八譚ノ壱 球体関節人形の回想
「
呼ぶと、人形の様に緩慢で、どこか機械的な動作でこちらを振り向く彼女。
自分は振り向いた彼女に笑みを向けてやると、彼女──茉莉は、疑問符を端正な顔に浮かべるのであった。
その飴色の瞳の奥には、瑠璃がちらついている。
自分の思う事はどこか観察日記めいている。主に茉莉の。
「何か御用でしょうか? 姐様」
鈴を転がす美しい声は、ピアノの独奏を聴いている様で心地好い。
自分は
木櫛を手に持って見せると、茉莉は、自分に背中を向けて腰を下ろす。
毛量の多い彼女の髪は美事な白髪で、地に届くかと言う程長い。
癖毛が玉に
椿油を染み込ませた木櫛で茉莉の髪を鋤くと、白髪は光沢を帯びて流れ行く。
髪の隙間から覗く肌は異常な程に白く、往来を行き交う人々には、好奇や驚の白い目で見られることも少なく無い。
これも人形故の特色だが、
人形師に頼み、ヒトの肌色に合わせれば良いのだが、
「茉莉、今考えていることがあるのだけれどね」
「? 僕に新機能を搭載するのですか?」
流石に察しが良い。
「そう考えていてねえ。何が良い? 茉莉」
問うと、茉莉はその形が整い過ぎた顎に手を添え、少し考える様な仕草をした。
嗚呼、私の
そして結論が出たのか、沈み勝ちだった顔を上げて希望を口にした。
「モノ、が食べたいです」
「そりゃいいね。人形師に頼み込んで、仕様を付け加えて貰おうか」
勿論金に糸目はつけない心持だ。
「有り難う御座います。姐様」
「……茉莉の為なら」
*
僕は茉莉。
姐様──
さる人形師によって作成され、この妖怪の総大将とも崇められる者に買われた。
良くしていただいて、今は本当に幸せだ。
ただ一つ腑に落ちない事、と言うより不満な事は、主従の関係である筈であるのに、色々と、いやかなり、世話を焼いてくること。
椿油の染みた木櫛で髪をとかしたり、人形である私に、私の意思を尊重した機能を付け加えてくれる。
服も定期的に新調、のみならず一月に一枚は増やす。一枚増やしたら、帽子に始まり靴下や靴、装飾品までの一式を揃える。
それも上下揃えるとお金が掛かって仕方ないので、私は何が良い、と問われたら一言、ワンピース、と答えるのが常だった。
それだけじゃない。
毎日の入浴、宛がわれる自分だけの広い部屋、衣服が全て収納出来る
私の手入れに使われるモノは全て高級品。
何不自由のない、むしろ過分、まるで上流階級のニンゲンの様な待遇。
主人は兎に角、私を磨くのに全てを費やす。
私優先の奇妙な生活。
無条件の奉仕で私を磨くが、この御仁は一体全体、私に何を求めているのだろうか。
*
行商生活をしていて、永らく思う事がある。
行商箪笥を背負い、独り名も知れぬ道を行き、連れ合いも無く、偶々街を見出だし、そこで品を揃えればまた歩み行く。
そこにさる人形師から人形を売り込まれ、茉莉の制作を依頼した。
それから私は、この人形が全く手放せないでいる。
肩を並べ歩く様を、一挙手一投足を、ちらちらと盗み見ずにはいられないのだ。
新たな服を買い与える度に彼女は光り、髪をすく度にも彼女は一層磨かれる。
要は、ひたすら彼女を甘やかしたいだけの自己満足である。
*
翌日、僕は早々に人形師の
「じゃあ頼みました」
「お任せください」
口調はそれこそ堅いが表情は軟らかい為、不思議な光景だ。
姐様は私をここへ預けた後、用事の済むまで独りで行商に行く。
大変なのはその後だ。居ないと淋しさを覚えるとかでひどく甘えて来る。
なので兎に角早く帰りたい。
預けられた人形師は一見穏和なニンゲンだが、貘(バク)である。
採った魂を人形に込めている、と界隈では専らの噂だ。
それもそうだ。
元来人形とは繰り手が側に居ることで初めて可動するが、僕は主人の池鯉鮒が居ない今でも十分に動けている。
黒猫の様な黒髪を後ろで軽く束ね、縦縞の入ったシャツを着崩し、紺の、燕尾服の様なカマーベスト──全く構造が複雑で良く判らない服を身に纏っている。
手には黒手袋を着けている為、肌の露出が極端に少ないのだ。
そして磁器の様に白過ぎる肌。それが整った形をした顔を覆っているのだから、ゾッと背筋に寒気が走る。
「ええやろ、これがお洒落言うもんや」
独特の抑揚をつけて話される言葉。
音が上へ下へと飛ぶ声。
そしてあった筈の白眼は失われ、黒くなっている。
大きな耳飾りは顔を動かす度にシャラシャラと鳴り、時折動く手に当たって弾けた。
「にしても今回は風変りな注文しはるな~まあ
姐様曰く、この人形師は方々駆けずり回って捜した、自分の要望を一番叶え、理解する人形師、なのだそう。
僕は四肢を外され、簡素な寝台に全体重を預けている。
仕様を新たに加える前の時間。この人形師──
だがこの人形師は、こうして対話の時間を設けるのが常だった。
作業着に着替えながら僕に言葉を投げ掛ける
今僕は徐々に機能の動力を奪われつつある為、猛烈な睡魔に襲われている。
なのであまり鑑の話は聞けていない。
「
「? 何や何や?」
名を呼ぶと、針の様に鋭い糸目をこちらに向けた。
「今回は姐様の要望ではなく、あくまでも僕の発案ですが、人形である僕のそんな発案が通って良いのですか?」
「おや封建的な考えやね」
僕の思想を全面否定する様な口調で言われるが、腹を立てる気力も起きない。
「ここだけの話だけどね、池鯉鮒はんはあんたんことほんまに大事言うんは周知のことや。けどな、あんたの声は天使の声言うて憚らんでな」
そして、大事にされとるなあ、と添える様に言った。
確かに姐様のそれは度を越えている。
主人の過度を改めて言われると、こうも恥ずかしいモノなのか。
兎に角大事にされる理由は、僕はまだ判らないでいる。
*
茉莉を馴染みの人形師に預けている。
その間自分は通例通り行商を続けるのであるが、矢張肩を並べる連れ合いが、居るのと居ないのとではどこか違うのだ。
茉莉は、本人にとっては只の人形だろうが、自分にとっては唯一無二の連れ合いなのである。
自分はその日、注文した仕様が完成すると言うので、とっとと仕事を済ませて
鑑の工房兼自宅は入り組んだ場所にあり、通りから離れた路地に入り、細く
道順を考えながら往くと必ず迷子になるので、何も考えず、寧ろ他のことを考えながら往くと辿り着く。
辿り着いたそこは
玄関ポーチは、上から簡素な石油ランタンが吊るされていた。
木製の扉に呼鈴はついていないので、叩く。
すると鍵が開いていたらしく、扉は一人でに開いた。
つくづく扉の建付けがなっていない。
一歩進む毎にギシギシと不吉に鳴る廊下を歩いていて、まるでピアノの様だと思った。
工房は地下にあり、その上に無理矢理居住区が建てられている。その為この様に床が鳴り響くのだ。
工房へ続く階段は石造りで、その冷たさが足裏から伝わる。
足袋を履いているとは言え、じんと凍みる。
奥に僅かな光が漏れているのが見える。
階段を下りきると木製の扉にぶつかった。灯がついている所を見ると、まだ作業中らしい。
扉を押し開き、見慣れた工房を覗き見る。
茉莉の白髪が僅かにみえた。
何時もの椅子に座らせて居なければこの位置からは見えない。ならば既に作業は終了している筈だ。
思い切って工房内に入ると、まず眼前に土下座をしている
「……どうしたん」
「すまねえ」
肝心の茉莉は、何時も作業の終わった後に座らせる椅子に構えている。
「見た感じ作業は終わってはるんやろ?」
問うと、乱れた頭髪を直して
立ち上がると自分よりも背丈が高いので、私は見上げなければ目が合わない。
猫背でも余す背丈を、私と目線を合わせる為に屈めている。
「いや……本当すまんの。その、一寸した……不手際がな」
「野に出はるか?」
「聖書で例えるのは止めてくれんか!?」
失敗を責めるとこいつは駄目になるので、言葉の選出に悩む。
椅子に座る茉莉は静かに目を閉じている。
つかつかと踵を鳴らして歩み寄った。
「
「巻いてある、がな……」
「仕掛の構築は成功したんやろ。それで
「あ。それはちょいとあかんてえ」
察しが良い、とは普段から言われるが、今回ばかりは察せない。
自分は無視して
緩慢で機械的に目が開かれる。
私が惚れたその瞳は酷く濁っていた。
茉莉は結んでいた口を開くや否や──
「……いや」
これもまた酷く濁った声で発せられるのである。
*
その頃の生活習慣と言えば。
朝五時に起床、私と家族分の朝食と弁当を作る。
飾り気も何も無い制服に袖を通すと、仕込まれた剃刀で手首と、
七時半には家族とは名ばかりの母と妹が起床。私は電車に揺られ。
八時には学校に到着。上履きに
席につくと、画鋲が
その後定刻通り授業に出席。
時折黒板に問の答を書きに行く。その時担任教師に教壇の影で臀を揉まれ、髪に触られる。
授業が終われば昼食。
弁当を持って席につく僅かな時間に画鋲を仕掛けられる。
それをまた画鋲入れに戻す。
昼食までの間に移動教室の時間が挟まると、弁当が荒らされていたり、洗剤が入っていたりする。
午後の授業も終えて私は帰宅。
部活動には所属していないので、早く帰れる便宜があるのだ。
帰宅すると、先に小学校から帰宅した妹がいて、大抵は私の部屋を荒らしている。
私は夕食を作り、母が帰宅する前に妹にそれを食べさせる。
極端に偏食なので、野菜と魚はきれいに残して私に投げつける。
母が帰宅すれば、私は母のシャツにアイロンをかけ、スーツの形状を整えてクローゼットに仕舞う。
午後九時に入浴。母と妹が入った後なので温い。
五分で済ませ、浴槽を掃除する。
十時半から勉強。一時間の勉強時間を終え、寝る前に妹が存分に荒らした自室を掃除。
十二時半には蒲団に入る。
睡眠が浅いのであまり眠れはしない。
そして朝は五時に起床する。
母は、私をキモチワルイと言った。
私の白髪が、紫の目が、白い肌が。
遺伝子異常のアルビノ体質。
私だけがアルビノで、妹は黒髪、母も黒髪、父は髪色のみならず肌も浅黒かったらしい。
母は、私をキモチワルイと言った。
それが今はどうだろう。
私はあの時よりも遥かに髪が伸び、目の色は橙色で、光の加減で紫にも見える。
それにかなりの美少女だ。
肌の色は以前よりも白い。ここまで白い肌があるものか、と思う程。
躯の節々には球体が嵌め込まれており、そのお蔭で関節を問題なく動かせる様になっている。
だがそれが剥き出しなので、見映えはあまりしない。
「マリー」
そして、私をじっと見詰めてそう呼ぶ女性。
この人は髪の色がかなり変わっている。
目だってオッドアイだし、口調もたまに聞き取れない。
「……わたしは、マリーでは、ありません」
答えると、その女性は哀しそうな目を伏せた。
でも事実だ。私の名前は
「
一言一句、噛み締める様に誰ともなく呟く。
「…………そうだね。河合名ちゃんだね。私の間違いやった」
それだけ言って私の許から離れて行くと、やけに背丈の高い男性の所へと向かった。
わたしはもの寂しくて、それに手を伸ばすも遅い。着物の袖に掠りもしなかった。
*
「今部品とか全部見てきたけどな、どうにも、どっかしら足りへんのがあるらしいんや」
「話した感じ、頭部の部品やろね。記憶が混濁してはるわ」
「どないするんや? 茉莉ちゃんには絶対に思い出させえへん決めとるんやろ?」
「今は茉莉で呼ばん方がえぇわ」
「そか。ほんなら、暫くはメイちゃんや」
自分は茉莉に何を望むのか、時折判らない時がある。
茉莉──もとい、
「……はぁ。取り敢えず、もっかい部屋ひっくり返してでも部品捜せ。わたしゃこれからの名ちゃんの相手に忙しいわ」
「わーっとるわい……あぁ、胃に穴が空く」
「知らんわ」
変わらず椅子に座り続けている茉莉を連れ、自分達は工房を後にした。
*
「工房」そう呼ばれた場所から、派手な髪色の女性に連れられて出た。
その女性は、ちりふ、と名乗った。
「池、鯉、鮒、で
池鯉鮒、と頭の中で何度も反芻する。
「あの、これからどこへ行くんですか?」
正直、混乱する頭で連れ回されるのは不安で仕方ない。
「そやねえ……取り敢えずは家かねえ」
「家、ですか」
「家、や。一旦家でご飯食べ、ゆっくりしい。混乱してるやろうけど、今は何も考えなくてええんよ」
この美人な人は、一体どこまで甘やかしてくれるのだろう。
そうして
そこから脇道を進むと、細い路地と周囲の民家によって隠された一軒家が姿を表す。
周辺の民家に人は住んでいないらしい。
一言に家、と言っても、豪華ではない、繕って言うならば質素な平屋だ。
床は踏む度に不吉な音を立て、壁の漆喰は剥がれ落ちている。
廃墟さながらの、家とは名ばかりの家には必要最小限の居住空間があって、それが台所と、風呂場、御手洗い、囲炉裏のある居間だけなのだ。
だがそこだけは綺麗に掃除が行き届いていて、電気も通っている。
中でも居間は天井から布が吊られ、随所に垂らされた電球が、その中をぼう、と照らした。
台所はタイル張りの流しと釜が設えられていて、あまり使い勝手は良くない。
調理器具も、鍋の他には
風呂場の床はタイル張り。御手洗いの壁は漆喰がきちんと塗られている。
随所に古い電球や置き照明があって、まるで秘密基地だ。
子供時代に裏山で見つけた廃屋を、夏休みを全てかけ改造した、秘密基地。
そこで秋になっても過ごし、冬が来て雪深くなれば興味を失い、春になって、雪の重みで倒壊したかつての場所が見つかる様な。
そんな奇妙な家。
「生憎と、実用的な見立ては下手でねえ」
そう言って情けなく笑う池鯉鮒さん。
「わたしは好きですよ? こう言うの。昔こんな家に憧れてたものですから」
「そうかい」
昔はよく一人で山に分け行ったものだ。特に家族から、世間から逃げたくて。
「ちょいと、準備しはるからまっとてねえ」
不意に、池鯉鮒さんはわたしを少しだけ遠ざけると、わたしの持っていた旅行鞄を開いた。
すると、開いた蓋から湯気が立ち上る様に、様々なモノが飛び出した。
それこそ、魔法の様に。
敷き
その他諸々の家具や小物が飛び出す幻想的な世界の中心で、わたしは無意識のうちに笑っていたらしい。
「わぁ……」
「気に入ったろ? でも最近規則的で飽きてきたところやったけどねえ」
どこか懐かしむ様に言った池鯉鮒さんには申し訳ないけれど、今のわたしには池鯉鮒さんの言うマリーは居ないのだ。
その後は、買ってきたと言うが暖かいご飯を食べ、寝るまでの間札遊びと漫談、疲れてしまえばそのまま眠りに落ちる。
そうして、半ば混乱したままの半日が終わってしまった。
*
入道雲の様に豊満に広がる豊かな髪、剥き出しの球体関節、磁器の様な白い肌、細い四肢。
外見は同じであるのに、中身が異なるのは違和感が残る。
茉莉、と呼び掛けてみる。
しかしその呼び掛けに答える者はない。
置時計の蛍光板が示す深夜十一時。
まるで独白の様に回想する。
茉莉を見つけたのは偶然だった。
死人同然だった茉莉──もとい、河合名を、自分は拾ったのである。
古い殴打の後、新しい血の滲んだ傷痕が、少女の身体を覆っていたのをよく覚えている。
まさに春も始まりのこの季節、家庭から逃げに逃げて河原に休んでいた所だった。
どこぞの学舎の制服のままで、日が落ちるのをひた待っていたのが、この少女である。
自分は彼女を蔭ながら見守り、ニンゲンと言うモノを推し量るのが常だった。
或る日河原に様子を見に行ってみれば、河合名は居らず、どうやら自宅にも居ない様で。
街の方々を探し回った。
その結果、最終的に彼女はごみ捨て場で発見した。
既に死亡した状態で。
自分は彼女の遺体から殺害した人物を特定し、行方不明にした。
山の中腹にて、錆の回ったドラム缶に蛇と詰めて埋めた。
今となってはごく稀にドラム缶を埋めた場所を見に行くだけである。
それから彼女の遺体を人形師に預け、彼女の人形を造らせた。
遺体の一部は焼いて埋葬してある。
人形の制作を依頼した際に、彼女の記憶をある程度抜き取り、根底となる感情を遺して新たな記憶を植え付けることに決めた。
記憶は断片も残さず抜き取った筈だから、今になって記憶が復活するのは有り得ない。
私は人形とした彼女と肩を並べられることを幸福としてきた妖怪だ。
妖怪の総大将。
重々しい名ばかりの肩書きを持つくせに、何故ニンゲンに肩入れしたのかは、今でも解らない。
自分でも不明のままにしておきたい。
*
朝六時に目醒めた後に待ち受けていたのは、つくづく奇妙な生活習慣。
池鯉鮒さんは行商箪笥を背負い、わたしと肩を並べて行商を続ける。わたしの持ち物はそれとは比にならない、小さい旅行鞄だ。
これは何でも入って、どうやら底無しらしい。
そして見映えの良いワンピースと、ベレー帽。たまにリボンのバレッタ。
どこに行商をしに行くのかと言えば、奇怪な格好、姿形をした客に、怪しげな薬やら宝飾品やら、時には古びて何が何だか判らなくなった様な錆の塊まで。
夕方になれば仕事を切り上げ、わたし達は家に帰る。
奇妙だけど、わたしが過去に求めた満ち足りた日々。
理解者が隣に居て、肩を並べて、同じことをして。
でも体は人形みたい、と言うより本当に人形になってしまった。
それでも食事は出来るから、何故かと、池鯉鮒さんに尋ねたことがあった。
結果としては、池鯉鮒さんはいつも言葉を濁すだけでいつも答えは得られない。
この機構を口頭で説明するのは、本当に難しいのだと言う。
理由がどうであれ、食事が出来てよかったと思う。
食事は好きだ。
前は自分で毎食作っていたから、好きなものを食べられていて幸せだった。
いわば、逃避行である。
そんなわたしを、池鯉鮒さんは決まって“
出される料理は大方和食だけど、要望があれば洋食や中華も作ってくれる。
口数の少ない店主さんがたった一人で店を切り盛りしていて、日々の客入りは少ないが、顔馴染みの常連客が毎日来る。
その中でわたしと一番歳が近いのは、
線が細くて女の子に見えるから不思議だ。
実際、わたしも最初勘違いした。
その子はわたしよりも少食で時々心配になる。
わたしの食べる量が異常なことは自覚しているけれど、それにしたって少なすぎるのだ。
例えば、
そしてわたしの大食いを店主さんも知っているので、運ばれてくる料理は人よりも多い。
今日の晩ご飯は鴨生姜焼定食とたこ焼きだ。
ここに通う内、いつの間にか定食と一品料理を頼むのが慣例となっている。
多めに盛られた白米はまだ湯気が立ち上っていて、味噌汁も暖かく、少し熱い位だ。
鴨肉を使った生姜焼は厚く切ってあるし、臭みもないから幾らでも食べられそう。現に一回だけお代わりをした。
付け合わせの塩揉みは白菜と人参だけ。でも簡素なものが一番美味しいのだ。
食べ終わる時は味噌汁で締めて、最後にお茶でさっぱりさせるのがわたし流である。
完食は何らかの達成感があるのだろうか、とても充足感で満ちている。
……もう少し食べたいな。
ふと頭をよぎった食欲に従い、お品書きに手を伸ばす。
そこで我に帰った。
こんなに食べてお勘定が大丈夫な筈がない。
ここは自制してご馳走さまと言う
手が後ろ髪を引き、ご馳走さま、と言いかけた。
「何を躊躇ぅ必要があるんや?」
「? ……え?」
突然、
「だって、これ以上注文すればお勘定が危ないでしょ?」
そろそろと、様子を伺いながら池鯉鮒さんの反応を待つ。
勿論、そうだ、と答える筈。
「? あんたこそぉ、何を言ぅとるんや? 好きなだけ頼んでええんよ」
「へっ?」
予想外の返答に、わたしは尚更躊躇った。
今までもこの余る食欲を否定されてきたのだ。
これ以上食べるのは迷惑極まりないだろう。
「いえ! その、これ以上食べると太ってしまうので……」
「それ以前に、名ちゃん、あんたは人形や。ニンゲンにつく脂肪なんか気にせんで、食おう思えば好きなだけ食べられるわぁ」
確かにそれもそうか。
端から聞いていれば、かなり理屈の通っていない話かもしれない。
だが現にわたしは人形なのだ。頭の先から爪先まで。
そうなれば脂肪と言う概念はないので、好きなだけ食べられる。
「えっと、違います! 心配しているのはお勘定の方で……」
「だから、おじさんには
つくづくどこまでも甘やかしてくれる人だ。
一体、どこまで甘やかせば気が済むのだろう。
もう縛られない人生ならば、いっそどうにでもなってしまえ。
わたしは卓上のお品書きを手に取り開いた。
「じゃあ……。
*
満腹になった
違った。この少女は
ここ暫く、茉莉の記憶が無い状態であちこちに連れ廻した
自分の都合で振り回し過ぎた。
その分の反省はするが、それ以上の不安が頭をよぎる。
若しこれから先、茉莉の記憶が断片だけでも戻らなかったら?
これから河合名として時間を積み重ねて行く内、以前と同じ様な茉莉との生活を再現出来るだろう。
だがそこにあるのは茉莉ではなく、あくまでも河合名なのだ。
腕の中で充足感に満ちた少女人形は、何を思い、何の考えをもとに行動するのか、全くもって予測のつかない。
以前は考えも、それこそ手に取る様に解っていたものだが。
── * ──
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