恋文

倉海葉音

恋文


 僕が生涯をかけて追い続けたあなたへ 



 こんにちは。

 はじめまして、でしょうか。いえ、きっとあなたも、僕のことはご存知のはずです。何しろ何年もの間、四六時中、どんなときでも僕はあなたを一途に見つめてきたのですから。

 僕の熱っぽい視線や恍惚を漏らしていた声で、あなたに少し嫌悪感や恐怖感すら抱かせていたかもしれません。もしそうだったのなら、本当に申し訳ありませんでした。



 いえ、ですが、そんなことは無かっただろうと思っております。

 なぜなら、僕が見てきたあなたは、いつも不敵に微笑んでいましたから。

 あなたは、外向きには親しみやすい笑顔を振りまいていました。きっと、今までにたくさんの人間を魅了し、追い求めさせたことでしょう。しかし、その裏に恐ろしい程の魔性を潜ませていたことを、僕は知っています。

 だから、僕程度の人間が作り出す温度に、あなたは汗の一つもかかなかったことでしょう。

 実際、僕には、あなたに覆われていたベールをめくることは出来なかったのですから。



 僕は、あなたに恋し続けていました。

 しかし、昨日、私は一つの知らせを聞き、落胆しました。

 自分の夢は永久に幻の世界線に閉じ込められたことを認識し、身体が深い海の底に沈んだかのような錯覚に陥りました。水流に何の抵抗もなく押し流され、水平線の彼方にある滝から、この世ならざる場所に堕ちていく、そんな光景が閉じた瞼の中で去来していました。まるで神話の時代の人間ですね。理系の端くれとして失格です。



 一晩明けて、少しは心というものも落ち着いてくれたのでしょうか。

 目覚めたときに、鳥の声を聞きました。時計は5時台を示していましたが、夏の太陽は既に眩い。夜型の生活を送っていた僕は、久々に世界の目覚めと歩調を合わせました。

 冷蔵庫から取り出し、ほんの少し口に含んでみた水は滑らかな舌触りで、ひんやりとした刺激が脳内のあちこちを叩きました。どうやら僕は、夢うつつの中から救われたようです。

 それと同時に、僕が立っているのは現実の場所であり、このどうしようもない世界が、現実なのだと理解しました。


 人間とは、そう簡単には心変わりできない生き物です。

 特に、「想い」に費やした時間が長ければ長いほど、感情は体のあちこちに深く染み込み、拭い去ろうとしてもきっと容易なことではないでしょう。

 どんな魔法の液体と、どんな魔法の布があれば、消えてくれるのでしょうか。


 だからせめて、こうして書くことで、何かの一助になれば。

 そう思って、僕は筆を取ってみました。

 長い、長い文章になることでしょう。それは僕があなたを思い続けてきた年月にちょうど比例するかのように。強い、強い感情が描かれることでしょう。それは僕があなたを想い続けてきた期間に対し、指数関数的に増大したものだから。


 気持ちを整理するために、昔話から、始めさせてください。



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 僕があなたと出会ったのは、中学校の図書室でした。


 当時の僕は、運動神経が全くなく、取り柄もなく、いじめを受けておどおどしてばかりの少年でした。いえ、勉強は出来たかもしれませんが、学校のヒエラルキーにそのような物が与える影響は微々たるものでした。

 僕は、ある頃から図書室に逃げることを覚えました。そこにはたくさんの本と、わずかばかりの人間と、静寂しかありません。サッカーボールも、いじめっ子の姿もありません。ただ気になる本を手に取って、自己と本とが作る世界に浸っていればいい。


 そんな日々に、あなたと出会ってしまいました。

 初めて出会ったときのあなたは、とても気軽な感じで、ようっ、と声をかけてくれているかのようでした。もちろん、それは錯覚でしたが。

 あなたを見た僕は、なんといいますか、完璧なバランスだと思いました。教科書で見た、モナリザ、ミロのヴィーナス。あのような黄金のバランスを、僕はあなたの中に見出していました。

 不意打ちをくらった僕は、心音の高鳴りにささやかな困惑を覚えつつ、不思議なほどにあなたに魅入られていました。初心うぶで、多感な時期だったのです。


 それからは、毎日、図書室に通うのが楽しみになりました。

 今まで、図書室に通うのは消極的な理由だったのに、あなたのおかげで、前向きな期待という感情が生まれました。

 インターネットなんてまだまだ発達しておらず、おまけに僕は田舎に暮らしていたので、情報が不足していました。僕には、図書室が頼りだったのです。


 いつ何時なんどきであっても、あなたは魅力的でした。

 ほの暗い午後の図書室。あなたはいつでも、スポットライトの下で優雅に回る踊り子でした。だけどそれはまるでガラス越しの光景。わずか数センチ先、だけど絶対に手が触れない場所で、あなたは僕を魅了し続ける。

 初心な僕でも、さすがに自覚していました。これは、きっと恋なんだと。


 やがて、僕はペンを握るようになりました。

 あなたに届けばいいな、と思い、ノートの空きページに自分なりの想いを連ねてみたのです。もちろん、そんな田舎小僧の発想なんて、上手くいく訳がないのですが。

 それでも、ただ、ペンを動かしているだけで幸せでした。

 僕は、恋をしていたのですから。



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 高校に進学してからは、話の通じる仲間も出来ました。

 実家付近よりかは、少し都会の学校に進学したおかげでしょうか。



 部活も初めて、友人と過ごす時間が増えるにつれ、あなたに向き合う時間は少なくなりましたが、それでも忘れた訳ではありません。

 むしろ、自分が成長すればするほど、この瞳に映るあなたはますます魅力を増していきました。


 一つにはきっと、僕自身が自分の感情を表す言葉を、あなたの美しさを表す言葉を、身につけていったからでしょう。恋慕。憧憬。畏怖。官能。妖艶。一体いくつの表現が、この関係性の中を行き来したことでしょう。

 そして、あなたは本当に並外れた存在であると、僕はさらに理解していきました。あなたは深い密林の中、極彩色の蝶のごとく自由にひらひらと舞い、簡単には捕まらないよ、と僕に向かって嘲笑っているかのようでした。


 時には、例の仲間たちと盛り上がることもありました。

 僕と同じ趣向であったり、異なっていたり、向く方向はそれぞれでしたが、それがかえって楽しかったのです。晩秋の夕暮れ時、一年の終わりに合わせ頬を染めた紅葉が窓の外に輝き、教室の中では各々が気ままに好きな対象について語り合う。僕は、きらめく美しさだけで成立していたあの時間の歓びを、一生忘れはしないでしょう。



 高校二年生の頃、僕は読書感想文で賞をもらいました。

 もちろんあなたに直接言及した本では無かったのですが、僕はあなたへの思いの丈を、一つのためらいもなく原稿用紙にぶつけました。

 国語教師は、呆れとも敬意ともとれる表情で、僕に言いました。

「よく書いたな。このテーマでこんな風に書ける奴なんて、お前以外に見たことがない」


 人に打ち明ければ、恋心はいっそう強まるものだと言います。

 僕は、この体験を経て、もっと真剣にあなたのことを考えるようになりました。

 そして、東京に行こう、と決めました。東京に行けば、きっとあなたに近づけると思ったからです。



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 大学進学とともに、僕は上京しました。


 さすが、日本の首都であり、あらゆる人と情報が集まる街です。あなたに関することを、今までとは比べ物にならないくらい、多方面から知ることができました。

 時には本から。時には友人から。時には他の媒体から。僕はその一つずつを大事にしていきました。こぼさないように、溢れさせないように。僕の小さな体の中に、大事に大事に収納していきました。


 やがて、本格的にあなたと向き合う体制が整っていきます。

 十代の頃の、大人からすればおままごとのように見えていた恋とは、もう既に一線を画していました。

 僕のことを応援してくれる人も、無謀だと陰で笑う人もいました。それは裏返せば、僕の夢が存在感と実現性を増していることの証左となりました。


 大学というのは良い場所です。確固たる信念さえあれば、一つのことをいくらでも好きに追うことが許される。

 僕は、その環境に甘んじながら、利用しながら、あなたを捕まえようとしていました。図書館の本も、友人や教授のつても、使えるものは全て使いました。一分一厘一毛たりとも無駄や誤りや取りこぼしがないように、細心の注意を払いながら、来る日も来る日もあなたのことだけを考えていました。


 少し、あなたに近づいたと思った日がありました。

 しかし、次の日には自らの思い違いに気付き、あなたはまた深い霧の中に姿を隠しました。

 一つ、あなたに関する手がかりを見つけた日がありました。

 そのとき、あなたは確かに挑発的な笑みを浮かべて、ウインクを送ってきました。


 追いかけて、逃げられて。近づこうとして、遠ざけられて。

 磁石のN極どうし。砂漠の中の蜃気楼。終わりの見えない鬼ごっこに、体は日を重ねるごとにすり減っていきます。毎日一個ずつ、僕の体内から何かのパーツが消えていったのではないでしょうか。

 だけど、僕は幸せでした。ただあなたの姿だけを見ながら、息を切らして手を伸ばし続けることが、何より幸せでした。たとえそれが幻だったとしても、またあなたが別の所から姿を見せると、僕は昆虫を見つけた小学生のように、夢中であなたを手に入れようとしました。

 うたた寝の夢の中ですら、あなたを追いかけて、笑っていたくらいですから。



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 昨日も、僕はあなたに向き合っていました。


 この数日、何か、成果の出そうな予感がしていました。

 長年追い続けてきたからこそ分かる手触りだと思っていました。気付けばもう、あなたと出会ってから十年なんてとうに超え、二十年にもなろうとしています。きっと、また一ミリ分くらいは、あなたの核心に近づこうとしている。いや、もしかしたら、今度こそ気まぐれに飛び回るあなたのことを捕まえられるかもしれない。


 部屋には一人きりでした。二十一時を回り、僕はコーヒーを傍らにペンを動かしていました。今日中に、絶対に今日中に、と意気込んでいました。

 今の僕ならば、三時間あれば、何かの光明が。


 そのときでした。同僚からの電話がかかってきたのは。

 あなたに集中していた僕は、しばらく着信音に気付きませんでした。しかし、ふと嫌な冷たさが背筋を通っていき、その瞬間にあのうるさい電子音は存在感を増したのです。


 電話を手にした僕の耳元に、同僚の重たい声が飛び込んできました。

 普段は陽気なはずの彼は、非常に低く、深刻な声色をしていました。


「さっき、お前の追い続けていたあれが」


 彼は、一呼吸置いて、喉の奥からなんとか絞り出すように言いました。


「反例が見つかった。あの定理は成立しないって論文が、さっき正式に発表された」



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 あなたは。


 たった一行。中学生にでもわかるくらい、簡潔で平明な数学の定理でした。

 それなのに、世界中の数学者が束になっても敵わない、未解決問題でした。


 数学は得意で、だけどそれが何にも繋がらなかった中学生の頃。

 僕は、図書室の新書の中に記されていたあなたに、魅せられてしまいました。

 嘘だろう、こんな簡潔な定理が証明されていないなんて。そう思いつつ、僕は足りない頭であれこれ格闘するようになりました。


 学年が上がるごとに増える数学の知識は、あなたへの新たな糸口であり、新たな工具であり、新たな遊び道具でした。僕は覚えたての技術であなたを証明しようとアプローチを仕掛け、毎度、完膚なきまでに叩きのめされました。

 それでも、僕は疑ったこともありませんでした。そもそもあなたという定理が正しいかどうか、なんて。

 だって、あなたはこんなにも美しく、凛として、官能すら感じさせるのだから。


 せめて、あなたがこの世界に実在するものならば。

 それを僕ではない誰かが解き明かしたとして、僕はやはり当然悔しさに震えていたことでしょうが。それでも時が経てば僕は勝負相手に喝采を送り、ようやく見ることができたあなたの全貌に、その美しさに、喜びの涙をこぼしていたことでしょう。

 それに、ここは数学の世界です。一番乗りの人間とは別の方法で、僕があなたの正しさを証明することができれば、それをせめてもの慰めにして、余生を送ることくらいはできたでしょう。



 だけど、あなたは、どこにも存在していなかった。

 最初から、あなたは、幻の中にしかいなかった。



 その現実を、僕は今、やはり受け入れられないでいます。

 あの高校時代の読書感想文、未解決問題に挑む数学者のノンフィクションを読み、あなたへの愛の言葉を連ねたとき、より一層あなたへの愛しさが募っていったように。

 こうして過去から現在までのあなたへの気持ちを書くことで、僕は今、猛烈に悲しさを募らせています。



 僕は、あなたが、きっと実在するはずだったあなたが好きだったんです。

 あなたの全てに、自分の手で、触れてみたかったんです。

 あなたに、僕の嬉しさから溢れた涙を、拭い取ってもらいたかったんです。



 この涙をあなたに見てもらうことも、その生ぬるい温度に触れてもらうことも、できない。

 ああ、これが、と僕は理解しました。

 これが、失恋、というものなのですね。



 そんな現象なんて、今までの人生でずっと、対岸の火事かと思っていました。僕には無関係なことだと思っていました。

 だけど、失恋というものは、こんなにも悲しくて、そして一人で背負うしかないものなんですね。哀切。やりきれなさ。そうした言葉は、このときのためにあるのですね。

 体の芯まで、脳の髄まで染み込んでいたあなたへの恋心が、今、僕の体を痛めつけています。苦しい。昨日は海洋の中で酸素が尽きそうになっていた僕は、今日から、もっと直接的で内面的な苦しみと闘うことになるのでしょう。



 僕は、これから、何を目標とすればいいのでしょうか。

 僕は、あなたのいない世界で、何を見つめればいいのでしょうか。

 答えの出ない問いを投げ続けるうちに、人生は、きちんと前を向いてくれるようになるのでしょうか。乱されてしまった衛星の軌道は、正しい場所に辿り着くことができるのでしょうか。



 何も分からないまま、僕はこの手紙を終えようとしています。

 出せなかった、一生どこにも出すことのできない、このラブレターを。



 だけど、せめて最後に。一つだけ言わせてください。

 負け惜しみでも、女々しくてもいいんです。

 これが、二十年近くに渡ってあなたを追いかけてきた僕の、あなたに初恋というものを捧げた僕の、せめてもの矜持なんです。




 今まで、本当にありがとう。

 あなたを、心から愛していました。




 ある一人の、夢破れた数学者より

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