第10話

「――綺麗」


 トーヤが言った七色に光る噴水を見て、思わず声を上げた。

 元は真っ白だったと思われる噴水は、随分と年季が入っている。流れる七色の水が、緊張で強張っていた心を和ませてくれる。

 王宮に何度も来たことはあるが、師匠もトーヤもこの場所を教えてくれなかった。


「落ちるよ」


 どう言う構造になっているのか気になり身を乗り出すと、耳元で囁かれる。しかも笑っているらしい。


 五年前には見られなかった彼の珍しい表情に戸惑ってしまう。


「あの。そろそろ下ろして貰ってもよろしいですか?」


 強張った声でそう言うと、ルーファス様は逡巡した後、ゆっくりと私を近くのカウチに下ろす。

 そして隣には座らず、なぜか私の目の前で跪いて両手を握った。


「あ、あの……」


 今まで、こんな風に扱われた記憶がない。

 記憶の中の彼は、私に常に不愛想で興味がなかった。なのに、どうしたのだろうか?


「どこまで話を聞いた?」


 戸惑っている私に、緊張したようにルーファス様が口を開いた。

 どうやら握られた手を離すことはないようで、私も諦めてそのままにしておく。


「竜国とトーヤ。それにセラティア様が仕組んだと聞きました」


「……こんなことになるなら、王女ではなく君の手を掴むべきだった」


 思わず息を呑む。

 それは一番私が聞きたかった言葉。でも、もう遅い。


「ルーファス様。もう過去のことです。それに言っていたではありませんか? アデル王女に惹かれていたと。あれが、あの時の真実です。あなたに私への愛情はなかった。だから……もう良いのです」


「確かに俺が悪いな。婚約者である君をないがしろにした……。それに、こんな……怪我をすることもなかったのに。本当にすまない」


 何度も謝るルーファス様に苦笑する。


 どんなに謝って嘆いても、過去に戻ることは出来ない。出来ることは未来をどう生きるかだ。


「ルーファス様。私は竜国に来て息が出来るようになりました。……私には秘密がありました。そのせいで家族との関係も微妙でしたから。だから、あれで良かったのです。怪我は治ります。竜族は、約束を違えることはありません」


 竜人は時に残酷だが、時に慈悲深い。

 簡単に裏切る人間とは違い、私の中でトーヤと師匠は信頼出来る人物だ。たとえ、この怪我が二人の責任だとしても。


「ファシーユ。秘密のことは聞いた……。君の兄上から。未来が見えると……」


 握られている手に力が籠る。

 どちらの兄が話したのかわからないが、私がいなくなってから秘密を聞いたと言う。

 そして、兄達は私への接し方がわからず、時間が経つほど、その距離は開いてしまったと。


 ――後悔している。


 私がいなくなった後、兄達も必死で探していたとルーファス様は教えてくれた。


「それを聞いた時、辻褄が合った。危険な時には常に君が傍にいたから。守ってくれていたのに。……すまない。なのに、君を守れなかった」


「いいえ。自分で決めたことです。それに、何度も言うように私は竜国に来て良かった。死ぬような怪我を負っても、この力を気味が悪いと嫌う人がいないから。それだけでアリーシェとは違います」


 人間は異端を嫌う。

 でも竜人は差別しない。

 気味の悪い力を持っている私にも常に優しかった。長く生きている分、学び、得た物があるのだろう。



「ファシーユ。一緒にアリーシェに帰ろう? 必ず幸せにするから」


 最初、何を言われているのか分からなかった。

 だが、ルーファス様の瞳が不安で揺れている様を見ると、現実が戻ってくる。

 そして、それは出来ないと首を振った。


「……ごめんなさい。私にあの国で生きるのは無理です。嫌な思い出も多くて生きづらいから」


 いくら兄達が後悔していると言っても、人間の心はそう簡単には変わらない。また、あの気まずい空気の中過ごしたくなかった。

 そして、あんなに好きだったルーファス様に、ここまで言って貰えたのに心が動かない。今もとても好きなのに、どうしても頷くことが出来ない。


 私ではない女性を好きになる彼を見たくないから。


「……ファシーユ。でも、俺は君を諦められない。君が傍にいて欲しい」

「ごめんなさい。私はこの国にいます。……ルーファス様には、もっと相応しい方がいらっしゃいます。だから、私のことは忘れて下さい」


 自分で、自分の言葉で伝えたのに、心の奥に痛みが走る。

 でも、それに気が付かないふりをした。

 もう十分だと自分に言い聞かせて。


「……わかった。明日、帰るよ。寒くなってきから戻ろうか」


 長い沈黙のあと、くしゃりと泣きそうな顔で笑ったルーファス様に、胸が締め付けられた。

 そして、来た時と同じように抱き上げられる。

 そんな彼の首に抱き付いた。これが最後だからと。


「……ルーファス様。夢を奪ってごめんなさい。夢見で見たの。騎士として私と一緒にいると……死んでしまうから。私と一緒にいなければ大丈夫だから。……遠回りさせてしまって、文官の道を選択させてごめんなさい」


 あの時、未来を見てしまったせいで彼の夢を奪った。

 それだけは謝らなければならない。


「ファシーユ。君は誤解しているよ。俺は最初から文官を目指していた。昔読んでいた本を覚えてる? 緑色の表紙の魔術師の話だ」


「えっ?……」


 顔を上げてルーファス様を見る。


「ええ。確か幼馴染の魔術師と文官が国を救う話」


 それは昔からアリーシェに伝わっている本で、誰もが読んだことのある有名な冒険記。

 国が魔族に襲われた時、勇者が現れなくて危機的状況に陥っていた。

 手練れは全て戦いの場へと行き戻らない。そこで自分の国を守るために立ち上がった二人がいた。


 魔術師は力で戦い、文官は知力で支え続ける。

 しっかり者の女性魔術師と、ちょっと頼りない男性文官の恋物語りも魅力の一つだった。

 私はそのお話が大好きで、当時は文官を本気で好きになった覚えがある。


「覚えてないかな。『そんなにその本が好きなの?』って俺が聞いたら、ファシーユは『物語も好きだけど文官に恋したの』って……その時、文官になろうって決めた」


「えっ……。全く覚えていないわ」


 まさかの真実に開いた口が塞がらない。


「それに騎士の家系だけど、母方の家系は全員文官だよ。俺は頭を使っていた方が楽しいから気にしなくて良い」


「本当に?」


「ああ」


 私に気を使っているのではと心配したが、ルーファス様は晴々とした顔をしている。

 その空気が心地よかった。

 手放したのに、拒絶したはずなのに、揺らいでしまいそうになる。


「……ここで大丈夫」


「中まで一緒に行こう?」


「……大丈夫よ」


 裏庭へ通じる回廊で下ろして貰った。

 離れるのが少し名残惜しい。これが最後だとわかったから。

 彼との未来を諦めた私と、もう会うことはない。


「ルーファス様のご活躍をお祈りしております」


 心からの祝福をおくる。


「……ファシーユも元気で」


 目礼すると、背を向けて歩き出す。彼もまた反対側へと歩き出した。未練がましく振り返ることはしなかった。

 出そうになる嗚咽を堪える。



 回廊の角を曲がると、なぜかそこに師匠がいた。


 身体の線を協調するような黒いドレスは、今から夜会に出掛けそうな装い。豪奢な宝石も全てが黒で統一している。


「不憫な子ね。一緒に行っても良かったのに」


「嘘です。師匠もトーヤも私を傍に置きたいでしょう?」


「あら、ファシーに傍にいて欲しいのはトーヤよ。私は見守っているだけ」


 師匠がまるで男性のように私に手を差し出し、体を支えてくれる。

 どうやら自分で思っていたよりも緊張していたらしい。力が抜ける。

 私の変化に気が付いたのか、師匠が心配そうに私を見るが何も言われなかった。


「どう言う意味ですか?」


「その内わかるわ。トーヤの番が死ぬ間際に、遺言めいた予言をしていったの。あの子はそれを待っている」


 さらにわからなくなった。

 師匠に理由を聞いても一切教えてくれない。


「明日、彼を見送らないの?」


「……見送りません。いい女は引き際が肝心です」


 そう胸を張って言うと、師匠が声を上げて笑った。


「ええ、そうね。ファシーは素敵な女性になったわ。不貞腐れたり、泣いてばかりいる子供は卒業したものね。そうそう、私はしばらく留守にするからお願いね?」


 いつも唐突にいなくなる師匠の奇行には慣れっこだ。

 いつもは目的地を言わない師匠だが、一応聞いてみる。


「どこへ行かれるのですか?」


「海の薬草を取りに南の国へ。ファシー、足と額の傷、絶対に治すから期待していて。奇跡の薬草なんて私も初めて聞いたわ」


 満面の笑みを浮かべる師匠は、どこまでも自由な人だ。どうやら、身体を治す約束を守ってくれるらしい。


 私が王宮で借りている部屋の前まで行くと、師匠が身を翻して去って行った。


 どうしてあそこに師匠がいたのか不明だったが、少し心が温かくなる。私を慰めるために待っていてくれたのかも知れない。

 部屋に入ると窓辺に行く。

 さっきまでいた庭園を見下ろす。




「……ルーファス様が幸せでありますように」

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