114枚目 「西山に薄る」


 東市場バザール


 膝の裏を結んでいた紐を緩め、足裏の痛みに濃いもみあげの男がうめく。

 通常なら馬を使って移動する距離を走ったつけが来たらしい。


「……この歳で徒歩移動ってのは、きついもんがあるなぁ」

「うん? 今日は馬を連れて来なかったのかカフス売り」

「いいや、前日浴びる程飲んじまったもんで。仕方なく馬引いて来たんだよ」


 東西南北の四ブロックに分かれている天幕市場テントバザールの、ここは東。

 その一角に季節の変わり目の時期になると店舗を置く染屋そめやは、飲食物を売っている天幕とは離れた位置に店を構えている。


 昔から、染めに使われる材料の香りは大多数の人間にとっては異臭または強臭である。それゆえに風通しが良い場所に出店するのが常なのだが、染屋が出店しているその近辺は前日の騒ぎで見るも無残な青空市と化していた。


 勿論染屋の天幕も例外ではない。店主が胡坐をかく為に地面に敷いた絨毯と、膝程の高さの商品棚ぐらいしかない――が、熱や日光で品質が変わってしまうような柔な瓶を使っているわけでもなし、品数はさほど多くない上に客は元から少ないので、被害は微々たるものだったようだ。


 店主の老人は真緑に染め上げた長いひげを触りながら、商人に応対する。


「ほう。何か急ぐ理由でも?」

「急ぐ理由って、あのなあ。昨夜ぼうぼう燃えてたのはどこの市場バザールだ!?」

「はっはっは。それに関してはわしも驚いた、今回こそ死ぬかと思ったぞ」

「……はっ。爺さん、相変わらず冗談が下手だなぁ」


 言いながら、陳列されている瓶を検分する商人。色とりどりの発色剤 (生地を染めたり髪を染めたりするための染色薬である)を流し見て、いつも買っている色を手にする。


 群青鱗粉を主成分とした青い煌めき。地毛がブラウンであれば、染め上がりは黒く星のような煌めきを伴なうが――グリッタはそれを暫く眺めて、商品棚に戻した。


 カフス売りの商人は自身の染まった髪を弄び、今度は迷うことなく煌めきが入っていない飴色の瓶を手に取る。


「これくれ」

「うん? 解色薬かいしょくやくなんて珍しい。別の色に染め変えるつもりか?」

「んにゃ、染め自体が必要なくなるんだよ。だから買いに来た」

「……わしは只の染屋そめやだからな。お前さんがこれからどう生きようが関係はない」

「ありがとさん」


 グリッタは背負っていたリュックにそれを収納して、光のカーテンが差し込む天幕から踵を返す。昨夜の雨の所為か、空は透き通るように快晴である。


「おい、カフス売り」

「ん? なんだ」

わしはお前のように気合を入れて染めを抜く奴を星の数ほど見送って来たが、それで成功した奴を見たことが無い――告白の相手がいるのなら尚更な!!」

「はあっ!? んな相手居るわけないだろうがジジイ!!」

「かっかっか!! そう照れるな!! 振られたらまた来い!!」

「……気が向いたらな!」


 顔を真っ赤にして行ってしまった常客にジジイと呼ばれた老齢の男性は手を振った。

 黒いリュックサックが遠ざかって見えなくなると、細めていた目を閉じた。







 結えられた黒髪がふわふわと跳ねる。


「はぁーっ。楽しかった!」

「そりゃあ、東市場バザールの端っこまで行ったからね。この辺りは巡りつくしたんじゃないかな」

「結構買っちゃったわね。見たことない食材とかお菓子とか!」

「……装身具とかは良かったのか? 髪留めとか腕輪とか色々あったみたいだけど」

「気に入るものがあれば考えたけれど……今のところは不自由してないから、いいの」


 ラエルは結えた黒髪の付け根を撫でる。そこに在るのは黒と白で編まれたリリアンである。浮島を出る際にカルツェと交換したものだ。


 購入した物はすべてポーチに突っ込まれ、少年少女の見た目はさほど変わっていない。最後に買った飾り飴も「後で食べる」という少女の一言で収納されてしまった。


(荷物を手に持たない分、どれだけ買ったか分からなくなるんじゃないかと思ったけど。殆ど食材調達みたいなものだったからいいとしようか)


「貴方こそ、気になる物は無かったの?」

「んー。俺は必要資材を殆ど揃えて浮島を出てるから、調達するとしたら携帯食ぐらいで……でもそうだな、朝食べたお肉は美味しかった」

「お肉屋さん売り切れてたものねぇ。結局、何のお肉だったのかしら」

「森獣とは違う気がしたんだよなぁ」

「ええ。それは私も思ったわ――でも、もし山獣だとしたら」

「……食べちゃったからなぁ……」

「そうねぇ。証拠もない」


 手帳に何かしらメモを取ったハーミットから視線を外し、ラエルは周囲に気を配る。

 こちらに視線が降りかかっている気配は感じられない。


 森獣と違って山獣は許可を得ない狩猟が禁止されているので、易々と口にできる食材ではない。食卓や市場に流れる肉は鳥獣、森獣、海獣の肉が主だ (ラエルは浮島でモスリーから食材に関する知識を叩きこまれていたのでさわりだけは知っていた)。


 とはいえ山獣と他の肉を見分ける手掛かりは「普通の肉より美味しい」の一言でしか表せないそうなので、この疑いが杞憂に終わる可能性もある。杞憂ならそれに越したことはない。


 シンビオージ湖周辺の天幕市場テントバザールは流動的に商人が入れ替わる為、規則の順守については各個人の良心に頼っている部分が否めない――ハーミットが記入したリストはイシクブールの関所で提出されるもので、実際に調べるのは第三大陸の人間――つまり、二人の仕事ではないのである。


「でも、よく分かったね。市場を回ろうって言いつつ真っ先にお肉買ったお店に向かうなんて思わなかったよ」

「いくら魔鏡素材マジックミラー越しでも、貴方がさっきの謎肉に疑問を持っていたことは気づいていたもの。寧ろどう誤魔化そうか必死だったくらいなのよ?」

「言う割に買い物は楽しんでいたじゃないか」

「そ。それはそれ、よ」


 戦利品が入ったウエストポーチを撫で、紫の目を明後日の方向へ向ける少女。サンドクォーツクで街を散策した時とは違い、今回は思う存分楽しめたようである。


 針鼠の少年は手袋のずれを直して少女の後に続く。食料調達もできたので、休暇にしては相当な成果じゃあないだろうか。


(収穫といえば、ラエルの好みが花より団子だってことが今回の市場バザール巡りで把握できたな……機会があえばリリアンのお礼でも見繕おうかと思ったんだけど)


 あそこまできっぱりと「好む物がなかった」と言われてしまうと、何を贈って良いだろう。


 ハーミットは手持無沙汰な掌を結んでは開いてを繰り返していたが、今回はその機会に恵まれなかったのだ、と潔く諦めることにした。


 日が傾いてきた頃に市場バザールを後にした二人は、本日寝起きした馬小屋まで戻る道をゆく。道といっても、店舗を抜きにすればひたすらに草原が続いているだけの景色だ。炒った草のような香ばしい匂いが鼻を衝く。


「……?」


 丘を越えると、獣人の青年と他の商人が険しい顔で話し込んでいるのが見えた。

 何度も頭を下げるツノ付きの青年に申し訳なさそうに会釈して、商人は離れていく。


 ペンタスはラエルたちに気づくなりパッと顔をあげたが、なにやら浮かない表情である。


「どうかしたのか?」

「あ、いえ……ちょっと想定外のことが起きまして……めぇ」


 そう言って目を向けるのは真東の方角。

 丁度、西へ落ちる太陽が空を紫に染め上げているところだった。


「急遽、イシクブールへ戻らなくちゃいけなくて、ですね。ただ、連れてきた馬が昨夜盗まれたんで足が無くて」

「えっ、朝お世話していた馬は?」

「あれは……知り合いの商人さんの馬です。昨日の今日でボクは店を出すことができなかったので、馬の世話でお駄賃を貰ったんです。彫刻は、見た目も大事なので」


 「煤に塗れた彫刻は磨き直すまで売りに出せない」とペンタスは呟いて、しかしそれは目下の問題ではないのだと首を振る。


 ラエルは一考して、自らの腕に嵌る銀色を流し見た。


「……貴方、クラフトの免許は?」

「く、クラフト!? まさか! そんな高級なもの買うお金が無いですよ。必然免許も持ってないです!」

「そう。良い考えだと思ったのだけど」

「ラエル、何を提案しようとしたんだ」

「彼がハンドルを握れるのなら、私が後部座席に乗ればいいかなって思ったのよ。ハーミットなら走ってでも追いつけるでしょう?」

「俺、そんなに人間辞めてないよ? 無理とは言わないけどさ……?」


 どの道、昨日暴発したばかりの君にその役は任せられないよ。と、腕を負傷している筈の針鼠はいう。どうやらクラフトの運転を任せてくれと言っているのだ。任せられるわけが無かった。


「貴方こそ、その腕で運転するつもり? 事故るわよ」

「うぐっ」

「だ、大丈夫ですよ、お二人共……! 町に戻る用事ができたからといって、今日明日で状況が変わるわけではないでしょうし!」

「因みに、戻らなきゃいけない理由って?」

「速達で知ったんですけど。そ、祖母が危篤に……」

「何が何でも足を用意しなくちゃならないわね」

「うん。持てる人脈を総動員しないと」

「ちょっ、ど、何処に回線ラインしようとしているんですかハーミットさん!?」


 険しい顔で回線ラインに手を伸ばそうとした針鼠を止めるペンタス。そうして固まるようにしていた三人の元に、一回り背が高い影が被る。


「なんだなんだ、夕食前から騒がしいな――ん? あんたらは……」

「……!」


 健康的に焼けた肌に、布で巻いた髪の半分をラメ入りに染めている。


「グリッタさん!!」

「あっ、カフス売りの!! という事は、そこの黒曜馬の乗り手よね!?」

「どぁ!? なんだなんだ、話が見えんぞ!? 馬の話ならその通りだが!!」

「貴方、イシクブールに向かうって言ってたわよね? 彼を乗せて今すぐ出発ってお願いできるかしら!」

「ええええ、ちょっと!? 流石にそれは!! めぇ!?」


 慌てながらも顔が引き攣っている青年を横目に、グリッタはもみあげを弄る。


「いや、別に構わんが……そんなに慌ててどうしたよ?」

「ありがとう。理由は後で彼から聞いて頂戴!」

「はい、これ携帯食料。足りなかったら後で請求して構わないから、俺からもよろしくお願いします」

「は?」

「えっ、ええええ、そんな、グリッタさんにも悪いですよ!?」

「つべこべ言わずに貴方も彼に頼みなさいな」

「ひゃあ!? あっ。えっと。グリッタさん、厚かましいこと重々承知の上なんですがボクをイシクブールまで乗せていってもらえないでしょうか……!!」


 散々迷いながらも頭を下げる選択をしたツノ付きの獣人に、カフス売りのグリッタは目を丸くしたが、無言で黒曜馬の元へ行くとくつわに結んだ紐を解く。


「なるほど、正直よく分かっていないが緊急事態なのは察した。お兄さんに任せてくれ」

「あっ、ありがとうございます!」

「後ろの分のくら、無いけど構わねぇか?」

「大丈夫です、乗れます! めぇ」

「よし――それじゃあ少年少女、お兄さんは一足先にイシクブールで待ってるぞ!」


 目が回る様なやり取りの末、グリッタは青年を乗せた馬を走らせ夕闇に消える。


 ラエルとハーミットは、グリッタの鞄にしがみつく形で馬に跨ったペンタス青年の後ろ姿を心配そうに見送り、この日の夕食をつくることになった。


 ラエルはその夜、調理を成功した筈なのにあまり味を感じられなかった。

 夕食のデザートに口にした飾り飴は、口にするなり音を立てて割れた。




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