第2話 出社
翌朝、娘のあおいは不機嫌だった。おしゃべりが少なく、具合が悪いのかと思ったけれど、ごはんはよく食べたし、熱もない。
会社には、車で向かう。運転するのは類。
家具屋には免許が必要と言い、大学在学中に運転免許を取得した。地下鉄やバスを使えば会社まですぐだけれど、あおいの送迎のことや、公共交通機関で元・超人気モデルが騒がれないように、車通勤の許可を得ている。
類ならばスポーツカーが似合いそうだが、ほぼ通勤用だし、子どもを乗せるので、フォルムのかわいいシトロエンを選んだ。
社内にある保育園の前で、三人は聡子に出会った。今日は濃いグレーのパンツスーツである。
「おばーちゃん、おはようごじゃいまっしゅ!」
ゆらゆらと髪を揺らしながら、あおいは聡子に駆け寄った。
「まあ、あおいちゃん。おはよう。今日も元気で、ほんとうにかわいい。小さいころの類にそっくりで、おそろしいぐらい」
聡子はあおいをだっこして、よしよしとほっぺをすりすりした。孫がいる三十代。そして、会社社長。
「おはようございます、聡子社長」
「おはようございます」
類が、そしてさくらも、聡子に朝のあいさつをした。母とはいえ、社内では『社長』と呼ぶことに決めている。
「おはよう、類さん。さくらさん」
そして、社員どうしは『名前』を『さん』づけで、呼び合うことになっている。
「あのねえ、おばーちゃん! きのう、あおいがねてるときね、ぱぱとままが、となりでずーっとちゅっちゅしてたの、はだかんぼうで! あおい、おふろでたら、すぐにふくをきましょうねって、いっちゅもままに、ゆわれるのに!」
うわあ、やっぱり見られていたし。それで不機嫌だった? しかも、会社で聡子に大声で暴露とは。無邪気な子どもの逆襲、おそるべし。さすがの類も、動揺した顔つきになっている。
「あら、よかったわね。それは、とってもいいことよ、あおいちゃん。パパとママの仲がいいから、あおいちゃんは生まれてきたの」
「ほんと? いいこと?」
あおいは、じっと聡子の顔を見た。
「ええ。ほんとうよ。でも、パパとママの、ちゅっちゅのことを誰かに話すと、新しいきょうだいがこなくなるかもしれないから、ないしょね?」
「わかった。あおい、ゆわない! でもね、ままはぱぱのこと、『るいくんるいくん』てゆうの! きのうも、いつも。ぱぱは、ぱぱなのに」
「そうね。それは、そろそろ考え直したほうがいいかもね、さくらちゃん? ベッドの中では別として、社会人になってまで、夫に『類くん』はどうかと思う」
攻撃のターゲットがさくらになったのを見定めた類は、あおいと保育園バッグを横抱きするように奪った。
「それは、ぼくも同感! 第一希望は『あなた』。『ぱぱ』は却下ね。あおいを、園に届けてくる! そのまま出社するよ。昨日は外出先から直帰で一緒に帰れなかったけれど、今日は定時で上がれるはず。終業後に、またね」
うわあ、逃げた。
でも、類が目下研修先の営業部は、ほかの部署よりも始業が十五分早い。終わるのも十五分早いけれど。
「……類は、相変わらず軽いわね。社内での評判は、抜群にいいけれど。さくらちゃんのほうは、どう?」
さくらは、社内で立ち上がったばかりの『建築事業部』への配属を熱望していた。シバサキブランドの家具を使い、家を建てる仕事を担う部だ。しつこく、配属希望届を書いた。
しかし、子どもが小さいという理由と、聡子社長の配慮により、結果は事務方の総務部への配属だった。会社全体を総括する要の部署だが、なにかを作る部ではなかった。
「みなさん、とても丁寧で、やさしく接してくださいます」
「いずれ、希望の部署へ回してあげるつもり。そのあとは、類の補佐をしてほしいから、今のうちにたくさん勉強しておいて。会社の基盤から、隅々とね」
「はい」
「最終面接で奮ったあなたの熱弁、今でも幹部の語り草よ」
社長の娘なのだから審査など不要、と思われていたけれど、聡子は役員への顔見せも考え、採用試験ではほかの入社希望者と同様に、さくらを面接した。
さくらは、シバサキファニチャーの家具を使った家を建てたいと、切々と語った。
「あれを聞いて、さくらちゃんのことを、社長の娘でなくてもほしい人材だって、たくさんの人が支持してくれた。焦らないで。そうね、あおいちゃんが小学校に入るころには」
うれしい提案だった。けれど、さくらは戸惑った。
「そうしたいのですけれど……類くんが」
熱烈にきょうだいをほしがっている……そこまで言うと、聡子はさくらの口をそっと塞いだ。
「うーん、そこまで。なかなか、ディープな話になりそうね。お昼休み、一緒にランチしましょ? 休憩時間になったら、私の部屋まで来てくれる?」
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