自分色
藍
『僕色』
また今日も、自分の意見を口に出せなかった。
僕らしい ってなんだろうか。国語の授業で、自分らしく生きることの大切さを、先生が語っていた。納得する部分が無かったわけではないが、どうもしっくり来なかった。多分僕は、僕のことが分からなかったんだろう。
どちらかというと無口な僕は、友達が少ない。別にたくさん欲しいと思わないし、不満はないんだけど。それでも、大人数で盛り上がってるとこを見ると、正直少し羨ましい。あのグループの中心人物が、以前僕に話しかけてくれたことがある。だけど僕はうまく返事ができなくて。自分の想いを口にできたなら、僕もあの中に入れたのだろうか。そんな自分の甘い考えを鼻で笑った。
今日も読書をしている。読書は好きだ。本は僕の視野を広げてくれる。ああ、こんなこともあるのかって気づかせてくれる。これまで色々な本を読んできたけど、どの本も素晴らしかった。読んで、学んで、生かす。それがどれだけ気持ちの良いことか。とにかく僕は読書が好きだ。
僕の数少ない友達うちの1人に、C男がいる。彼は僕と同じく読書家で、僕よりも大きな本棚を家にいくつも持っている。そして僕にたくさんの本を紹介してくれて、貸してくれる。僕もいつかは彼のように本棚に囲まれて生活したいなあと思っている。
彼とは学校の図書室で知り合った。図書室はもともと僕のお気に入りの場所で、入り浸っていた。そこで気づいた。僕の他にも図書室をお気に入りの場所として使ってる人がいることに。彼こそがC男だ。いつも決まった場所で本を読んでいる。そして、読みながら彼は何かメモを取っている。僕はそのメモを見たくてたまらなくなった、彼が何をメモしているのか 気になってしょうがなくなった。でも話しかける勇気は出なくて、ちらりと横目で見ることしかできない。こんな時に話しかけられる人をとても尊敬する。なんて僕は弱いんだろうと落胆し、諦めて自分の前の本に目を落とした。読み進めていると、目の前に人のいる気配を感じた。ふと見上げてみると、ついさっきまで僕が横目で見ていた彼が笑顔で立っていた。
『図書室によくいるよね、読書好きなの?』
僕はびっくりして声が出ず、ただ頷くことしかできなかった。そんな僕を見て彼は笑った。その笑顔は僕には眩しすぎるくらいだった。ちらっとスリッパの色を確認すると、同学年であった。
僕は思い切って、メモのことを聞いた。すると、彼はこころよく見せてくれた。そこには、本の題名と感想がびっしりと書いてあった。印象強い言葉とか文章とかもずらりと並んでいた。真剣に読んでいると、彼は恥ずかしいな、なんて照れ笑いをしていた。僕は初めて、この人と仲良くなりたい、友達になりたいと思えた。そして幸運なことに、向こうもそう思ってくれたらしく、僕に右手を差し出して、これから仲良くしようって言ってくれた。その時すごい久しぶりに、僕は笑った。
それ以来、僕は彼と図書室の同じ机で本を読む。そして僕もメモを取るようになった。さらに、C男の友達とも仲良くなることができた。
ある日、C男が僕に 星に興味はあるか と尋ねた。僕は、興味がないわけではない、と答えた。たまに夜暗くなってから家の周りを散歩するときに、ふと夜空を見上げると星がちらほら。それがなんとも綺麗で、自分の心の癒しになる。かといって天体望遠鏡で見るわけでもないし、天体について詳しいわけでもないので、興味がないわけではないという答えに行き着いた。すると彼は、君らしい答えだねと言いながら、1冊の本を差し出した。銀河鉄道の夜。これを読んでみてと言われた。受け取った。その本はずっしりと重かった。
その日の夜、自分の部屋でじっくりと読んだ。いじめられっ子のジョバンニと幼馴染のカムパネルラ。銀河の中を走る列車。幻想的だった。
『本当の幸せとは』C男のメモに、この本のところにこう書いてあったことを思い出した。本当の幸せ。列車に乗ってる人の共通点。それは、人のために命を落としたこと。自己犠牲を払った人。人のために、生きることが、本当の幸せ、?
深く考えてるうちに僕は、星でいっぱいの夜空を観たくなった。窓から見る星じゃ、この欲求を満たすことはできなかった。だか夜も遅いので、布団に入って眠りについた。
次の日は、休日だった。いつもは市の図書館に行くか、家の近くの書店に行くか、それとも家にこもってるか。でも今日は少し散歩したくなった。それは窓から差し込む太陽の光が気持ちいい暖かさだったからだろうか。それとも外から聞こえる鳥のさえずりが心地よかったからだろうか。
1冊の本、C男に借りた本を片手に家を出る。案の定、外は眩しい太陽に照らされ、鳥たちも元気に空を飛んでいた。
ふらふらと、ひたすらに歩いた。野良猫に出会った。僕が近寄ると逃げた。小さな子が目の前で転んだ。黙って立ち上がったかと思うと、だんだん顔を赤らめて、ついにわんわん泣いた。お母さんが駆け寄ってきて、衣類についた砂を払いながらその子の頭を撫でた。少し懐かしい気持ちになりながら、僕は歩いた。
15分くらい歩いたところで、ベンチを見つけた。普段運動しない僕は、少し疲れていたのでそこに座ってもう一度読み直した。やっぱり星が観たくなった。空を見上げると、星の代わりに真っ青な空。本当に今日はいい天気だ。そのまま周りを見渡した。もしかしたら、星を見るには最適なんじゃないか。そう思ったのは、街灯が少なかったから。そして、今晩ここに来ようと決心して、1度家に帰った。帰る途中に書店があったので、調子に乗って星座についての本を買ってしまった。
夜風が吹いてきたようで、窓の外からひゅーと音がする。庭の木が揺れる。肌寒そうなので、上にジャージを羽織って外へ出た。かっこつけの星座の本と共に。昼と同様、15分くらい歩いたが、昼に見た野良猫や子どもなどには会わなかった。歩くにつれ、街灯もだんだんと少なくなっていった。
昼の場所に着いた。やっぱり、思った通りだった。光の少ないこの場所では、星が本当に、本当に綺麗に見えた。本を開いて、これがあの星座で、とかはしなかった。ただただ、この夜空をぼうっと、眺めているだけで、心が落ち着く気がした。
この日から、毎週何日かはこの場所に来るようになった。
銀河鉄道の夜をC男に返した。どうだった、と聞かれたので、僕はお気に入りの場所を見つけたこと、しばしばそこで星を見ていることなどを報告した。すると彼は僕に、悩みでもあるのか、と聞いた。僕が不思議そうな顔をすると、彼はクスリと笑いながら、俺がそうなだけか、と呟いた。C男でも悩むことがあるのか。全ては本が教えてくれてるんじゃないのか、と言った。彼は少し悲しげな顔をして、全てとは限らないんだよ、と言った。僕にはそれがわからなかった。このままたくさんの本を読んでいれば、わからないことなんてなくなるはずだと信じていた。でもそうじゃないらしい。その日の夜は、星を観ながら、彼の悲しそうな顔を思い出していた。
ある時僕は思った。C男と仲良くなるにつれて、彼には自分の意見が言えてるんじゃないか、と。彼と話していると、自分のことが少しだけ好きになれる。でも、それは彼と、だけだ。教室ではひたすら本を読む。誰にも話しかけられないように、気配を消す。僕はそんな自分が嫌いだ。みんなが、C男なら。彼のような人ならなあ、と考えながら見上げた先には、北斗七星が、輝いていた。
翌日、いつものように図書室でC男と本を読んでいた。でもその日の僕はなんだか調子が悪くて、本の内容が全然頭に入ってこなかった。昨日の夜考えていたこと。そのことだけが頭の中を巡っていた。
彼が僕の肩を叩いた。びっくりした。
『どうしたの。さっきから1ページも進んでないよ』
彼は僕の本を取り上げて、僕の目をじっと見ながら、悩んでるんでしょう、と言った。僕は彼になら打ち明けられるかもと思い、重たい口を開いた。
『自分のことが好きになれないんだよね。君にはさ、結構話せるようになったんだけど。自分の意見を口に出したくないってか、出せなくて、自信なくてさ。だから、意見を求められないように人との絡みは最小限にしてるんだ。教室ではひたすら読書をして、話しかけられないようにしてる。家では元々親とはあまり喋らないし、兄弟もいないからね。まあ部屋にこもってるんだけど。最初は暇つぶしで本を読み始めた。そしたら、なんかハマっちゃって。ああこんなこともあるのか、とか 考えたこともなかったことをたくさん教えてくれるからさ。そして、こうして君と仲良くなれたのも本を読んでたからだしね。』
途中で泣きそうになったことが彼にバレてないか心配しながら話し終えた。彼は、そんなことを考えてたんだね、と言って、その場を立ち去った。僕の頬を、涙が流れた。彼はきっと、僕が泣けるように立ち去ったのだろうと思った。そしてまた、涙が流れた。
恥ずかしいな、と思いながら帰った。そしてその日、いつもの場所へ行くと、先客がいた。同い年くらいの、女の子。僕と同じように、夜空を見上げているように思われた。そして、彼女はぼそっと呟いた。
『どうして私、こうなっちゃったの』
寝ても、僕は彼女の呟きが忘れられなかった。そんな僕にC男が、太宰治の『人間失格』を貸してくれた。昨日の悩みを解決してくれるかもしれない、と言われた。僕は、ブックカバーをその本に付け替えた。なんだか本が重く感じられた。
その晩、部屋にこもって読みふけった。
『恥の多い人生を送ってきました。』と始まる第一の手記。インパクトの強いスタート。そして、僕は主人公の葉蔵を自分と重ね合わせながら読んだ。当てはまるところがいくつかあったからだ。まず、他人の気持ちが分からないところ。僕は分からないんじゃなくて、分かろうとしない、興味を持たないだけなんだけど。そして、自分の意見が言えずに仮面をかぶっているところ。葉蔵は、わざとおちゃらけて道化を演じている。僕は仮面すら被ってない、いや、仮面を被っているのかもしれないが、葉蔵とは違う仮面なのだろう。でも、自分と似ているなあ、と思った。やっぱりC男はすごいなあ、と思った。
読み終えた。なんだか星が観たい気がしてきた。僕は自分が嫌いだ。でも、好きになろうとすれば、なれるかもしれない。そう思った。
C男に返した。
『自分の中で何か変わったんじゃない?』と、彼は僕に聞いた。僕は頷いた。そう、何か変わったんだ。その何かっていうのは、
『自分を好きになろうとする』ことだった。彼は僕の顔を見て、顔が男らしくなった、と言った。僕はなんだか照れくさかった。そしてその日、隣の人に話しかけた。自分から話しかけたのは多分初だろう。隣の席の彼女は普通に接してくれた。しまいには、話せて嬉しいとまで言われた。それがすごく嬉しかった。
帰りに書店に寄った。C男に借りたあの本を見つけて、購入した。これは僕を変えてくれた本だ。
また、あの彼女が居た。今日は気分がいいし、すぐ帰ろうかと思ったら、鼻をすする音が聞こえた。よく見ると、彼女は泣いていた。家に帰ろうとした僕の耳に入ってきたのは、こんな私嫌いだよ、と呟いた彼女の声。そして、その彼女は同じ学校の1つ上の先輩だったことに気づいたのは翌日のことだった。
図書室は彼女の学年の階にあって、図書室からの帰りに彼女を見かけた。あ、あの人は。昨日は泣いていたのに、今日は笑っていた。友達と一緒に。でも、その笑顔はなんだかぎこちなく感じた。僕は彼女のことが気になってしょうがなくなった。
意識するようになってから、彼女の姿をよく見るようになった。多分今までも会っていたんだろうけど。でも見るたび、葉蔵を思い出した。以前の僕を思い出した。あのぎこちない愛想笑いが、1種の仮面にしか見えなくなった。
雨が降っていた。置き傘があると思って傘を持ってこなかったのに、ロッカーの中は空っぽだった。そういえば、C男に貸したまんま返ってきてないっけ。困ったなあと思いながら、昇降口へ向かった。濡れて帰るしかないか、と思ってため息をこぼした。すると、使いますか、という弱々しい声とともに傘を差し出してくれた人がいた。ありがとうございます、と顔をあげると、あの彼女だった。さらにびっくりしたのは、手にはなんと『人間失格』。彼女も読んでいたのか。僕は思い切って話してみた。
『僕も読んでるんです、人間失格』
彼女は、冒頭部分だけしか読んでいないらしい。多分あの描き始めに刺されたのだろう。彼女も仮面を被っているのだとしたら。そしてそれに苦しめられているのだとしたら。第一の手記だけでも読んでほしい、と伝えた。やっぱり恥ずかしくて借りた傘を差して走り去った。
翌朝、昇降口で彼女を待っていた。傘を返す目的で。彼女の姿を見つけた。その時の彼女の笑顔は、僕の見たことのある笑顔ではなかった。それだけで、読んでくれたことが明瞭だった。傘を返して、感想を聞こうとした。すると彼女は、近所の星が綺麗に見えるところで話がしたいと言う。やっぱり彼女にとってもあの場所はお気に入りなんだな、と思いながら、分かりましたと答えた。
今夜は一段と星が綺麗だと思えた。それはやはり、彼女とお話できるからだろうか。
私、私が嫌いなの、と彼女が話し始めた。僕はポケットの中のハンカチを取り出す準備をして、耳を傾けた。
『誰と接する時でも、愛想笑いになってしまう。親にさえも、本音が言えない。そんな自分が嫌いなの。第一の手記、読んだよ。主人公の葉蔵は私のようだった。相手の気持ちが理解できない葉蔵が道化の上手になったように、自分に自信がない私は1枚の仮面を被って生きている。私も、葉蔵と同じく本当のことを言わない子、いや、言えない子なんだなあ。私ね、ハンバーグ好きじゃないんだよ、ってことさえ言えないんだよ。』
彼女は涙をぽろぽろこぼしながら僕に語った。弱々しい声で。でも僕より強いなあと思った。彼女は自分の弱さを認めているから。
僕は彼女に、こんな質問をした。
『恥の多い人生って、なんだと思いますか』
彼女は、『色のない人生』と答えた。その答えはずっしりと重かった。その重さは、彼女の強さを象徴していた。
僕は以前から知っていたことを明かした。彼女はびっくりしていた。それもそうだろう。ストーカーだと思われたらショックだなと不安になりながら、彼女が落ち着いたあと、たわいもない話をした。それがとても心地よかった。
あれから彼女とはあまり話していない。その日から、彼女があの場所に来ることはなくなった。そして、僕も行かなくなった。学校でも、たびたび姿を見かけるが、話すことはない。
あの本は、彼女のことも変えてくれたんだろう。そう思えるのは、彼女の笑顔が、以前とは全く違う、心の底からの笑顔だったからだ。彼女も僕も、自分色の人生を送っている。それでいいんだ。それが幸せなんだ。
今日もC男は片手に本を持っていた。それは、以前僕が貸した本だ。感想を聞くのが楽しみだ。
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