最終話 現実

 心に力が入らなかった。町の風景もぼやけて見えて……意識の中に入ってくるのは、『友達といつも帰り道を歩いている』と言う感覚だけだった。


 友達は、義郎の事を心配した。理由はよく分からなかったが、彼の表情は覗いてみたり、あるいはその足取りを眺めたりすると、どうしても「大丈夫か、義郎。何かあったのか?」と話しかけずにはいられなかった。

 

 義郎は、彼らの声に応えなかった。「んっ」と黙ったままで。義郎がその口を紡いでいる間、彼らも不安げな顔でその様子を眺めていたが、ある程度眺めつづけると、彼の表情から視線を逸らして、親友の少年に視線を移した。


「義郎の奴、どうしたのかな?」


 少年は、その質問に答えなかった。彼もまた、義郎の態度に首を傾げていたからだ。


「義郎……」


 少年は、義郎の表情から視線を逸らした。周りのみんなも、それに倣う形で義郎から視線を逸らした。彼らは黙って、義郎の周りを歩きつづけた。いつもの本屋まで行くと、義郎がみんなに向って「じゃあね、みんな。また明日」と言った。


 彼らは、その挨拶に応えた。


「ああ、じゃあな」


「また明日」


 義郎は彼らの笑顔から視線を逸らして、自分の家に帰った。家の玄関で靴を脱ぐと、家のダイニングルームに行って、鞄の中から弁当箱を取りだした。義郎がキッチンの流し台にそれを置いた時、母が彼に向って「どういたの? 義郎。今日は、何だか暗いわね」と聞いた。


 義郎は、その震えを誤魔化した。


「え? 暗くないよ、普通、普通」


「そう、それならいいんだけど」


 義郎は、ダイニングルームの中から出て行った。ダイニングルームの外は明るかったが、気持ちの方はと暗いままだった。部屋の中に入って、自分のベッドに勢いよく寝そべる。学校の制服は、脱がなかった。上着の第一ボタンに手を伸ばした瞬間、その右手がと止まってしまったからだ。部屋の天井を睨む。


「ちくしょう」


 義郎の目から涙があふれた。


 義郎はその涙を拭おうとしたが、親友の少年から「今日の放課後、何かあったのか?」と言うコメントが送られてきた瞬間、その気持ちを少し抑えて、親友のメッセージに「お前の言う通りだったよ」と答えた。


 そのコメントから数秒後、コメントの返事が送られてきた。「お前の言う通りだったって、どう意味だ?」と言う内容だ。


「言葉通りの意味だよ。お前なら絶対に分かるはずだ」


 義郎はベッドの上にスマートフォンを放って、部屋の天井をまた睨みはじめた。



 今夜の夕食は、父の大好きな麻婆豆腐だった。


 父は喜んでその麻婆豆腐を食べたが、義郎が哀しげな表情を浮かべている事に気づくと、皿の中にレンゲを戻して、彼の顔をじっと覗きこんだ。


「どうしたんだ? 義郎。気分でも悪いのか?」


「うんう、大丈夫だよ。ただちょっと、疲れているだけ」


「そうか」


 父はまた、好物の麻婆豆腐を食べはじめた。彼がうれしそうな顔で皿の麻婆豆腐を食べている間、テレビの画面から「将来の夢は」と言う声が聞こえてきた。テレビの画面には、義郎よりも年上の若者たちが映っている。


 義郎は、彼らの夢に苛立った。


「夢じゃ、人の愛は買えないよ。人の愛を買えるのは」


「そんな事は無いぞ。たとえ金が無くても、人の愛は十分に買える。世間の奴らがどう思おうとさ、それは変えようの無い真実だ」


 義郎は父の言葉に救いを感じたが、母の「でも、愛の持続にはお金も必要よ(彼女は冗談のつもりで、夫の言葉に『ふふふ』と笑った)」を聞いてからすぐ、その気持ちを「くっ」と引っ込めてしまった。


 義郎の目が苛立った。


 義郎は自分の椅子から勢いよく立ち上がり、それから部屋の出入り口に向って歩き出した。


「もういいの?」と、母親が聞く。


「いらない!」


「義郎?」


 を無視して、ダイニングルームの中から出て行った。


 両親は、互いの顔を見合った。


「疲れているだけじゃなかったのか、アイツ」


「思春期と言うか、あの年頃は面倒臭いからね。色々と」


 母は温かな目で、父の表情に「うん」とうなずいた。


 義郎は、部屋の中に入った。その表情は暗く、目の瞳もと鋭くなっていた。部屋の中を荒らしはじめる。本棚から何冊かの本を取りだすと、部屋の床に向ってそれを叩きつけた。本はその衝撃で、ブックカバーが外れたり、その表紙がグニャと曲がったりした。


 義郎はそれらの本を叩きつけた後も、黙って部屋の中を荒らしつづけた。ベッドの枕元に置いてあるデジタル時計を壊し、机の上に置かれている辞書や教科書などを崩して。それらを崩し終えたら、次は引き出しの中を荒らしはじめた。引き出しの中は綺麗で、物がほとんど入っていなかった。


 義郎は夢中で、引き出しの中を荒らしつづけた。彼の右手がピタリと止まったのは、彼の瞳にある万年筆が映った時だった。彼は心の怒りを少し忘れて、その万年筆に手を伸ばした。


 万年筆はあの時と同じ、そのキャップが綺麗に付けられたままだった。その万年筆を握る、有りっ丈の力で。彼が万年筆の表面を握っている間、彼の中である言葉が蘇った。『彼』の言っていた「未来があって羨ましいな」と言う言葉だ。


 彼は、その言葉に苛立った。


「何が未来だよ? ふざけんな! いくら未来があったって」


 義郎は男の万年筆を投げ捨てようとしたが、その行為に対する悔しさを抱いた瞬間、自分の右手から力を抜いて、ガクッと項垂れてしまった。

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