四譚 定休日の一幕
朝四時に自然と目が醒める。
夜は十一時半に眠り、目覚ましも要らず、店が定休日であるにも関わらず、毎朝四時に起きる。
四時間半の睡眠で一日動けるだけの体力が復活しているのが、昔から不思議だった。だがそれはいくら考えても、突き止めることはできなかった。
窓から僅かに差し込む光を暗闇で感じながら、枕の下を手で探る。
手に取った分厚い布を、まだ眠気が残る手つきで頭に巻いていく。
目を開くと、暗闇からぼやけた像が形成され、徐々に鮮明に成っていく。
この布は昔私が作ったモノで、視力を得るために力を使い果たした。
この時私は『影法師』から「糸」に成り、自分と言うモノと目とを得るのだ。
私は生前から完全に視力が無い。
生前、と言うのも、私は元よりこちら側の住人だった訳ではない。
一度死亡し、成仏しきれず、影法師に成り果ててしまったのだ。
しかしそれも昔の話で、「一度死亡した」と言う事実しか覚えていない。
身支度をしながら毎朝想像する。
若しほんとうの眼と言うモノが、
私はほんとうの眼で青と橙の空に流れる雲を追い、太陽の光を識り、海の広さを目の当たりにする。
そんな中身の無い夢を、私は何年もみていた。
身支度を終えるとすぐに部屋を部屋を出て、朝食も摂らずに店に向かう。
家から厨房につながる階段を下りると扉があり、開けるとカウンターが目の前に見える。
今日は週二回とっている定休日。しかし休みと言えどやることはある。
年季の入った柱時計は、四時十五分を指していた。
カウンター越しに見える調理場を掃除。席を整え、机を拭く。
その後、白い文鳥──
別段逃げることは無いので、入口を開け放っても問題は無い。
籠が開け放たれると、近くの椅子に飛んでいき、止まり、
「毎朝ありがとうね。昔はあまり出してくれなかったもの」
と流暢に朝の習慣となった礼を言う。
手鞠は喋る文鳥だ。貴婦人の様な高い声を持っている。
最初は驚きこそすれ、こちらのセカイに入った以上、そんな者に逐一驚いてはいられない。
「確かに、こいさんは出してくれなかったね」
苦笑いを混ぜて答えると、少し怒った様に、思い出す様に話した。
「ええそうよ。あの人が気まぐれに手鞠を出すときは、手鞠を手に止まらせて観察するだけですもの。その間動いちゃいけないから、退屈だったのよ? まあ、坊やが来てからはこうして毎日羽を伸ばせる様になったし、今でも感謝してるわよ」
こいさんは鳥が──特に観賞用のが好きだ。
昔はもっと飼っていたらしいが、今は手鞠がその生き残りだ。
「その間、怖くない?」
こいさんは三毛の猫又だ。鳥類の天敵が目の前に居て、いい気分はしないだろう。
「そうね……最初は怖がるでしょうよ、でもね、あの人はあの人で良い猫よ」
「そうだね。いい
私達は、なんだかんだこいさんを信頼しているんだ。それが嬉しい。
「それにしても毎朝こんな早くに起きていて、大丈夫なの? あなたは──」
「大丈夫。大丈夫だから」
手鞠が言いかけた言葉を無理矢理に遮って続けた。
「知っているだろう。僕は影なんだ。中身がないんだよ。だから、いくら補おうとも満ちない」
全て、空っぽの体に吸い込まれては消えていく。これじゃあいくら消費しても、浪費しようが意味が無い。
ふと手鞠を見ると、表情変化のほとんど無い鳥類の丸い目に、一瞬悲しそうな色が通り過ぎた様に見えた。
「そうね。あなたが言うならそうなのでしょうね」
毎朝少しずつ内容の違う会話を挟んだ後、表の掃除と雪かき。
昨夜に随分と降ったらしく、私の
雪かきに骨を折りながら考える。
今日は角の窓際席に
鍋も出そうかな。それに、熱燗の用意もしなければ。
今年も冬の光熱費が心配だ。
暑さ寒さをあまり感じることのできない体質だが、四季に合わせてものを考えるのが楽しい。
そうしたら、また“人並み”になれるんじゃないかと。
雪かきが終わると、時計はまだ六時を回ったばかりだった。
店内に入ると、手鞠が飛んできて肩に止まる。これも毎朝の慣例だ。
「今朝も散歩?」
「そうだね」
「体が冷たいわね。首巻きがあったでしょう、それして行きなさい」
「はいはい」
「返事は一回!」
「はい」
世話焼きな保護者が居ると言うのは、こんなものだろうか。
こうして色々の指図を受けながら支度をし、藍色の羽織と白の長い首巻きを巻いて、外に出る。
これらの防寒具は、昔こいさんに譲って貰ったモノだ。
息を吐くと、白煙となって空に消えた。
*
早朝に除雪車が通ったか、或いは早朝に人が雪をかいたのか、二枚歯の下駄で歩けるほどの道が確保されていた。
低い空を見上げると、鯨の影が鈍色の雲の向こうに見える。
まだ外灯の灯っている二段坂を下ると、広大な海が姿を表す。日課である散歩の終着点はここの砂浜だ。
雪の積もった浜に降り立つと、二枚歯の後がくっきりと残り、その下には白と黒の対比がある。
私はこいさんが亡くなった後、遺灰をこの海に撒いた。
帰りは少し遠回りをする道順を辿る。
農地が広がる地帯を、潮風から防ぐため道沿いに植林されている。
今は農閑期である為、雪が
私は冬が好きなのだろう。
店に辿り着く頃にはまた雪が降りだしていた。
「ただいまー」
「お帰りなさい。寒かったでしょ」
「うーん……そうかもね」
首巻きをほどいて柱時計に目をやると、まだ六時半だった。
脱いだ羽織を椅子に掛けて、この後何をすべきか考える。
先に炬燵を出すか、提灯を増やすか、それとも土鍋を引っ張り出してきて洗うか……。
「まず朝ごはんを食べなさい」
「……はい」
こうして、手鞠による指図の下毎朝の朝食作りは開始する。
今日は定休日だから少し時間の掛かるものでも良いでしょう、と言う。
卵を二つ割って、出汁、砂糖、
弱火でじっくり火を通すため、時間が掛かる。
その間、人参、ごぼう、玉葱、じゃが芋を細く刻み、炒める。
油揚げを半分に切り、熱湯を掛けて油抜き。鍋に昆布だし、
煮詰まったら、中に先程炒めた野菜を詰めこんで、爪楊枝で止めて巾着にする。
合間に卵焼きをひっくり返し、少しだけ焼き目をつければ完成。
炊飯器から白米をよそりながら、便利な時代になったと実感する。
しかし未だにガス
昨日の余った味噌汁を温めようと、冷蔵庫から出したとき、
「折角なら、炬燵で食べなさいな」
「先に食べろと言ったくせに」
兎も角炬燵を出す許可が下りたので出すことにする。
家の押入れから分解済みの電気炬燵を引っ張りだし、苦労して店内に運んだ。
席は入口から正面に見える角にある。
そこだけ一段高くなっていて、畳張りである。
座椅子や座布団に
間仕切り板が立てられており、周囲から見えづらい構造になっている。
一番広い席だから、五人から七人程の集会に使われることが多い。
炬燵の脚を付け、炬燵布団を被せ、天板を乗せれば組み立てが終わる。
電源を入れ、温まるのを待つ間に味噌汁を用意。
料理を全て盆に載せ、炬燵に入ると程よい温かさになっていた。
手を合わせて頭を垂れる。
「頂きます」
そこに手鞠が飛んで来て、食事を見守る様に盆の淵に止まった。
巾着によく味が染みていると思う。ご飯に乗せて食べると、昆布だしがしみだして美味しい。
卵焼きは桜海老の風味を殺したかもしれない。具材の入れすぎか、いっそ入れない方が良い。
巾着は冬のメニューに出そう。卵焼きはもう少し試行錯誤したい。
こんな風に日々の食事から考案するのが、一つの楽しみになっている。
緑茶で流し込むと、体が大分暖まった。気がする。
窓の外を見ると、既に数センチの積雪があった。
この縦長の窓は、外の映像を写しているだけで外に窓は無い。
昔、こいさんが知人に頼んで作って貰ったと言う特注品だ。
「……あ~、眠い」
今年も炬燵を出したときから覚悟していた。
「ちょっとここで寝るんじゃないわよ! ほらほら風邪引くから寝るなら部屋に戻った戻った! 聞いてる?」
「ん……お休み」
炬燵で食事をしたあと、高確率で寝落ちしてしまうことを。
*
「ほぉら、起きんさい。お炬燵さんで寝てはあきまへん。……全くこのこぉは何でいつもお炬燵さんに入っただけで眠りはるんやろか」
聞き慣れた声だった。
その声に応えるべく、起き上がろうとしたが体が鉛の様に重い。
ごめん。
炭の香り、暖かくなった体。多分炭炬燵だ。
懐かしい。昔家にあったな。
体を揺すって起こそうとしているのか、真っ暗な視界の中、優しく揺れている。
「全く起きんなあ、えらいこやわ。お夕飯は****にしてはるのに……食べてくれへんと悲しいわあ」
京言葉独特の奇妙なイントネーションで、語るように話すその人は、恐らく私の好物を作ってくれたのだろう。
確かに美味しそうな匂いが、僅かに漂って来る。
しかし、その部分だけノイズがかかった様にぼやけて聞こえた。
僕が好きなモノは、なんだっけ?
「あら、泣いてはるわこのこ」
*
目の前に手鞠がいて、顔を覗き込んでいた。
「……ごめん」
「まあ良いわよ。一日四時間しか寝てないでしょ? これで釣り合いがとれるから大丈夫」
色々言いながらも甘やかして来る時は、決まって何か言いたい時だ。
こう言う時は何か口実を作って逃げるに限る。
電気炬燵の電源を切り、すぐさま立ち上がって皿を下げ、片付け始める。
柱時計は午後一時を指していた。
皿を洗いながら、さっきのぼやけた夢を手繰り寄せていた。
聞き覚えのある京言葉、まだ炭炬燵だった頃、忘れてしまった私の好物。
夢は記憶を再生して観ているに過ぎない。
あれは、こいさんが居てくれていた時のモノだ。あのときはこいさんがまだ側に居た。
──パリン。
「……しまった」
ぼんやりとした考え事をしている内に、皿を落として割ってしまった。
割れたのは小鉢だった。小さかった分被害は少ないが、細かい破片がそこかしこに散っている。
焦って破片を回収していると、拾った破片で手を切った。
一筋の血が伝い、破片に垂れる。
「何やってるの!」
赤く濡れた手を眺めていると、手鞠が羽音を立てて飛んで来て、手首に止まる。
「あぁもうこんなにしちゃって。洗い物しながら考え事する癖直しなさい」
本当に親みたいにモノを言う。
でもそれが嬉しくもあるから不思議だ。
「大丈夫だよ」
そう言って血を水で洗い流すと、傷口は既に塞がっていた。
傷跡は次第に糸の様に細くなり、完全に消えた。
私が影法師に成った時から、再生能力だけは高かった。
いくら消費しても尽きない影。──それが私の正体。
肩で、手鞠がため息を吐くように顔を横に背けた。
「驚かせてごめんね」
「もう良いわよ、何も無いならそれで。……あぁそうだ、後で籠を閉めておいてちょうだい。いつでもいいから」
言い残して、竹籠に飛んで行った。
皿を片付けた後籠を閉じ、寒くなって来たので比較的暖かい家の方に、籠ごと移動。
部屋の掃除を済ませて、土鍋を洗った。
その間、手鞠は一言も鳴かなかった。
この場合私から切り出さないと解決しない。
私は自室の棚から、風呂敷に包まれたそれを持ち出した。
鮮やかな露草色の風呂敷を解くと、一本の細棹三味線が姿を表す。
その三味は弦に触れていないにも関わらず、ペェン、と高く鳴らした。
「こいさん」
そう呼び掛けると、また弦を弾いて答えてくれる。
こいさんは死後、自分の皮を三味にしてくれ、と遺言を遺していたらしい。
加えて、それを私に手渡す様に、と厳命して。
何故私なのか、何故そんな遺言を遺したのか、思うことは尽きなかった。
こいさんはこの為だけに、私に三味を教えたのだろうか。
弦を調律しながら考えていた。
どうも私には、何かをしながら考え事をする癖があるらしい。
調律を終えて、手鞠の籠を自室に入れる。
「あら汚い部屋」
「悪かったね」
これでも掃除はまめにしている方だと思うのだが。
「私が人間か、せめてヒトガタに近いものだったらお掃除なりなんなり出来たのに……」
……親に反発したがる子供は、こんな心情なのだろう。
机の上に籠を置き、私は正面の椅子に腰掛け、手鞠と向き合う。
三味を構えて、弦を爪弾いた。
「……猫じゃ猫じゃとおっしゃますが 猫が猫が足駄はいて 絞りの浴衣で来るものか……」
こいさんに一番最初に教えてもらった小唄だ。
手が小さくて
昔手鞠が、練習に付き合うと言う口実でよく歌ってくれた。
「懐かしいわねぇ……」
声音は聞き惚れた様だが、しかしまだ足りない。
手鞠が歌った時初めて満足するのだ。
「……蝶々蜻蛉やきりぎるす 山で山でさいずるのが……下戸下戸とおっしゃますが 下戸下戸が一升鬢かついで前後も知らずに酔うものか オッチョコチョイノチョイ」
繰り返し爪弾きながら手鞠の様子を伺うと、小唄を聴くでもなく、何故か私の手元ばかり見ていた。
「ほら何ぼうっとしてるの。手元が狂うわよ」
「ん? あぁ、ごめん」
手鞠はその後も手元を見続け、まるでこいさんが三味を教えているみたいだった。
あの人はやり方を見せた後、こんな風にじっと見ていて、特に何を指摘するでもなく、手の動きを目で追っていた。
私としては困りものだったが、今になって考えてみると、自分でものを考える力をつけさせる為だったのかもしれない。
手鞠が今している事は、それの延長なのか、或いはこいさんに代わって見守ろうとしているのか、私にはよく判らない。
小唄を三曲弾き、その間手鞠が私の手元を見、歌い出したのは五曲目に入ってからだった。
「あぁ疲れた、こんなに歌ったのは久しぶりよ」
五曲目に入ってから更に五曲歌いっぱなしだったのだ、それは疲れるだろう。
「あなた、途中でテンポを早くしたでしょう」
「バレたか」
「バレたか、じゃないでしょ。混乱したわよ」
私がふざける様に笑って見せると、叱りつける様に
「そろそろ眠いわ」
手鞠の籠に布を被せ、暗くしてやる。
寒いので今日から暫く自室に籠を置くことにした。
「お休み」
そう呼び掛けると、布越しにくぐもった返答が返って来る。
「あなたもね。……まあ、言っても十一時半に寝るんでしょうけど」
「そうだね」
その言葉を最後に、手鞠の高い声は聞こえなくなった。
これからは一人の時間になる。
一昨日購入した料理本を読み
つみれ鍋、ぼたん鍋、豆乳鍋、キムチ鍋、カレー鍋……。
湯豆腐も出したいし、すき焼きやおでんもいいな。
来週から試験的に、何か出してみよう。とりあえず豆乳鍋から出すか。
十一時になるまでに、料理本を二冊読んだ。
冷蔵庫の中を確認してから寝るのが、昔から習慣として染み付いている。
明日が定休日だとしても、確認しておかないと何故か不安になる。
店に入ると床が冷えきっていて、刺すような寒さが染みた。
窓の外は窓枠まで雪が積もっている。
卵は常に不足気味だ。根野菜も。
そう言えばもう少しで米が切れそうだ。
明日は開店前までに色々買い足さなければならない。
品物が無くなる前に市場に行くことにした。
十一時半を過ぎたところで布団に潜る。
漸く布をほどける時間でもある。
最近はどうにも寝付きが悪くなって、三十分程経たないと眠れない。
その間が以外と暇で、視力も完全に無く、かと言って布を巻けば目が醒めるので、結局眠れるまで起きている。
この時私は、願っても叶わない中身の無い夢を見る。
もしも、片目だけでも手に入ったら、と想像する。
ただ、目を手に入れたら私は何者になるのか、体を無理矢理動かして生きる影以外の、何者になるのか。
私には今、こいさんが生きている間に手に入れていた、眼球の候補が手元にある。
綺麗な、碧と黄金が混ざった様な、日にかざすと縹がちらつく、美しい、私には勿体無い程上等な硝子玉だ。
想像できないからこそ、それだけが少し怖い。
私は毛布を頭から被った。
*
本日の料理
・卵と根野菜の巾着
・根野菜炒め
・具沢山卵焼き
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