第189話 取引をしましょう!

「アウロラ……もしかしてそいつが……?」


 アウロラは何も答えない。

 しかしバルバロスとアウロラの様子から、目の前の魔族の女がヴェロニカである事は明白であった。


「一号、遅い! 危うく私が殺されるところだったぞ!」


「一号……? 鮫、ふざけんじゃねェよ! そいつにはヴェロニカって立派な名前があんだ!」


 バルバロスがタタールに食ってかかる。


「マスター、それはコレが人間だった頃の名前でしょう? この愚鈍な女はもう人間ではない! 私が創り出した最初の下僕魔族、だから一号と呼んでいるのです。……この女の魔力量は人並みでしたが、それでも魔族化したことにより、人間族では敵わないほどの戦闘力を手に入れています。マスター、戦ってみますか?」


 俯き、首を左右に振るバルバロスをタタールは鼻で笑い、それからアウロラに向き直る。


「……さて、アウロラさん。常人とはかけ離れた、途轍もない魔力を持つ貴女なら、どれほど強大な魔族になるんでしょうねぇ? 一年前にあなたを見つけてから、ずっとあなたを下僕にする日を夢見ていました。魔族になったあなたを従えれば、私がこの世界を統べることも可能になるはずです! さぁ、今度こそ私の呪いを受けてもらいますよ!?」


 そう言って、タタールはアウロラを見ながら下品な笑みを浮かべる。

 その時、タタールの片目が淡い赤色に輝いていた事にグレインが気付く。


「あれは……あの目は、洗礼の時に見覚えがあるぞ。確か、神官が使っていた鑑定能力、だな? ……そうか、それでアウロラの魔力を看破して、自分の下僕に加えようと狙撃を……」


 グレインは自らのほろ苦い記憶とともに、目の前でタタールが発動している能力を推測する。

 しかしアウロラは、そんなタタールには目もくれず、ヴェロニカの元へと駆け寄る。


「ヴェロニカ! ……生きてたんだね……よかったー……」


 次の瞬間、魔族の女は羽虫でも払うかのように、両手を広げて駆け寄ったアウロラの腹部を右手であっさりと貫く。


「……っ! ヴェ……ニ……カ……」


 ヴェロニカの腕をアウロラの腹部から流れ出た血が伝っていく。


「アウロラ!!」


 みるみるうちにアウロラの顔は蒼白になっていくが、彼女は背後のグレインに振り向くことなく、ヴェロニカに笑顔を向け続けている。


「アウロラさん! い、今回復をっ……」


「おい『一号』、何をしている!! その女は折角見つけた素材なんだ! 殺されると困るんだよ! 分かったらさっさと治せ、この愚図が!」


 ハルナが口を開くと同時に、タタールもヴェロニカを怒鳴りつける。

 ヴェロニカはタタールの命令に反応して、右手をアウロラから引き抜く。

 口と腹部から同時に大量の血を吐き出しながら、アウロラの身体はその場に頽れる。


「おい、さっさと治せと言ってるんだ! 治癒魔法は使えるだろう! 折角の素材が死ぬだろうが! 一号!!」


 しかしヴェロニカはそれ以上動くことはなかった。

 見れば彼女は、両腕を必死に抑えて涙を流している。

 その瞳には、次第に広がっていく血溜まりの中に倒れたアウロラの身体が映っている。


「ハルナ、頼む!」


 グレインは叫ぶと同時にハルナを強化し、ハルナは魔法真剣の刀身を創り出しながらアウロラの元へと駆け寄る。


「グレイン、アウロラさんが意識を失った所為で、タタールの周囲に張っている障壁が消えかけている! 僕はタタールを何とかするから、その間に二人でアウロラさんを頼む!」


「分かった! ……アウロラ、こんなとこで死ぬなよ! お前にはちゃんと裁きを受けてもらわないといけないんだからな」


 グレインは、アウロラの身体に魔法真剣を突き刺しているハルナの元まで駆け出す。


「ヴァアアアアァァァァ!!」


 突如、ヴェロニカが叫びながら、苦しそうに地面をのたうち回る。


「私の命令に背いた所為で、契約違反の懲罰が発動したか。まったく、どこまでも使えない女だ……。まぁいい。あの女の命は勝手に繋いでくれるみたいだからな。一号、さっきの命令は取り消してやる。だからさっさとこの氷を砕いて私の身体を自由にしろ」


 地面に倒れて苦しんでいたヴェロニカがその動きを止め、息を整えて立ち上がった瞬間、彼女の足元にトーラスの黒霧が立ち込める。


「ごめんね、貴女にはちょっとだけ退場していてもらうよ。……僕はグレインと違って、女性に手荒な真似はしないから大丈夫」


 トーラスがそう言うと、ヴェロニカの身体は地面にめり込むように、足元の黒霧に沈んで消え失せる。


「な……。おい貴様! 一体何をした……? 一号、どこへ行った! 早く私の所へ来い!」


「さてさて、あなたの命令と契約は、無事に次元を超えて彼女のもとへと届くのかな?」


 トーラスが笑顔でタタールの方へと歩み寄る。

 タタールは目の前でヴェロニカを消し去った男に恐怖を感じ取る。

 トーラスは見かけ上笑顔ではあるが、彼の目は一切笑っていなかったのだ。

 彼の身体を中心にして、黒霧が薄らと漂い、緩やかに渦を巻いている。


「貴様……何をする気だ!?」


 タタールはそう言いながら、完全に虚を突いた形で、口内に隠し持っていた予備のパイプから呪いの針を射出する。

 しかし、その針はトーラスの周囲に渦巻く黒霧に触れた途端、粉々に崩れて散っていった。


「……ヴェロニカさんの代わりに、僕がその氷を砕いて自由にしてあげるよ」


「……は? この霧は……? ま、待て! そのまま私に近付くと……」


「そうだね。あなたの手足を拘束している氷と一緒に、あなたの身体も粉々に砕け散るかもね」


「ちょ、ちょっと待とう! 君! いえ、あ、あなた様がひょっとして、闇魔術師のトーラス様であらせられますか?」


「……もしそうだとしたら、何かな?」


「そ、そのご高名はかねがね噂で聞いております! ここはひとつ、取引! 取引をしましょう!」


 タタールは相変わらず首から上しか動かない状態であるが、それでも慌ただしく頭を動かし、表情を変え、トーラスと話をしようと試みる。


「へぇ……取引ねぇ。どんな取引かな?」


「あなた程の実力があるのでしたら、是非とも闇ギルドに入りませ──」


「よし、決めたよ。ヴェロニカさんを元の人間に戻す方法を教えてよ。教えてくれるまで少しずつあなたの身体を粉々にしていくからさ、教える気になったら言ってね。教えてくれれば少しずつ削るのをやめるよ」


 トーラスはタタールの言葉を無視して条件を告げ、再び歩き出す。


「そ、それは取引ではなく脅迫ではないですか!」


「……細かいなぁ。そんなの取引でも脅迫でも何でもいいよ。僕はただ君に向けて歩いていくだけだからさ。……ほら、早く教えてくれないと少しずつ削れていっちゃうよ?」


 黒霧の外縁部がタタールの足元に到達し、氷もろとも彼の爪先を削り取っていく。


「いひぎゃあああぁぁぁぁぁぁ!!! ひ、ひゃだ! お願いひまひゅ! 助けて……」


 痛みと恐怖のあまり呂律が回らなくなるタタール。


「……じゃあ、教えて? ほらほら、取引だよ?」


 相変わらず笑顔を崩さないトーラス。


「ひ……しらない! 知らないです! 私はただ、首領にお、教わった魔族化の呪いを吹き矢に込めただけで! 戻し方なんて知らないんです!」


「ふぅん……。その……首領って何者なのかな? 会ったことある?」


「わ、我らが首領、ギリアム様は、ま、魔界より到来された、偉大な魔族の王。この呪いを授かるにあたり、なな、何度か直接お会いしましたが、と、とても聡明な方です。あ、あなたほどではありませんが! きききっと、貴方もギリアム様の事を気に入るに違いありません」


 するとトーラスは小さく溜息を一つ吐く。


「なるほどね。闇ギルド首領の話はなかなか興味深かったけど、肝心の呪いについては──」


「ぐぅぅっ! あがごぉっ!」


 トーラスがそこまで言ったところで、タタールは急に苦しみ出す。

 それを見てトーラスは悔しそうに舌打ちをする。


「ッ! これは……契約か。……ごめん、グレイン。呪いについてはこれ以上の情報は得られなさそうだ。首領の情報を漏らしたから契約が発動したのかなぁ?」


「ぐっ、ぐるじ……だすげで」


「しょうがないけど、約束通り少し情報を話してくれたから『少しずつ』削るのはやめる。『一瞬で』あなたの身体を粉々にしよう」


 言うが早いか、トーラスの周囲に渦巻いていた黒霧がタタールの全身を包み込み、断末魔の叫び声を残して彼の身体を跡形もなく消し去った。


「お前……ちょっと強すぎるだろ……。それに引き換え、ただハルナを強化するだけの俺って……」


 トーラスとタタールの一部始終を見ていたグレインは、そう言って溜息を吐いたのであった。

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