181枚目 「鑿と鎚」


 僕、キニーネ・スカルペッロ=ラールギロスの気が変わる前に握り返して来た元針鼠の手のひらは想像していた以上に武骨で、豆を潰した痕が幾つもあって、お世辞にも優しい雰囲気は欠片も無くがっしりとして逞しく、紛うことなく剣士のものだった。


 彼の手には、碌に剣を振ったことも無い僕のふにゃふにゃした白い手のひらとは違って所々に赤みや黒い痣が見て取れた。それらが、聖樹教会でラエルさんが見せてくれたものと同じように粉かなにかで隠している傷痕なのだと。気付いた頃には。


(――なんだこれ)


 僕は何処でもない場所に居た。見覚えのない空間に放りだされていた。

 何処までも真っ白な、それでいて灰色な、目を凝らせば漆黒の箱の中。


 落ちるでもなく浮き上がるでもなくフワフワと膝をかかえた体制で、僕は浮遊している。


(部屋らしい壁は見当たらないけど、出られる気もしない。か)


 身を捩れば、案外思い通りの体制を維持できた。現実の水中や空中ならこうはいかないだろうけど。ここは現実と乖離した空間なんだろう。


(あんなに煩かった心臓が静かだ……でも、ゆっくり脈打ってる)


 ゆったりと冷静に思考が進む。


 解術の瞬間に意識が吹っ飛んでいる最中なのかもしれない。流木で堰き止められた川が鉄砲水になる要領で、僕の脳内は解術後に溢れた色々なもので氾濫を起こしたのだろう。


(っていうか。どうして裸なんだよ)


 日の光を避け、焼かぬように魔法薬で守られている黄色味がかった白肌をなぞる。

 細身の身体も灰色の髪も、あの男と瓜二つだろう身体が、一糸もまとわずそこにある。


(……意識の中なら、想像力で服を着るくらいはできるのかもな)


 やってみる価値はあるか、と。僕は青灰を閉じた。


 普段着にしているパーカーと、愛用しているチェック柄のハンチング帽。

 それから、魔法具としては使わなくなったハーフリムの眼鏡。

 細身のズボンに革靴。お気に入りのループタイ。


 あれこれ想像して恐る恐る目を開き直してみれば、そこには服を着た自分の身体があった。

 敢えてまで想起しなかった木製リストバンドも両腕に嵌っている。なんだ、陰謀論好きの想像力も捨てたもんじゃないらしい。


 その調子で乱れた髪を纏め上げ、僕は上下の分からない空間で取り敢えず、立つ。


 ゆらゆらと地面を探す足元が心許無いが仕方がない。体制を整え、服を着ただけで何も進展していないが――まずはどうしてこんなことになっているのかを考えてみることにした。


 即ち、自分に施された無魔法『魔法の無効化マジックキャンセル』とそれに伴う解術現象についてである。


(普通、魔術には対応する解術式が用意されてる。『呪いカース』なら『解呪デスペル』、『回線ライン』なら『断線カット』とセットで使われる。……解術式がない魔術には詠唱冒頭に解術宣言デスペルコールが必要になるけど)


 ハーミット・ヘッジホッグが僕に施した無魔法には『詠唱』が存在しなかった。


 熟練者になれば解術宣言デスペルコール程度、無詠唱で発動可能なのだろうが。まだ魔術士見習いの僕からしてみればそれはいただけない。


 解術宣言デスペルコールを付与した詠唱すら聞けないとなれば、何をどれだけ解術したのかすら分からないのだ。


(接触による無条件の強制解術現象。だとしても、重ね掛けされた魔術は一番新しいものから砕けるはずだ。それが、一気に砕け散ったのだとしたら……僕の体内は魔力が暴走して手が付けられない状態になっているはずなんだけど)


 血中毒のような魔力導線の痛みは愚か、自分の中の魔力を感じられない。


 意識が吹っ飛んでよく分からない空間に押し込められたのは単純に脳の許容量を超えたからなんだろうか。


 問題はその許容値を越えたものが何なのか、だ。

 魔力を感じないということは、許容値を越えたのは「魔力」ではないはずなのだ。


(鉄砲水……許容の超過……確かに僕は魔法具で魔力を抑えているけど、他に何を押し込めてたって言うんだよ。積もり積もった鬱憤なんか、つい最近晴らしたばっかりだぞ)


 僕自身、何年も悩み続けて来たことが数日で雲散霧消してしまった衝撃は記憶に新しい。


 それもこれもあの中途半端に心が欠けた黒魔術士に関わったせい……近づいたのは僕からなので、彼女に責任を問うのは違うけど。


 だからこそ、このオーバーフロー状態が続いている理由を理解できない。

 逃れようもなく、自分の身体が着実に脈を打っている感覚があるというだけだ。


 手を握る直前、緊張と強がりで加速した心拍があの一瞬で収まろうはずもない。この鈍足な脈が示すのは、現実の経過時間と僕が体感している時間の長さに差があるという事実だった。


(待ち続けたらいつかは起きられるだろうけど、ネオンの所に行くのは難しくなるかもしれないな……ただでさえ「晶化」なんて物騒な単語が出て来たんだ。早く行って、止めてやらないと)


 今思えば、朝に黒髪の少女とネオンについて話をしたのは何かの予兆だったのかもしれない。もっと言えば、その時点で思考を前へと進めるべきだった。


 僕はネオンのような白き者エルフが畏怖するその現象を、魔術書の知識でしか知らないのだ。なぜ第四大陸から逃げ出してまで、彼らが故郷を捨ててまで「自死」を選ぶのか。もっと、勉強しておかなくちゃいけなかった。


 僕にとってネオンはスカルペッロ家で働く使用人であり――家族も同然なのだから。


(そうだよ。そもそも僕はどうしてハーミットさんに解術してもらったんだよ)


 望んだからだ。知りたいと選んだからだ。


 気がつくと、もんやりと霧のように不定形だった周囲に変化が現れた。


 白と黒のタイルが乱雑に足元を埋めていく。見慣れた意匠はイシクブールで使われる正装、僕が塗り直しの日に来ていた詰襟に描かれているそれと同じだ。


 拳ひとつ分の胸骨。頭と身体に分かれたそれが四対の足に繋がる。

 棘は、何を示しているのかよく分からない。


 子どもの頃、遊び半分で自室の絨毯を引っぺがした時の一度だけ目にしたタイルの文様だ。

 その一角に、一際くすんだ色をした物が転がっている。


(あれ、僕の化粧箱?)


 何処からどう見ても、僕の化粧箱である。葬送の儀など、気合をいれて魔術を編む際に使うものなのだが――その鍵穴は、誰かに恨みをぶつけられたのか歪んでひしゃげて、砕けてしまっている。


 ふと顔を上げれば、床のタイルだけでなく自室の様子まで再現されていた。鏡を隠したドレッサーがあり、ベッドがある。ぐしゃりと起きたままにされたそれは、恐らく自分が起きてすぐの光景を切り取ったような。


(祝福だか呪いだかで押し込められてたものって……)


 何かの意思に引っ張られるように、手元に抱いた箱が目に入る。この箱はネオンから送られた物の一つだったと記憶している。現在でも大切に、とても綺麗に使っているものだ。


 けれど、何故それがボロボロなのだろうか。どうして、開かないようになっている?


 まるで何度も、鍵はないけれど開けようと必死に足掻いたみたいな。悪あがきばかりで全くびくともしないけど、開けたくて仕方がなくて。開いてるけど開けられない、みたいな。


(違う……? まさか僕は、開けたことがあるのか? 何度も?)


 その度に、無理に箱を閉めるから。次は開かないようにと保険をかけたから。


 キラキラしたお気に入りの小物入れが、冬に降る雪を雑に踏みつけたみたいな、僕の髪の色みたいな、僕の青灰の眼のような。濁った色に。


 こんな色になるまで、封じ込めた。


 僕はタイルの上に胡坐をかいた。白黒が端からばらばらと砕けて、ちりちりバラバラに舞い上がって何処かへ行く。解術されているはずの思考が緩慢なのも、目の前の現実が受け入れがたいのも、どうしようもなく。


(そうか。箱を無理矢理閉じて。何も見ないつもりでいたのは――僕の方、か)


 解術してもらったのに、このような状況に陥った理由。

 僕が「見ようと」しなかったからだ。目を背けようとして、知ることに怯えたから。


 この期に及んで怖がるなんて、なんて臆病者なんだろうか。


(……)


 解術の直前、ハーミット・ヘッジホッグが言った言葉を思い出す。

 開かない箱を開けるにはどうしたらいいか。


 僕は、箱の感覚から思考を逸らさずに、想像する。

 スカルペッロの家紋――ノミツチを、手に取る。


 辛うじて残った足場の上で、小さな箱に鑿をあてがう。

 槌を振り下ろす位置と指の位置を離し、息を整えた。


(人の手で晶砂岩を削り、家を作れるんだ。こんな箱ひとつ壊せずにどうする――!!)


 キニーネ・スカルペッロ=ラールギロスは。大切な思い出の箱を、壊す。

 勢いよく振り下ろされた鎚。床の無機質なタイルが砕け散り、鑿が上蓋を穿つ。


 零れ、溢れた光は小さな僕を呑み込んだ。嫌というほどに、嫌というほどに!!

 真っ白な圧力を全身に受けると同時に、全身に魔力が行き渡る。


 押し付けられた魔力の波が、知識となって脳裏に形成されていく。


 解術の順番は外側の層から。それは無魔法の効果でも変わらないらしい。


 目の前に、今朝食べたアプルの実が現れる。ナイフで切り飾られたそれにはびっしりと上級魔術の魔法陣が刻み込まれていた。

 魔術を使って誤魔化していたのだろうが、記憶を俯瞰している今ならはっきりとわかる。魔法陣が刻まれた赤いアプルの実。


 効力は、魔力接触者との『同調リンク』。


 僕が自己紹介ついでにラエルさんと握手した時、どうして思考が伝わってしまったのかがようやく理解できた。この使用人、僕が果物ばかり食べるのをいいことに魔法陣を刻んでいたらしい。


 確か今朝も食べた記憶がある。魔導王国の魔法具技師が懸念したのはこれだ。


 音声を受信先に届ける『回線ライン』とは違い、『同調リンク』は同調先の情報のほぼすべてを共有する魔術だ。

 だから魔力可視を使わなくて正解だったのだ。僕の思考を通して、魔法具の精度がばれてしまうから。


(鏡越しにそれを見抜いたあの人も凄いけど、これに気がつかなかった僕は大分間抜けな面を……というかペンタスの勘も馬鹿にできないな。変な物食ってたんじゃん、僕)


 押し付けられた情報はそれだけではない。


 前日の夕食前にネオンが渥地あつしち酸土テラロッサの構成員と裏取引する様子を見たことを思い出す。魔術を使って記憶を封じられていたのだろう。


(『同調リンク』仕込みのカービングと、今回の一件に関する情報操作……か。でも、この程度なら全然、予想の範囲内だったな)


 少なくとも、蚤の市の一件について必要な情報は全て集まった様な気がする。

 僕は記憶を抱えて立ち上がろうとした。穴を開けた箱はとても重くて、持ち上げられたものではなかったけれど。


(……いやでもこれってさ。やっぱり何か、おかしくない?)


 胸の中にもやりと、煙管から吐き出されたような煙がかかる。

 ねっとりとしたまとわりつくような違和感がある。何かを見落としている気がする。


(そもそも僕が果物食中心になったのは、ストレスが原因みたいなもので。そのストレスの原因は「母さまを置き去りに失踪したあの男」に向ける悪意とか嫉妬とか、そういうどうしようもない感情だったはずだ)


 ネオンは、僕が産まれる前から屋敷に居る古参の使用人だ。パステルイエローの瞳で笑う仕事人だ。彼が飾り切る果物の柄は、幼い頃に初めて目にしたその日からずっと同じだった。彼はずっとずっと、僕に魔術をかけ続けていたということになる。


(思えば、僕の誘拐未遂事件があった日も、遊撃衛兵がいち早く駆けつけてくれて)


 ……そうなると、あのアプルの実を僕が食べている事実は屋敷内で暗黙の了解ですらあったということにならないだろうか。


 そしてそれが『同調リンク』の用途だったのだとしたら。


(子どもの頃、魔力暴走を起こしそうになったことがあるけど。その後はそんな記憶が一切ない――けど。僕が憶えていないだけなんだとしたら?)


 アプルの実を食べるという行為自体を動機づけして。

 感情の起伏を機敏に察知することで、僕が何かに気づくことを防いでいたとするなら?


(僕が果物を中心に食べるって「自覚する」前に。具体的には何があった? そもそもいつからそんなことになったんだっけ?)


 忘れている。憶えていない。思い出せない。


 解術されて尚、開かなかった箱と同じく。多分これは、自分で自分にかけた呪いだ。

 僕が僕の意思で取り戻さなければならない、記憶。


 身体が脈打つ。魔力が巡る熱と、凝りがほぐれたような開放感を味わうと共に、このまま現実に引き戻されてはたまらないという感情が湧き出る。


(他にも、箱があるのか? ああでも、もう足元のタイルすら見当たらないし)


 纏っている服も、現在の自分が身に着けている灰色のシャツにサスペンダー、ループタイのセットに切り替わっている。現実との境が曖昧に、意識の浮上が進んでいる証拠だった。


 イメージを元に作り出した鑿と鎚が何とも頼りない。


 こんなにちっぽけな工具で、僕の殻を砕くにはどうしたらいい。ネオンを引き留めるのに必要なのは、どう考えてもこの先に在る記憶だ。それに、どうして届かない――どうして僕じゃあ、辿り着けない!!


 勢いよく振り下ろした鎚が空を切る。膝をついた自分を通り越して、床を跳ねる。


(――えっ)


 床を、跳ねた。

 下方向に投げたそれが、ぼよんぼよんと跳ねている。

 不安定な薄い膜が張った様な床を、跳ねている。


 僕は思わず二度見して、尚も跳ね続ける鎚を手に拾った。鑿の刃を下に向け、食い込むようになった床に向けて槌を振るう。


 ――破裂。爆音。そして、閃光。


 白も黒も灰色も銀色も青灰も全部巻き込んで濁流になって奔流になって僕と僕の脳内を駆け巡る。僕が無意識に押し込めて来た悪夢のような現実を目の当たりにする。


 記憶というのは瞬く間に褪せ、色も匂いも曖昧で。声なんか憶えちゃいない。


 ごうごうと燃え盛る第三大陸。

 白い町で言い争う二人の男と、その場に居合わせた険しい顔つきの子ども。


 まだ十にも満たなかった頃の自分。


 言い争う男二人の顔を、知っている。青灰の瞳をした無抵抗の男と、黄色い瞳をして怒号を飛ばす使用人の男と。どちらのことも、知っている。


 ――ああ、これが最初だ。

 これは、僕が初めて記憶を消された時の記憶なのだ。


 俯瞰するように眺めてようやく、彼等の争いが何を理由としたものなのかを理解した。

 そして僕がそれを思い出さなかった理由も、何となく分かった。


 結局のところ、知りたいと口で言いつつも思い知りたくはないのが僕だったのだ。


 身体がぐいと引き上げられる感覚があって。恐らく僕は現実に浮上するんだろう。

 今は冷静でも、現実を受け入れるのは大分ストレスがかかるに違いない。吐き気の一つや二つはあってしかるべきだ。


 そんな覚悟を決めて踵を返そうとして、それでも何か一つでも土産が欲しくなった。

 この意識は僕の見たすべてでできていて、だからこそあの日の僕には気付けなかったことも気づけるんじゃないだろうかと。


 僕は最後に、父親たちの姿を目に焼き付けるついでに、視線を奥へとずらす。


 もしかしたら「勇者」を見ることができるかもしれない。

 ほんの少し、欲が出た。


(   え )


 そこには果たして、一人の白魔導士が居た。

 僕を見据えて、立っていた。


 雲のように白い虹彩。それと目があう。


 深紅を引いた唇が、弧を描く。


(  あ     まって  あんた は  )


 駆け寄ろうとして、地面が砕ける。霧になって全てが消えて行く。


 遠ざかる景色は現実に戻るまでに摩耗する。

 六年の時間をかけて、色褪せた。




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