雨宮探偵事務所へようこそ―絵描きの少年―
糸坂有
絵描きの少年
第1話
古めかしい扉を開けると、内側に付けられていたベルがちりんと鳴った。
入ってまず目に入ったのは、大きな本棚。普通の人なら、人生で一度も手に取ることのないような難しいタイトルの本や、小説などがランダムにがぎっしりと並べられている。入りきらない本は、その横に積まれていた。
窓際や、出入り口近辺には、いくつもの籠や水槽が置かれている。亀が入っていると思えば、あっちの籠には蛇がいて、かと思えば蜘蛛もいる。気味の悪さに目を逸らせば、可愛らしいハムスターがいたりもする。
古美術店でも開けそうなほど、至るところには高価そうな置物や瓶が置かれていた。壁にぴったりとくっつくような形で配置された小さい食器棚は、その一部としてすっかり溶け込んでいて、内容から置き方から全てが美しい。一種の作品のようである。
黒い大きなソファは、中でもひときわ目立ちながら存在し、そこに座って足を組みながら紅茶を飲む端正な顔立ちの青年は、何とも芸術的だった。すらりとした体躯に、スーツが良く似合う。まるで銅像のようでもあった。入って来た客に一瞬だけ視線を送ると、何事もなかったようにカップに口をつけた。
入ってまっすぐ、数メートル先に大きな机が置かれており、出入り口に顔を向けるようにして主人と思われる人物は座っていた。黒いワンピースに身を包み、地球儀をくるくると回していたらしいその女性は、来客に気付くと人好きのする笑みでこう言った。
「ようこそ。わが探偵務所へ」
下川カイ。十六歳。父は生まれる前に死に、母は数年前に死んだ。今は一人、この生まれ育った町で絵描きをしている。昔から絵が得意だったカイは、数年前に小さな店を構えると、腕のいい絵描きとして評判になり、そこそこ繁盛するようになった。始めこそ見くびっていた大人たちも、カイの絵に信頼を寄せるようになった。しかし、それも過去のことだ。
そう、つい三か月ほど前といっても、それは確かに過去のことなのだ。今のこの状況は、まさに悪夢であれと思わずにはいられない。
三か月前から一転。初めて出来た恋人には振られ、お気に入りだったパン屋は閉業。外を歩けば、ちょっとした勘違いからヤクザに追われる身となり、泥にはまり、泥棒と間違えられる。
つい先日、階段から転んで出来たたんこぶは、ベレー帽で隠している。腕や足にも、犬に引っかかれた傷や、ヤクザに追いかけられて出来た擦り傷などがかさぶたとなって残っていた。踏んだり蹴ったりだ。
絵描きの仕事も散々だった。描いた人が次々と不幸に見舞われ、「不幸を呼ぶカイ」の名をほしいままにした。怪我をしたり金を盗まれたり、カイの手によって描かれた人々にはみな一様に何か悪いことが起こるのだ。しだいに、カイの店には誰も近づかなくなった。
また、恐ろしいこともあった。近所に住みつく野良猫を描いて、一週間後に偶然絵を見返すと、まるでこの世のものとは思えないほど邪悪な、悪魔の使い魔のような猫がそこにはいたのだ。嫌な予感がしてその猫を探してみれば、猫はつい一週間ほど前に腹わたを出して死んだと聞いた。背筋が凍った。
これが人間だったらと思うと、カイは恐ろしくて身震いした。
それ以来、カイは一度も筆を取っていない。店は実質閉業。路頭に迷って、辿り着いたのがここだった。
「貯金はもうないし、仕事を探しても雇ってくれるところがないし、このままじゃ飢え死にですよ! 税金なんて払ってる場合じゃないんです! 死んじゃいます!」
「それで、ご依頼は?」
雨宮ミヅキと名乗った女性は、二十代後半くらいだと思われた。蝶があしらわれた、黒を基調とするワンピースに身を包んでいる。足元は、ヒールの高いブーツ。
何もかもを見透かすような、切れ長の大きな瞳と、形の良い艶のある唇。長い髪は、簪で後ろに一つまとめられていた。
入って来た途端、つかつかと歩み寄ってさんざん文句を喚き散らしたカイに、ミヅキは恐ろしいほどの完璧な微笑みを返す。怒っているのか、大人の余裕か、あるいはそれ以外か。どうとも判断の付きかねる表情に、しかしカイは面と向かった。
「だから俺、悪い霊にでも取りつかれてるんじゃないかと思うんです! ここって、お祓いとかしてくれるんですよね?」
以前、お客さんからそんな話を聞いたことがあったのを、困り果てた末に思い出した。カイのせいで不幸が訪れたと怒り心頭だった紳士が、とあるところに行ったおかげで一転、宝くじを当てたと言うのだ。「君も大変だよね」と、札束で扇ぎながら言われた時は、さすがにかちんときたものである。
そしてその、とあるところというのが、ここ「探偵事務所」なのだった。探偵事務所と名乗っておきながら、その仕事内容は幅広く、お祓いまでやってくれるとの噂を聞きつけ、カイはわざわざ隣町までやって来たのである。電車を使えばすぐだったが、カイは徒歩で三十分以上かかった。おまけに迷って、人に尋ねてやっとたどり着いた。
木でできた床が、ギィと音を立てる。
ミヅキは、椅子を百八十度回転させると、大きな窓から町の景色を眺めた。三階というだけあって、眺めはなかなか良い。
「わあお。どっからそんな噂が湧いたんだろ?」
首だけをひょいと、ソファに座る青年へと向ける。
「ね、スイくん?」
「この前のおじいさんじゃないですか? 言うなと釘を刺しておいたのに、おしゃべりな人でしたから」
スイと呼ばれた青年は、スーツ姿のよく似合う若者だった。黒いネクタイを緩めに巻き、上にはベストを羽織っている。眼鏡をかけているわけでもないのに、そこはかとなく知的な雰囲気が醸し出される。
決してこちらには目を向けないが、話は聞いているようで、本を読んだまま返答をした。若い青年であることには違いないが、若さをどこかで落としてきたように落ち着いている。カイとそう変わらないようにも、もっと年上にも見えた。
「では、依頼は自分に憑いているであろう悪霊を払ってほしいとのことですね。ただ、通常業務とは異なりますので、依頼料は多少上がってしまいますが、どうされますか?」
ミヅキは両手を組んで、その上に頭を置く。その動作があまりにも自然で美しく見え、カイは一瞬見惚れた。
「ち、ちなみに料金っていうのは……?」
ミヅキは、引き出しから電卓を取り出すと、カチャカチャと入力してカイに見せた。カイは青白い顔で、それを押し返した。
「けっこうするんですね……」
「そう? うちなんかとっても良心的ですよ? ねえスイくん」
「他にこんなことやってるところがないので比べられません。が、そこまで青ざめることもないんじゃないですか」
スイは優雅に肘を付き、高級そうなカップで紅茶を飲む。その姿は妙に様になっていた。
確かに、数か月前までならそこまで驚く値段ではなかっただろう。しかし、金に困っている今、余計なことに割く分がないというのが本心だった。ありったけの金は握りしめてきたが、これでは足りない。明日を暮していく金が無くなってしまう。
どうしようか悩んでいると、ミヅキはビジネスモードから切り替え、ラフな雰囲気で伸びをした。
「まあ、君には払えないよね。税金さえ払えないんでしょ? それじゃあ私たちも動けないよ」
からりとした声で手を振ると、さあてと、ミヅキは腰を上げた。スイへ「私の分も紅茶入れてよ」とせがむ。
「自分で入れて下さい」
「ええ、けっちー。どけち大魔王」
空気になった気分でカイが突っ立っていると、思い出したようにミヅキが振り返った。
「君、お役所様のところ行って相談でもしてきたら? さすがに、未来ある若者を蔑ろにはしないでしょ、まあ知らないけど」
「で、でもその前に悪霊を何とかしないと、永遠に負のスパイラルが」
金はない。でも何とかしなければならない。
何も方法は思いつかない。けれどカイはここで引き下がるわけにはいかなかった。この不幸は、やはり何かに憑りつかれているとしか思えないのだ。直感的に、これを何とかしなければ、永遠に不幸の連鎖が続いていくような気がした。
ソファに体を預けていたミヅキは、一瞬ひやっとするほどの冷たい視線を投げた。それが本性であるかのごとく、一瞬後にはすぐに作ったような笑みを向ける。カイは、しばらく動悸が治まらなかった。
「だって。スイくん、どーお?」
嘆息した青年は、本を閉じて立ち上がる。すらっとしていて背は高く、チビチビと言われ昔からいじめられていたカイに対するあてつけのようなスタイルの良さだった。
「確かに、今のままは良くないです。近いうちに死にますね、あなた」
「は?」
カイは唖然とするばかりだった。目の前の青年は冗談を言っている風でもなく、初対面の人間に冗談を言うような人間とも思えず、カイは引きつった笑みを浮かべた。
「て、適当なこと言って怖がらせないでくださいよ」
「信じないならそれでいいです。どうぞお引き取りを」
「いや、帰りません帰れません! どういうことですか!」
「どういうことと言われても」
どうしても、スイの方が背が高いため、見下される形になって気分は良くなかった。思い切り背伸びをしても、まだ届かない。しかも足も長いし手も長い。
「あなたに憑いてるのは、決して悪霊ではないです。あなたが勝手に霊に共鳴して、勝手に死にそうになっているだけです。つまり、自分で自分の首を絞めているわけです。最近、何か変化はありませんでしたか? 引っ越しをしたとか、骨董品とか、そうでなくても中古の何かを買ったとか」
カイはすぐに思い当った。
「三か月前、ロケットペンダントを貰いました。家族の写真を入れようと思って。いわく付きらしくて、ただでもらっちゃったんですよ。そういえば、悪いことが起こり始めたのってそれくらいからだったような」
「ただほど怖いものはないですよ」
カイが今まさに首からかけているものがそれだった。両親が二人で写った写真を中に入れていて、ここ最近は肌身離さず持ち歩いている。
会ったことのない父と、数年前に死んだ母。二人がまだ十代の時の写真で、これを見ると、ふとした時に安らいだ。自分は一人じゃないと、頑張れる気持ちになるのだ。
スイは、カイに一歩近づいてそれを手に取ると、確信したように頷いた。
「これ、捨てたらいいんじゃないですか」
言って、ぽいと捨てるようにペンダントを放る。首からかけたままだったので、投げられた反動で弧を描き、カイの胸にぽんと治まった。
「そしたら、きっと無くなりますよ。不幸の連鎖」
「だって。良かったね、君」
ミヅキは、ソファにもたれて手を振った。被害妄想かもしれないが、その笑顔の奥に厄介者を早く追い払いたいという気持ちがありありと現れている気がして、気分は良くない。
本当だろうかと、疑う気持ちもあった。早く追い払いたいから、適当なことを言っているだけかもしれない。しかし、ロケットペンダントのことを言い当てられたことや、スイの表情があまりにも真剣なことから、信じてもいいのかもしれない気がした。あまり疑り深いのはきっと、生きていく上では良いことであり、悪いことでもある。何事もほどほどということだ。もし捨てても不幸が治らなければ、もう一度来れば良いだけのことだった。何も変わらなかったと、その時こそ責めてやればいい。金は払っていないけれど。
カイは一人納得した。
そういうことであれば、無駄にここにいる必要はない。大人しくお暇するとしよう。
出入り口へ足を向けようとして、ふと気になったことを訊いてみる。
「ちなみに、このペンダントには何が憑いてるんですか?」
「十歳くらいの女の子です。ずっと泣きながら、うさぎのぬいぐるみを探してます」
「え! そうなんですか、かわいそうじゃないですか!」
死んでまでずっと泣いているなんて、ずっと探しているなんて。
たった十歳で命を落としたと思うと、とても心が痛む。
スイは僅かばかりであったが、初めて無表情を崩した。
「僕の言うこと、信じるんですか」
「え? 信じちゃ駄目なんですか?」
カイはぽかんとする。
信じがたい話であることには違いないが、スイはカイが信じないという前提で話をしていたつもりらしい。
「普通は信じません。馬鹿を言うな、というのが普通の反応です」
淡々と言う。つまり、今までにそんな言葉を投げかけられたことがあるということだ。そう思うと、カイは不憫な気持ちになった。
「別にいいじゃないですか、信じたって! それとも嘘なんですか?」
「嘘ではありません。これだけは誓って言えます。嘘は僕の一番嫌いなことです」
「スイくん、まっじめだもんねー」
からかうようなミヅキに、スイは片方の眉だけ上げて反応した。
軽いミヅキと、重いスイ。何とも対照的な二人だ。
よくは分からなかったけれど、霊が見えるのも大変なのだろうか、とカイはぼんやり考えた。気分が変わって、カイはスイへ、少しだけ友好的に話しかける。
「俺も嘘は嫌いです。気が合いますね!」
しかしスイの返答はそっけないものだった。
「それはないと思いますが」
「やっだー。スイくん、それリアルツンデレ?」
「違います」
「スイくん、照れてる?」
「照れてません」
スイは、ぷいっとそっぽ向いた。
「もう、優しいんだからなあ、スイくんは」
「どういう意味ですか」
「金がない人間に、ここまでしてあげるなんて。私なら絶対何もしなーい」
「血も涙もない……」
うっかりカイが口を挟むと、ミヅキは不貞腐れたように口を尖らせ、「駄目ですか悪いんですかどうせがめつい人間ですよ私は」なんて言うので、カイは「いえ、そんなことは」と苦笑いするしかない。世知辛い世の中である。
「でも、それだとちょっと捨てるのはかわいそうですね」
「え? 何が?」
すっかり、さっきの話など忘れたという風情のミヅキはともかく、カイはスイへ話しかける。
「それにこのペンダント、見た目も気に入ってたんですよね。すごく模様が綺麗ですし、写真も入るし」
「じゃあ、ずっとこのままで良いということですか。それならそれでいいですけど、だったらあなた何しに来たんですか」
スイは、いちいち刺々しい言い方をする。ミヅキはスイのことを優しいと言ったが、カイにはとてもそうは思えなかった。一瞬でも同情心が芽生えたのが悔しい。ミヅキも、一見親しげではあるが、スイ以上に淡白そうである。
とはいえ、スイの言葉も一理ある。この不幸を断ち切るために、カイはここへ来たのだ。しかし、そんな話を聞いた後では、人として情が動かない方がおかしい。
アウェーな空気。じとっとした目つき。
こっちがおかしいのか? いや、そんなはずはない。
ふつふつと感情が煮えたぎる。
アドバイスをくれたことには感謝しなければならないが、小さな女の子が泣いているのを見て、放っておける神経が分からない。それとも、嘘が嫌いだと言った言葉こそが嘘だったのだろうか。カイには何も見えないから、何も分からない。
「時間取らせてすいませんね! ありがとうございましたお邪魔しました!」
バン、と勢いよく扉を閉める。勝手に来て勝手に怒って帰る客など、きっととんでもないのだろうと頭では分かっても、うまく感情をコントロール出来なかった。しかも金さえ払っていない。
「はあ」
とぼとぼと、カイは家へ帰ることにした。こんな気持ちのまま、また三十分歩かなくてはならないのだ、気も滅入ってしまう。
「君は、どうしたい?」
ペンダントに問いかけてみるが、当然返答はない。霊感なんて、カイにはなかった。
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