第172話 あの書庫

「あの得体の知れない黒い霧が船の上に出現したときは、私も命懸けでティグリ……ティアを守らなければと思い、本気で身構えたよ。でもハルナさんがすぐに、あの霧は見覚えがある、トーラス君の魔術に違いないと断言してくれたお陰で平静を取り戻すことが出来たんだ」


「事前にお知らせもせず、安易に転移魔法を現出させた僕の責任です。……多大なるご心配とご迷惑をお掛けしました事をここにお詫び申し上げます」


 グレインは、下船直後にハイランドにぺこぺこと頭を何度も下げて謝り倒すトーラスを横目にしながら、ナタリアと話をしていた。

 そのトーラスの隣にはティアとハルナも立っている。


「なぁ、それにしてもあの書庫、すごい蔵書量だったよな!」


「それはそうだけど……全く意図がわからないわね。あんなの船が沈んだら、大量に溜め込んだ本が一瞬で水の泡よ? 所有者のリスク管理がなってないんじゃないかしら」


 興奮気味のグレインに対して、冷や水を浴びせるように現実的なコメントを返すナタリア。


「リスク管理とか、どこの管理職のコメントだよ……。あ、そういえば冒険者ギルドの幹部だったか」


「サラン支部、だけどね。……みんな元気にやってるかしらね。とりあえず追手は来てないみたいだけど」


 そう言って、遠く水平線の彼方を見つめるナタリア。

 潮風に黒いショートヘアをなびかせるその横顔に、暫しの間見惚れてしまっていた事に気付いたグレインは、慌てて話を続ける。


「いや、でももう隣国に逃げ込んじまったからな。流石に容疑者の捜索だって言っても、騎士団を他所の国まで派遣できないさ。ましてや国家反逆罪なんて取ってつけたような罪状だしな」


「みんなが騎士団にひどい目にあわされてなければいいんだけど……」


「まぁ、そこは上手くやるだろう。俺よりもランクが上の冒険者だっていっぱいいるしな。……それよりも自分の心配をした方がいいだろ。今の俺達の方がよっぽど危険な状態だと思うぞ」


 そう言って肩を竦めるグレイン。


「……それもそうね。偽リーナスが現れたってことは、闇ギルドにはあたし達の所在が割れてる可能性が……」


「とりあえずリーナス一行の目的の解析はトーラスに任せるとしよう。あの謝罪会見が一段落したら、人目につかない所でな……」


「……そうね」


 ナタリアは短く呟くと、疲れ果てたように長い溜め息を吐く。

 トーラスは、アウロラの手によって最後に消滅させられた弱気リーナス以外の死体を闇空間に収納して船から持ち出しており、それを解析して彼らの目的を暴こうというのだが、やはり死体を見るのは気が重いのである。

 グレインもそれを察して、会話の空気が重くならないように話を無理矢理路線変更する。


「……とりあえず話を戻すぞ。結局あの本は、北の大陸への船旅がよっぽど暇だったから、暇潰しに本を読み漁ってたんじゃないか?」


「ダーリン、そこなのじゃが……どうも、あの本と旅の目的が関連しているように思えてならんのじゃ」


 そこへ、黙って話を聞いていたサブリナが、グレインの背後から現れ、思いつめたように深刻な顔でそう話す。


「うわっ! いつから聞いてたんだ!?」


「ちょうど今なのじゃ。何やら二人でこそこそと……いやらしいのう」


「いやらしくないよ! 大した話じゃないし……。それで旅の目的……確か家族旅行というかバカンスだったよな」


「表の目的ではない! 裏の方じゃ!」


「いや、むしろ家族旅行が裏の目的なんじゃないか?」


「じゃあ表の目的……ってそんなのどっちでもいいのじゃ! ……ダーリンにはあの本が読めたかの?」


 サブリナにそう聞かれて、グレインは息を呑む。


「言われてみれば……いや、まぁほとんどまともに見てないが、背表紙の文字すら全く読めなかったような……」


「そこで疑問に思わないあんたって一体どういう神経してんのよ。正直、あたしは恐怖を感じたわよ。謎の言語で書かれた大量の本に囲まれて……とにかく不気味だったわ」


「まぁ、本には全く興味ないしな。表紙を見てるだけで眠くなるんだよ」


「……本を開くことすらしない訳ね」


 グレインに呆れた様子のナタリア。

 そこへサブリナが咳払いをして会話を切る。


「二人とも、よいか? あの本は、全て古代魔族文字……つまり古の魔族に伝わっていた文字で書かれていたのじゃ。つまりあの書庫の持ち主は魔族と何らかの関わりがあるということであって、更にこの船は魔族が住んでいたという北の大陸へと向かっていた……」


 サブリナはそこまで話すと、目の前に停泊している船をぼんやりと眺める。


「……つまり、船の持ち主は魔族文字本のコレクターってことか?」


「もしかしたら魔族からその本を強奪して転売、大儲けしようって輩だったかも知れないわよ?」


「読めない本を誰が買うんだよ……」


「それもそうね……。燃やして暖を取るぐらいしか使い道がなさそうだし」


「いや、それは勿体ないだろ!」


「何が書いてあるか分からなかったらただのゴミよ!」


「いや、それは読める奴がいればいいんだろ? ……あ」


 次第にヒートアップしていくグレインとナタリアであったが、突如グレインの動きが止まる。


「ん? 急に固まっちゃってどうしたのよ」


 ナタリアは首を傾げるが、グレインの目はナタリアではなく、自分の隣に立ち、まだ船を見ているサブリナに向けられていた。


「……なぁ、サブリナはあの本を読めるのか?」


 しかしサブリナは瞑目して首を左右に振る。


「残念ながら、あれはもう失われた文字なのじゃ。妾にも古代魔族文字という事しか分からん」


「そっか……。そりゃそうだよな……」


 肩を落とすグレインとナタリア。


「……ただ、この場に読める者がおらんと言っている訳ではない」


「ん? どういう意味だ?」


 首を傾げる二人を横目に、サブリナは傍らの人物に目を向ける。

 偽リーナスの処分という、船での目的を達成したと主張する彼女は特に何もすることが無いようで、右手をセシル、左手をリリーに握られたまま下船後も港から離れられずにいた。


「アウロラ、もしや……お主ならあの文字が読めるのではないか?」


「……えっ、なんの話かなー?」


 アウロラは聞こえないようで耳に右手を当て……ようとしてセシルに繋がれていることに気が付き、ただ首を傾げて棒立ちしている。


「あの船にあった書庫の本の話じゃ。お主なら読めるのではないか? ……古代魔族文字を」


「……えっ、なんの話かなー?」


 アウロラは再び耳に左手を当て……ようとしてやはり左手もリリーに繋がれている事を再確認し、リリーと目を見合わせて笑う。


「……ノーコメントでー」


 アウロラはそう言って微笑むが、それはグレインにもはっきりと分かるほどの作り笑顔であった。


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