幕間 ガラクティクス

 見上げる空に星は失せ、ただ無機質な灰色の天蓋が広がっていた。平板な床の上を勢いで滑り、血と熱が一緒に流れ出した。

 シンの身体は冷え切っている。硬く平らな床の上に熱と朱色が拡がっていく。胸で泣くニアベルの身体が火傷しそうなほど熱かった。

汎銀河ネットワークストリーム再リンケージ、全機関に優先治療を要請します。お願い、シンを助けて〉

 取り乱した声に呼応して、床から医療チューブが這い出した。シンの身体に突き立っていく。ニアベルが毛を逆立て、シンに潜り込むそれを引き毟ろうとした。

『やめなさいニアベル、それを外せばシンが死にます』

 不意に聞こえた声にニアベルは手を止めた。聞いたことのない声のはずが、不思議とずっと一緒にいた気がした。

 医療チューブがシンを乱暴に蘇生した。咳き込むように血と息を吐く。

『シン』

 ニアベルがシンの顔を覗き込む。ぽたぽたと熱い雫が頬に落ちた。

 涎でなければ良いのだが。意識を取り戻すなり、シンはぼんやりそう思った。

 薄目の裏にバイタル表示と多視点画像が流れていく。シンが久しく見ることのなかった表示だ。実験殻の管理者認証がシンが唐突に復帰した理由を問うている。扉も通らず何処から現れた? 登録も個人認証もないそれは何者だ?

 不意にニアベルが身動いだ。シンを覆い隠すように低く身構え、薄明りに向かって鉈を突き出した。

「いきなり帰って来たと思ったら、何だか元気なのを拾って来たな」

 億劫そうな、からかうような、どこか調子の外れた声がした。

〈債権者権限において情報の共有を要請します。おや、これは思いのほか重傷ですね。状態もよくありません。こんな事態になるまで何をしていたのです、D3342PA〉

 フースークのアシスタントが割り込んだ。

「いやいや、別にいいじゃないか。それ、ちゃんと面倒をみなさいよ?」

 シンから情報を吸い上げながらフースークはのほほんと肩を竦めている。

〈ですが、人格の歪みが許容値を超えています。D3342PA、貴方には人格修正が必要です〉

〈私は――〉

〈彼女は正常だ。修正を拒否する〉

 シンは思わず言い返した。

 フースークは自身のアシスタントを諫めるように指先でこめかみを叩くと「君だって人のこと言えた義理じゃないよ」と小さく呟いた。

 シンを覗き込もうとフースークが近寄ると、威嚇するようにニアベルが唸った。

「何だってこんな子にゴブリンなんて種族名を付けたんだ? 君のセンスは最悪だなあ」

「あ――」

 あんたの寄越した文献のせいだろうと言い掛けて、シンは喉に残った血に咽た。ニアベルが慌てて振り返り、不安気にシンを覗き込む。

「ああそうか、僕のライブラリを使ったんだな。役に立ったようで何よりだ」

 アシスタントに指摘されたのか、フースークは勝手に納得して笑った。その声に反応してニアベルがまた鉈の切っ先を向ける。

「どうどう、取って喰いやしないよ」

『落ち着きなさい、シンは死にません。その男もたぶん無害です』

 実験殻の出力を使ってデルフィがニアベルに言い聞かせた。ニアベルはゆっくり後退ると、不意に鉈を放り出してシンに縋り付いた。喉の奥できゅうと鳴くよう声を漏らし、またぼろぼろと泣き始めた。

 シンが動けないのをよいことに、フースークはシンの頭の先にしゃがみ込んだ。

「尻尾があれば完璧だったのに」

「黙れ」

〈黙りなさい〉

 シンと自分のアシスタントに責められ、フースークは困ったように頭を掻いた。デルフィは二人の趣味の相似に驚いて専用の備忘録に書き留めた。

「そうだ、もしかしてこれは君のかな?」

 フースークは懐を探って剥き身の刃物を引っ張り出した。床に放り出したニアベルの鉈と瓜二つだ。

「ほら」

 刃を持って柄を差し出す。

 ニアベルはシンと柄とフースークを交互に見比べた。シンが頷くと、ニアベルはおずおずと柄に手を伸ばし、フースークから素早く鉈を奪い取った。

「これさ、フソウくんに刺さってたんだ。調整卓にひっくり返ったものだから、ゲートが消えてしまってね。どうしようかと思ってたところさ」

 物騒なことをさらりと言ってフースークは口許を顰めた。

「彼、ここに忍び込んで君が何の実験をしているのか探ってたらしい。君をゲートに突き飛ばしたのも彼だそうだ。君、イスズくんに言い寄られてただろう? それに嫉妬してつい、だってさ。人間っていうのは色々面倒だね」

 フースークが言うのはミドルアースに落ちたその当日の話だろう。名に何となく聞き覚えはあるが、顔がまったく出て来ない。

 デルフィが気を利かせて視界にタグを表示した。あの日の朝の二人だった。フソウは背中だけしか見なかったが、確かにイスズとは他愛のない話をした。

「まあ、実験がばれちゃったから、ここは移すつもりだ」

 フースークが肩を竦める。

 シンは首を傾けて胸元に目を遣った。ニアベルが胸に身を伏せてシンの息遣いや心音を確かめている。増血して血色が戻ったのは自分でも感じられた。

 手を持ち上げると医療チューブが床から尾を引いた。ニアベルの髪を撫でると、目を細くして頭を掌に擦り付ける。ニアベルはシンに繋がった医療チューブに困惑しながらも、それの役割を何となく悟っているようだ。

ゲートは失敗だ」

 シンはフースークに呟いた。

「そうかい? 地球なのは合ってたじゃないか。まあ、他は色々違ってたけれど。でもまあ、大した問題じゃない」

 大いに問題だ。

「もっとも、君が失敗だって言うならやり直しても構わないよ」

 フースークは意地の悪い目でシンに言った。

「それも借金の内だからね」

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