どうしようもない貴方が好きだった

饕餮

第1話

 すごく久しぶりに買い物に出たその日、胸が痛くなる光景を見た。


「そっか……そんな格好もできたんだ……」


 私が見慣れた格好でも顔でもない。

 彼の隣には幸せそうな、優しい笑顔を浮かべた綺麗な女性がいて、彼の腕には生まれたばかりらしい赤ちゃんが収まっていた。彼もその赤ちゃんを見て、頬をつつきながら幸せそうに笑っている。

 彼の名前のように誠実そうな態度とその光景に心臓を鷲掴みされたような、抉られたような感覚がして、ギュッと心臓のあたりの服を握った。


 私が知っている彼は、名前とは正反対の人だった。

 長めの髪はボサボサで無精髭を生やし、スウェットの上下を着て仕事も碌に行かない。酒好きで私にお金の無心をするような、クズで不埒でだらしのない格好のヒモ男。

 不思議とタバコだけは吸わない人だったけれど、常にパソコンとスマホ、タブレットを弄っていて何か作業をしていた。

 けれど、今視線の先にいる彼は短く切りそろえた髪をジェルか何かでなでつけ、高級そうなスーツとネクタイを着こなし、眼鏡をかけた素敵な男性だ。そんな優しそうな、幸せそうな笑みすら私に向けられたことはないし、眼鏡をしていることすら知らなかった。


 隣にいた人が変えたのだろうと思うと更に胸が痛くなる。


 私にはそんな力なんてなかった。

 そんな努力をしても変えられなかった。


 努力が足りなかったと言われてしまえばそれまでだけれど、結局は家政婦と思っていたか、ヤりたいときにヤれる都合のいい女くらいにしか思ってなかったんだな……って、今ならそう思える。


 それでもそんな彼が好きだった。小さい頃からずっとずっと、好きだった。

 八つ年上の隣人の三男坊が――奥住おくずみ 誠志朗せいしろうが私の前から消えて、一年半が過ぎた頃の光景だった。



 ***



 私こと平坂ひらさか 涼香すずかと幼馴染とも言える彼は、双子の姉の風香ふうかが好きだったことを知っている。


 私と姉は、顔は似てても性格は正反対。高校は別々になったから中学までしか知らないけれど、その頃の姉はとてもモテていた。

 頭脳明晰で、快活で、動くことが大好きで明るい人が姉。

 反対に私は、姉には及ばないがそれなりに成績はよかったけど、動くことよりもじっとしていたくて本ばかり読んでいる、人との付き合いが苦手な内気な子だった。

 体型も正反対。

 動くことが好きだった姉は痩せていたし、運動が苦手だった私はぽっちゃり。喘息持ちで無理などできないから尚更だった。

 そんな姉に唯一勝てたのが胸の大きさで、遺伝的なのか太ってるからなのかわからなかったのはご愛嬌だ。

 そんな快活な姉だからモテていたし、彼も眩しそうに姉を見ていた。まあ、私を見る目は『ゴミ』とまでは言わないけれど、睨むように目を細めて私を見ていた。

 嫌われるようなことなんてしていなかったはずだけれど、そんな視線をもらったら縮こまるしかなくて……。だからいつもビクビクしてた気がするし、ビクビクするたびに溜息をつかれていた気がする。


 彼だって根っからのヒモだったわけじゃない。それまでは彼もちゃんとお勤めしていると聞いていたし、きちんとした格好をしていると聞いていた。

 実際にスーツ姿を見たこともある。

 それが変わったのは、姉が小さい頃からの夢だった『医者になりたい』と医大に行くことを希望して合格し、彼氏ができてその人と婚約したあたりからだったと思う。

 私自身もなりたい職業はあったけれど、親に言われたくらいで諦めちゃった私は姉のように強いものではなかったようで、手に職をつけたほうがいいかもしれないと父に言われたことで、自宅近くにあった商業高校に入った。通学も、自転車でも徒歩でも通える距離だ。

 漢字検定一級と簿記一級の資格は在学中に取っていたので、それを武器に就職することにした。

 ただえさえ姉は私立高校に行ってお金をかけていたのに、さらに医大はお金がかかるとかで、そのあたりは母に感謝されたけどね。どうやら二人同時に大学に行くのは金銭的に厳しかったうえ、弟も高校生になる頃だったからますますお金が必要だったことを考えると、そこはよかったかなと思っていた。


 それはともかく、姉も学費を稼ぐために家庭教師のバイトをしたりしながら大学生活を過ごし、私も貯金しながら家にお金を入れたり家事を手伝ったりしていた。そんな生活を二年続けた頃、姉に彼氏ができた。

 それを知った彼は喜んでいたように見えたけれど、実際は荒れていたようで仕事に打ち込むようになり、家に帰らなくなったと噂に聞いた。

 まあ、実際に見ていないからどうなのかわからないけれど、お隣と仲のいい母が聞いて来た情報なので、間違いないと思う。

 その頃には彼が好きだったことを自覚していた私は、荒れた様子の彼を慰めてあげたかった。けれど、昔から私を見る目は姉と違っていたし、姉ほど話していたわけでもないからそんなことはできないし……なんて悩んでいるうちにさらに一年ちょっとが過ぎていたのだ。

 弟は自衛官になりたいと防衛大に入ったので、それを機に私も家を出ることに決める。

 まあ、姉も弟も彼氏・彼女がいたし、そういった浮ついた話ひとつない私に、「涼香はいないの?」と母に聞かれることが苦痛になってきたのもある。


「就職してたって出合いがないんだから、しょうがないでしょ? それに、風香や剛史つよしみたいに細いわけでもモテるわけでもないし」

「そんなことないと思うんだけど……。あ! 隣の誠志朗くんはどう?」

「はぁ……。お母さん、彼の好みを知ってて言ってる? 彼は風香みたいに細くて明るい子が好きなのよ。私みたいに内気で病気持ちな子じゃないわ」

「あら。そんなことないと思うけど?」

「そんなことあるの」


 そんな不毛な会話を苦痛に感じて、病気のことがあったし渋々だったけれど、両親揃ってるところで一人暮らしをする許可をもらって、職場まで電車で三十分のところに家賃の安いマンションを見つけたので、そこに引越した。

 実家から通っていた時は乗り換えも含めて一時間半かかっていたことを考えると、ずいぶん楽になった。

 まあ、その分実家に行くのが遠くなったけれど、母にぐちぐち言われるよりはいいと思っていた。

 引っ越して三ヶ月たった頃、会社帰りの最寄り駅で彼を見かけた。その日は雨で、傘も差さずにTシャツとジーパンにジャケットを羽織り、ビニール袋をかけた鞄を持った彼が、何かを――誰かを探すように周囲を見回していたのだ。

 会わなくなって久しぶりだったこともあり、つい声をかけてしまった。


「誠志朗、さん?」

「あ……涼香、ちゃん……?」

「こんなところでどうしたんですか? しかも傘も持たずに。誰かと待ち合わせですか?」

「……」


 そう聞いても何も答えてくれない。まあ、いつものことなので溜息をひとつ溢し、私の家に連れて行くことに。

 しかも何かあったのか、ずぶ濡れのまま私に抱きつこうとしてきたのでストップをかけた。

 多分、風香が結婚することを聞いたからだと思う。


「どこに行くのかわかりませんけれど、一旦私の家に行きましょう。そのままでは風邪を引きますから。それでいいですか?」

「……ああ」


 着替えなど我が家にはないので、駅で傘を買ったあと、途中にある大型スーパーで食材と彼の下着や洋服、パジャマ変わりのスウェットやバスタオルやタオルなどを買い、自宅に戻った。傘は今更だけど、これ以上濡らすのもまずいし風邪を引かれても困ると思ったのだ。

 自宅に着くと玄関で待っていてもらい、お風呂のスイッチを入れてからタオルを持っていくと彼に渡す。


「これでざっと拭いてください。そのあとお風呂に案内するので、ゆっくり温まってきてくださいね」


 ざっと水滴を拭いた彼をバスルームに案内し、着替えやバスタオルなどを洗面所にある籠に入れると、そのまま離れる。温かいものを飲ませたほうがいいかとお湯を沸かし始めた。

 風邪を引いた場合のことを考えて救急箱に風邪薬が入っているかを確認し、「ピーッ」と鳴ったやかんの火を止める。来客用の布団はないので、彼にはベッドに寝てもらうことにしてシーツを変え、私は炬燵で寝ればいいかと夏掛けの布団と毛布を持ち、炬燵のそばに置いた。

 夏掛けの布団でも半分に畳めばそれなりに温かいと思ったからだ。毛布一枚よりマシだというのもある。


 現在の時刻は夜の七時で、木曜日。明日は祝日だから、明日を含めて三連休となる。

 きっと彼は彼女とか知り合いとかに会いに来たのかな……と思って胸が痛くなり、沈みそうになる気持ちを追い出すために頭を振った。それよりも夕飯をどうしようと考える。

 買って来た食材を冷蔵庫に入れながら、他に何かあったっけと中身を見て、そこでハタと気づく。

 彼は食事をしてきたんだろうか。

 それともこれからなんだろうか。

 誰かと出かける予定か誰かの家に行くつもりでいたけれど、途中で雨に降られて傘を買いに来たかでバッタリ私に会ったのだろうか?

 そんなことを考えていたら、彼に呼ばれた。


「はい?」

「給湯温度を上げるスイッチってどれ?」


 そう聞かれて、温度を上げるのを忘れていたことを申し訳なく思いつつ、バスルームへ行く。


「入りますけど、いいですか?」

「いいよ」


 シャワーの音をさせていたからできるだけ大きな声で話しかけると返事がきたので、彼のほうを見ないようにスイッチのところへ行く。


「ここの蓋を開けて、この場所を……きゃあっ! ちょっと、誠志朗さん!」

「あー……ごめん、手が滑った」

「滑ったじゃないでしょう! もう、濡れたじゃないですか……」


 パネルが見えるように少しだけずれて説明をしているというのに、あろうことか彼はシャワーヘッドを床に落としてしまい、私を濡らした。後ろを向いて文句を言ったら、とんでもないことを言い出した。


「じゃあ、脱げばいい。ついでに一緒に入ろう」

「え……? んう、んんんっ」


 そんなことを言われたあとで壁に押し付けられ、キスをされた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る