アロステリック・アイサ
たいらごう
神々のいない世界で 1
『カミアン』というものをご存じだろうか。
知らない? なら、あなたは『正常』だ。
たとえ知りたいと思っても、「カミアンって何ですか」などと他人に聞いてはいけない。どこからともなく現れた思想警察に連行されてしまうだろうから。
連行された人間がどこに連れていかれ、その後どうなったのか。それを知りたいのなら、止めはしないが……少なくとも私が知る限り、帰ってきた人間はいない。
そんな世の中だ。学校教育でも思想管理が徹底されているのは当然だと言えよう。
「起立、礼」
いつもの教室、いつもの生徒。いつも通りの授業が始まる。
「着席」
日直の掛け声を合図にみな席に座った。映像授業をモニターに流す準備をした後に、もう一度正面を向くと、ほとんどの生徒がノートをとる用意をしてモニターを注視している。
区内有数の女子進学校の、ほとんど受験に関係のない、しかも面白みのない映像が垂れ流されるだけの『倫理』の授業。
そこでは繰り返し、「神などいない」ことが語られる。ニーチェの「神は死んだ」という言葉が紹介された後なら、映像はこう続くのだ。
「しかしニーチェは根本的な誤りを犯していました。神は死んだのではありません。元々いなかったのです」
今日の授業内容は『構造主義とポスト構造主義』についてだ。多分この子たちにはどうでもいい話に違いない。にもかかわらず、内職や昼寝をしようという生徒は見られなかった。
映像のボリュームを少し上げ、私は自分の席に着く。
――映像の内容には口をはさまないよう、お願いしますね。あなたがどうなっても、学校側は責任を持ちませんので。
契約の際に話をした教頭の顔を思い出した。教頭にしては随分と若い。上にあげてまとめてある長い黒髪と、細長い眼鏡の下から俺を見るナイフのような視線に、少しステレオタイプ的な女教師らしさを感じた。
三十代にしか見えなかったが……教頭なのだから、実際はもっと年齢がいっているのかもしれない。そうでないなら、随分とやり手なのだろう。余り近づきたくない人種には違いなかった。
授業は映像で行う。生徒から質問があった場合は、映像内容に沿って答える。余計なことは付け足さない。私の主な仕事は、授業中の生徒の様子を報告書に書き学校に提出すること。
これでは講師ではなく、監視役だろう。
契約内容を見てまずそう思ったのだが、『違反した場合は即日解雇とする』という文言が、全ての反論を封じるように添えられていた。
どのみちそれを拒否するメリットは、私には無かった。非常勤講師という身分なら、このご時世、どの学校に雇われたとしても似たようなものなのだから。
世も末だな。
そう溜め息をつきつつ、意識をこの場へと戻す。
顔を上げると、一人の生徒と目が合った。
始まった映像を見ることもなく、しかし内職や昼寝をするわけでもない。どこか焦点の合っていないような目で、彼女はただ私を見ている。
ゆったりとした半袖の白いブラウス。色白の肌と、鼻筋の通った顔立ち。淡い色をした長い髪は、前髪の中央が顔にかかっており、その下から頼りなげな瞳が顔をのぞかせている。淡いピンク色の薄い唇は、うっすらと開き気味だ。
クラスの中でもほとんど目立たない、いつも無口な女の子。普段、そこにいるかどうかも意識したことがなかった彼女が、なぜか私を見ていた。
どこか居心地の悪さを感じて、私は彼女に少しの微笑みを返す。そして、自分の用事に没頭するふりをして視線を下に落とした。
あからさまに『監視している』という様子を生徒に悟られないように、映像が流れている間は自分の用事をしている素振りを見せるのが常だ。だからそうしたところで不自然ではない、はずだが……
変に思われただろうか?
しばらくの葛藤の後、少し目線を上げてみる。知波アイサは、まだ私を見続けていた。
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