼の拳はやはり当たりませんでした。するりと躱される、彼の拳。拳は宙を舞って、その体勢ごとよろけてしまいました。


「ちっ!」


 領主は、彼の動きに目を細めました。どうやら、相手の隙を見つけたようです。彼は「ニヤリ」と笑って、相手の腹に一撃を加えました。


「あっ、ぐっ」と、それに悶えるダリア。「この」


「残念だが、そんな人間じゃ相手に一撃も入れられないよ? 『喧嘩』と言うのは」


 ダリアの咳が聞こえました。


「理由が分かったよ、アンタが俺の所に来た理由が。アンタは」


「んん?」


「俺の事を虐げに来たんだ。領主への貢納はもちろん、竈の使用料だって満足に払わない俺を。アンタは!」


「違う」


「何が?」


「私は、君の事を虐げに来たんじゃない。本当に話がしたかっただけなんだ。『ダリア』と言う農奴の青年と。私は、君と良く似た少年を知っている。彼もまた、自分の罪悪に苦しんでいた。その詳しい内容は……フッ、私が一方的に話してしまったからな。内容の方は、まったく聞けなかったが」


 領主は、彼の肩に手を置きました。


「ダリア」


「ああん?」


「私は、君の事を救いたい。君が抱えている悩みや恨み、その諸々から『君』と言う人間を解放したいと思っている。だから」


「なるほど。それで、俺の昔話を聞きたいって言うのか?」


「そう言う事だ」


 ダリアは、その言葉を笑いました。


「領主様、アンタは本物の糞野郎だな。大して親しくもない相手の悩みを聞いて、それを解決しようだなんて。まともな人間の考える事じゃない。アンタは、偽善者だ。相手の悩みを解決する一方で、本当はそうしている自分に酔っているだけなんだよ。俺は、自分の過去を話さない。たとえ、アンタに殴られてもさ。『どうしても聞きたい』って言うのなら、まずはアンタの過去から話すのが筋ってもんだろう? ええ?」


「う、うううん」


「なんだ? どうしたよ? 話せないのか? え? フフフ、アンタはやっぱり偽善者だな。封土のみんなは騙せても、俺の目は騙されない、俺は最初から、アンタの事を怪しいと思っていたんだ。その綺麗過ぎる顔はもちろん、何から何まで完璧だからさ。人間とは、思えない。アンタは」

 

 ダリアは、領主の肩に腕を乗せました。


「本当の事を言うと、人間じゃないんじゃないか? 姿や形は人間でも、その正体は醜い化け物だったりして?」


 領主は、彼の「化け物」に反応しました。


「そうだな。考え方によっては、私は十分に化け物かも知れない」


「え?」


 を聞かず、ダリアに微笑む領主。


「良いだろう。私の正体を話してやる。但し」


「あ、ああ、分かっているよ。『それは、誰にも言うな』って言うんだろう? 悪党が好きな言葉だ。本当はすぐに見つかるって言うのに、何遍も同じ事を言って」


 領主は彼の言葉に苛立ちましたが、「ここで怒っても仕方ない」と思い直して、自分の過去をゆっくりと語りはじめました。

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