115枚目 「白いパンと黒い町」


 ……水の中に沈んでいく。ひたすらに暗黒を落ちていく感覚。

 全身がひどく疲れているが、霧の中にいるよりは幾らか気が楽である。


 目の端で、キラキラと金糸が解けて舞う。光が無い空間に居るはずなのに、自分自身の姿は目にすることができるのだから――ご都合展開は薄気味が悪い。


(目が軽いのは、錯覚。身体が重いのも、錯覚)


 口を開いても肺に水は流れ込まない。違和感がありながらも、彼は沈む身体を浮上させようともがくそぶりを一向に見せなかった。


 沈んでいく。沈んでいく。ただただ、水面の揺らぎが見えなくなるまで。

 一面に黒い水の中で、闇に包まれ、底に着くまで。


(一体いつになれば、辿り着くんだろうな)


 停止した思考回路に、生々しい胸の痛みがよみがえる。


 熱い鉄の刃が、何処からともなく胸に突き刺さる。腕にも。足にも。腹にも。喉にも。

 磨かれた刃が一本ずつ。丁寧に、虫を針で刺し整えるように、身体を貫く。


 その琥珀の中心に。その口元に。


(頭が潰されるのは、多分、最後だ)







 肩を掴もうとした相手の腕を、ほぼ反射的に握り返しながら――ハーミット・ヘッジホッグは最悪な起床を迎えた。目が覚めて冷静さを取り戻すまでに数秒かかったこともそうだが、身を起こした目の前に、目を丸くした黒髪の少女が居る事実に硬直した。


「えっと……うなされてたみたいだから、つい起こそうとしたんだけれど」


 黒髪の少女ラエル・イゥルポテーはそう呟いて、自身の腕を掴む少年の指を一本一本剥がそうとする。人差し指が剥がされたところで正気に戻ったのか、ハーミットは慌てて手を開いた。


「あぁ、ごめん。……そんなに分かりやすかったのか?」

「んー、強いて言えば歯ぎしりが酷かったかしらね?」

「は。歯ぎしり」

「えぇ、歯ぎしり。酷かったわよー。ぎこぎこ言ってたわ」

「まじか……」


 歯が割れてしまっては元も子もない。「マウスピースもどきでも作るか……?」とぶつくさ言い始めた少年を余所に、ラエルは先程から温めていたスープの味見をする。


 市場バザールで手に入れた野菜の端切れをサンドクォーツクで購入したカムメ肉と共に煮込んだスープである。灰汁取りがしっかりできたらしく、薄黄色の鳥油がぷかぷか浮いたその様は輝く宝石のようだ。


 ぷつぷつと泡が立ち沸騰するその鍋に、これまた市場バザールで調達した生卵を解き入れた。卵に火が入るよう、ひと煮立ちさせれば完成だ。


「パンは、昨日買った物から食べるとして……耳が硬い物からでも構わない?」

「構わないよ」

「よし。それじゃあこの細長い奴を食べましょ」


 ウエストポーチから引き出したのは、長い長い棒状のパンだ。


 農耕が盛んでない第三大陸唯一の作物系特産、それは麦の実である。クァリイ共和国内で殆ど消費されるために他国へ出回ることはないが、この地方には様々な種類のパンが存在している。


 ラエルが買ったのは「えだ」と呼ばれるパンである。


 白い生地に一定の間隔を開けて刻まれた聖樹信仰を表す三本線のクロスマークは、パンを美味しく焼く為に入れられた切り込みの名残だ。


 聖樹を模したその見た目。真っ白に焼き上げる為に高めの麦粉を使用するらしいが――先日あった火災の所為か、少々煤けてしまっていた。

 しかし、耳が固い保存食向きのパンであることに間違いはない。実際、切ってみれば内側は真っ白だった。


「資料では知っていたけれど、実物は想像以上に白いわね」

「第三大陸のパン文化は聖樹信仰が関わる分、独特だからね。聖樹信仰の無い第二大陸とかだと、もっと麦が主張してくるパンが多い印象かな」

「……言われてみれば、浮島で使われているパンも殆ど麦味が強かったような気がするわ」

「麦の殻には栄養があるからね。あそこは軍人の駐屯地だから、しっかり栄養が摂れる献立になってるんだよ」

「へえ」


 ラエルは相槌を打ちながらパンを口に放り、スープを口にする。硬い生地がほろほろと溶けて美味しい。


「ハーミットは第二大陸に行ったことはある?」

「あるよ。魔導王国の仕事とかで」

「どんなところ?」

「どんなところって……ジャングルというか、森というか。沼と山と雪と……あとは単純に第三大陸より土地が広いから、移動するのに苦労した覚えがあるかな」


 クラフトが走れない悪路ばっかりだったんだよ。


 答える口元は、当時を思い出したのか緩んでいる。苦労は多くても、結果的に良い旅だったのだろう。ラエルはそう解釈した。


 鼠頭を外さないまま、乾いた喉にスープを流し込む。


「ごちそうさま。美味しかった」

「ごちそうさま。どう致しまして」


 口にしないだけで、二人とも二度寝の意思は無かった。

 前日、慌ただしくイシクブールへ駆けて行った青年と商人の事を気にしなかった訳ではない。


 少年少女は空になった器と調理器具を片付け、出発には少々早いが東の市場バザールを後にすることにした。まだ日も登り切らない明朝のことである。


 ……とはいえ。市場を後にしてからは特にこれといったトラブルも無かった。

 草原は静かなものだったし、獣の気配も賊の気配も無い。この数日の忙しさが嘘であるかのような平和さだった。


 第三大陸南東に位置する町、イシクブール。晶砂岩の採掘場とは目と鼻の先である。


 その名の通り「石工」の技術者が集っていた町であり、第三大陸にやって来た商人たちが市場バザールを超えて辿り着く観光地だ。


 町の特色は骨竜伝説を詳細に語る彫刻である。小さな市場の片隅や各家の屋根の上。階段の手すりなど、あらゆる場所に骨を模したオブジェが設置されているのだとか。


 家は瓦屋根の土壁が主で、麦粉を想起させる白い壁らしい。扉と屋根の色だけが家庭ごとの色で塗り分けられているので記録レコーデ映えすると有名なスポットとして雑誌などに紹介されたりしているのだが――。


 この町は、に被ると「百八十度印象が変わる町」としても知られている。


「……」

「……」


 クラフトに乗っている状態で町の様子が「ちらり」と見えた瞬間があった。


 特に、町の情報を叩き込むだけ頭に入れてきた黒髪の少女には、その意味が嫌というほど目に入ったし理解できた――初めての来訪ではない針鼠の少年もまた、同じ感想を抱いた。


 町の関所に着いて、クラフトを収納する。ラエルとハーミットは必要最低限の会話だけこなすと、神妙な顔をする衛兵に在国許可を示すピンと町に入る目的を提示した。


 木製の分厚い扉が開く。

 その先にあったのは――全てを真黒に塗りつぶされた、喪に服す町の景色だった。







 厳かな空気の中、一つ二つと弦が弾かれる。

 遅れて鈴。足踏みと、涙を殺す声。


「……大変な時期に来ちゃったみたいね」

「……同意するよ」


 人が一人収まりそうな黒い箱を台車に乗せ、魔術で物音一つ立てず運んでいく。

 葬列は黒い衣装を身を纏った住人たちが取り囲むように沈黙を保っていた。


 列が過ぎるまでの間、二人は深く頭を下げ。彼らが通り過ぎたところで顔を上げる。


「イシクブールでは親しい人が亡くなると、家を黒く塗って弔う風習がある……のよね?」

「うん。町中が黒いってことは、それだけ慕われていたってことでもあるね」


 静かに呟く針鼠。運ばれてゆく棺桶の中に誰が眠っているのか、確かめる術は無い。

 既に日が傾き始めていることもあって、葬儀自体も終盤だろう。


 夕日が落ちると共に火葬を行い、魂は闇に、肉体は聖樹の根に還す。そして次の朝日が昇れば、清い魂は聖樹の葉に生まれ変わる――聖樹信仰ではそのような捉え方をするが、亡くなった人はノット教だったのだろうか。条件が合わなければ夕方まで葬儀が食い込むこともあるだろうし――と、ラエルは詮索しようとしている自分に気が付いて慌てて思考を止める。幾らなんでも失礼すぎる。


 住民があらかた出払っているのか、町は静かなものだ。時折、二人の後にやってきた商人たちが真っ黒に塗りつぶされた石畳や壁を見て口をあんぐりと開けている。


 蚤の市が近いということもあって、外から来る人間もそこそこ居るらしい。しかしその服装は茶色や黒、渋い緑など鮮やかさを抑えられている物が殆どだった。


 ラエルは自分の肩にかけたケープの灰色が寧ろ白く見えて。場違いに感じた。


 上半身を黒いタートルネックの長袖に包んだ針鼠もどきに比べると目立ってしまっているだろう。肩から外すか一瞬迷ったが、ベリシードに「安易に外さない方が良い」と言われていたことを思い出して手を止めた。


 隣を見れば、茶革の指がこちらに向けられている。どうやら黒髪の少女がケープを外そうとしたことを止めようとしたらしい。ラエルは目を細めて、ケープを外さない意志を伝えた。


 ハーミットは魔鏡素材マジックミラーに紫の空を映しながら、カクンと首を傾ける。


「……しんみりするのもほどほどに、切り替えて行こうか。目下の目的地には辿り着いた訳だし、宿を取るのを先にしよう」

「そうね。流石に町まで来て野宿はどうかと思うし――」


 口にしてみた後になって、何処かで旗が立つ音が聞こえた気がした。







 最後に訪れた宿屋の受付係は、実に残念そうにはにかむ。


「どこも満室ですね」

「……なるほど……」

「……そうきたか……」




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