涙の笑顔

ためひまし

第1話 夢

 季節の変わり目のない笑顔がここにはある。値札の奥で目をつむっていた安息がない時代とは大違いだ。飼い犬はこうして毎日を通り抜けていく。夏は冷房の風との全面戦争。秋はベッドの上での籠城作戦。冬は床暖房とストーブの四面楚歌。春はあたたかい日差しと強い風との防衛戦。

 いつもの散歩コースに足を踏み入れる。強い風に乗って雨のにおいがやってくる。全身の毛が逆立つ高揚感を肌で覚えると同時に実に些細な不安や畏怖にコンクリートで固められた地面に足がぐっと沈み込む。踵が家の方へと向かんとするときに友の顔が殴り掛かる勢いで脳裡に焼き付けられた。あまりにも具体的過ぎて殴ってしまいそうになったその顔はどこか似ている人物を思い出す。

 

——二回目の曲がり角――

 一日中、日が当たらない極夜のような路地に古びたアパートが苔と共生をしていた。その居候がぼくの友達だ。彼と過ごすたったの三分間は相対時間ではまばたきをするような感覚だった。だからって今日は話すぎた。ふわっとふくらんだ高貴な毛先に雨つぶがぽとりと落ち、ぐっと沈み込んだ。今にも走り出しそうな若い心を落ち着かせ家路に進む。

「それじゃあ……」とその一言だけを置いて帰った。


 或る時にね、ぼくは家の中で幽霊を見たの。それは足もある人間の霊だった、怖かったから吠えまくったんだ。威張り散らしたよ。「ここから出てけよ」だとか「お前は人間じゃない」だとかね。今では少し悪いと思うけど、あいつは幽霊だったから、そのくらいはいいよな。しかもこの話には続きがって、ぼくがまばたきをしている瞬間にその幽霊を飼い主がやっつけてくれたんだ。あの時はやけにかっこよく見えたんだ。友達にも見せてやりたいぐらいだった。


 ぼやけた世界に渋い鈍痛が光を与える。ぼくはどこかに突っ伏していた。ありがたいことに目の前には水と食料が置かれている。まあ食べる気はないので散歩に行くために飼い主を起こしに行く。そう、いつもの日課。「さあ、行くか……」そう掛け声をかけて立ち上がろうとしたその刹那、頭が地にぐっと沈み込む。懐かしさを孕んだその痛みには気持ちよささえ感じた。頭に血が上ると同時に断片的な記憶がよみがえる。幾ばくか前の話。楽しくてはしゃぎまわった初めての家族旅行の記憶。若さに身を任せて泳いだ川の記憶。嫌で嫌で仕方なかった病院の記憶。ぼくには理解ができない真っ黒い不安の渦がすべてを飲み込もうと這いずってくる。ぼくは唯一の逃げ場である「夢」へと落ちていった。

 やけに繊細でリアルだったその夢にはあたたかさがあって心地良く、懐かしい場所だった。動かなくなった喉から本音が出てくる。

 「まだ、死ぬのは怖いよ。まだ、楽しい思い出を作っていたい」

 ぼくは、赤ちゃんになったかのようにすがった。すがって泣きついた。

 鈍くなった聴覚に君の緩やかな声がかすかに聞こえてくる。耳が悪くなったせいか、その一粒一粒が歯切れの悪い雨のように感じた。

 鈍くなった感覚に君のあたたかい心が落ちてくる。触覚が鈍ったせいか、その重い想いも実に不明瞭だった。

 「ありがとう。本当にありがとう」

 そう泣きながら何度も訴えかけるが、きっと通じてなんかいないだろうな。でも良かった。思いのたけが伝えられて。

 

 もう声はいない。

 「最後におもいっきり抱きしめてくれないかな……」

 届かぬ思い。募る焦り。

 ぼくの感覚はだんだんとはっきりしてきた。

 今ならはっきりわかるあなたのぬくもりが。大切さをが。

 

「それじゃあ……」

 

 その一言だけを置いてご主人の腕の中で深い深い夢を見るために眠った。

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