遠き日のカレイドスコープ

宇津木健太郎

第1話

 雨がパタパタと、薫の持つ傘を叩いている。秋の夜に降るその雨は、驚く程に冷たかった。大人が二人、余裕を持って入れそうな大きさの傘を差して道を歩いていた薫は、降り注ぐ雨粒に叩かれて歪み続けるコンクリートの上の水溜まりと、その水面に乱反射する街の灯りを眺めながら、ぼんやりと信号が変わるのを待つ。

 時刻は、午後十一時三十分を少し回った頃。人通りは少ないが、見回せば必ず誰かが視界に入る程度には人影がある。車も、まだヘッドライトの明かりで薫や他の通行人の目を眩ませる。

 信号が変わり、視界が赤を基調とした光景から青を基調としたそれへと変化する。薫は、駅へと急ぐ会社員達を尻目に彼らの来た方へと歩き、目的の店を目指した。

 ブルームーンは、半地下のピアノジャズ・バーだ。大通りに面した、しかし入口のそう広くない階段が、歩道から地下へと続いている。店の入っている建物の地面にほど近い場所に、半月状の曇りガラスの明かり取りの窓があり、それがバー全体のアンティークな印象を強くしていた。

 傘をたたんで傘立てに置き、薫はそっと店の扉を開く。途端に、肌寒い秋の外気とは違う人工的なやや暖かい空気が、薫の体を包んだ。

 店内は、この時間だというのにまだ人が多い。全客席の七割くらいは埋まっているのではないだろうか、という程だ。恐らく皆、凪の演奏目当てだろう。今はまだ誰も、演奏エリアでピアノを演奏している奏者に特段注意を払ってはいない。それが普通のジャズバーではあるのだが。

 顔見知りのアルバイトバーテンダーの一人が、ラストオーダーですよ、と言おうと入店した薫の顔を見て、ああ、と得心した顔をして離れていく。きっと、店の奥に居るマスターを呼びに行ったのだ。

 客の邪魔にならないように、薫はこっそりとバーカウンターまで近づき、カウンターで一番ピアノまで近い距離の椅子に座って、マスターを待つ。彼だけはこの店で唯一、店主だけが直接相手をする事になっていた。と言っても、彼が特別の上客というわけではない。薫より金払いのいい客は、いくらでも居た。

 それでも、彼は店にとって……正確にはマスターにとって個人的に、とても大切な客であった。

「こんばんは」

 マスターである井森が店の奥から顔を出し、気さくに声を掛けてきた。ぼんやりと、自分より一回りくらい年上の奏者がピアノを気持ち良さそうに弾いている様子を見ていた薫は、顔を上げる。自分よりも活力と生気に溢れた堂々たる顔つきの男であるが、もう五十はとうに超えた筈だ。あと二十年と少しで、自分はこんなにも貫禄のある人間になれるだろうか、と彼の顔を見て薫は考えてしまう。

 そんな物憂げな表情と所作から何かを感じたのだろう。井森は苦笑いをして、どうしたの、と短く訊いてきた。「何かあった?」

 薫はすぐにそれには答えず、「チャイナ・ブルーを」と一杯注文した。井森は黙って頷き、深くは追求せず、黙々とカクテルと作った。

「凪の番は、次ですか?」

「うん。今日のラスト」

「今日も、でしょう」

 彼女は店の看板だ。ジャズバーのジャズなど、酒と場の雰囲気を楽しむエッセンスでしかないと考える者も少なくない中で、しかし彼女を目当てに店に来る客も居ると聞く。そんな彼女の活躍を見せる為、凪はその日のラストを演奏する事が殆どだ。だから、閉店時間の零時まで、彼女はずっと店に居る。そんな彼女の演奏を見聞きして、客はゆっくりと順々に席を立ち、帰っていく。

 薫だけが、凪が出るまで店に残る事を許されている唯一の客だった。

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