三章 呼ぶ声と -伍拾弐夜 あけぬれば-
翌日はひたすら有川先輩の宿題をして過ごした。
病人にも容赦のない会長のお気に召すデキかどうかはさて置いて、数だけはとんと進まなかった今までが嘘のようにできあがる。
本当に上出来なのは数だけで、内容はほとんど小野への小言を並べただけの代物だ。相手がアルバイトで不在なのをいいことに言いたい放題である。感情の起伏がこんなにも創作活動に影響を及ぼすなんて知らなかった。
下手な鉄砲も数を撃てば当たる。推敲は後回しにしてひたすら三一文字に落とし込んだ。
フル回転で脳を使っているせいか、軽くのぼせたような感覚を覚え始めた頃、サングラスをかけた小野が帰ってきた。帰ってきた、という表現は間違ってはいないと思う。小野は僕が京都からとんぼ返りした日から三連泊している。
アルバイトへの行き帰りの時に家に帰って、風呂に入ったり着替えたりはしているようだが、日が落ちきる頃には帰って来て僕の世話を焼く。
室内は明るく、窓を全開にして扇風機が回っていてもやはり暑い。こんな真昼間に仕事を終えたのだろうか。
「随分早いな」
「そろそろおかゆ以外も食べたいかなと思って。そうめんでいい?」
時計を見ると十三時前だった。そういえば腹が減ったような気もする。
ネギやキュウリなど具沢山な素麺と冷奴を食べ、アイスを置き土産にして小野はアルバイトに戻っていった。貴重な昼休みを僕のために費やしてくれたことを、有難く思っても素直に喜べない。申し訳なさが先に立っているのだろう。
小野を見送ったドアにため息を吐いて、少し休もうと踵を返す。久々に脳を使ったし、固形物も食べたしで疲れた。昼寝をして、夕方少し涼しくなってから作業再開しよう。
横になって、ベッド脇のラックの上のメモを眺める。恨み言を吐き出しながら、小野と自分のことも考えた。
うたを詠むということは、想いを言葉にすることだ。形を持たない自分の感情を整理するのに、随分と都合が良い。
百重なす 寄越され惑う かれない心 縁は知れず いとう術さえ
伽羅に染む 満ちる月影 のぞみこう こたえは何処 笑むきみが待つ
烟こそ 彷徨う心 波小舟 何処ともなく 手を伸ばしけれ
読み返せば自分でも意識していなかったことに気付ける。何処だの知れずだのが連発していていっそ笑えた。小野に本を読めなどとよく言えたものだ。僕の方が分からないことだらけじゃないか。
言うべき言葉も、言いたい言葉も、僕の中のどこを探しても見つからない。小野のように何度でも相手の目を見て言えるような気持ちを、それを表す言葉を、僕は持ち合わせていない。
小野は、僕を好きだと言う。自身よりも僕を優先するような言動を度々よこす。壊さないように、傷つけないように、大事そうに触れる。
僕は、小野を大事な友人だと思う。共通の話題が豊富なわけでも、特別趣味が合うわけでもないけれど隣にいることに違和感がない。傍にいて無理をしたり、息苦しいと思ったりしない。
安心するから、笑っていてほしいと思う。声が、言葉を紡ぐリズムが心地いい。
安心や、心地良さを得たいから、小野に傍にいてほしいのだろうか。それはあまりにも自分本位で、対等ではないと思った。小野とは対等でありたい。彼は数少ない友人で、悲しむ姿は見たくないし幸せになってほしいと思う。
では、与えてくれるばかりの彼に何をしてやれるだろう。できることはしてやりたい。けれど、何をしたらいいのかはさっぱりわからなかった。
小野に直接聞いてみようか。笑っていてほしいと言ったら、よく笑う様になった。それは嬉しかったし、言ってもらえれば僕にだって出来ることもあるかもしれない。
出来ることはなんだろうと考えているうちに、いつの間にか意識を手放していたらしい。
ふと、雑音の中に放り出されたような感覚に陥る。ついで、頬に水滴を感じて瞼を震わせた。何度か瞬いていると、視覚情報を脳が認識し始める。
窓の外が、夕立に濡れていた。
ゆっくりと体を起こし、かすかに風に揺れるカーテンをかいくぐってぽつり、ぽつりと吹き込んでくる雨粒と湿った空気に身をさらす。夏の匂いがした。熱を孕む光を集めたコンクリートが、雨に打たれて太陽の匂いを放出する。
しばらくそうして鼠色の世界を眺めてから、手を伸ばして窓を閉めた。あまり雨が吹き込むままにしてベッドと体を濡らしたら、小野が怒るかもしれない。
立ち上がって、他の窓もほんの少し間を空けて閉める。ベッドに戻ると、腰掛けてラックの上のメモ帳に向かった。有川先輩は恋歌でなければ駄目だとは言っていない。
メモが散乱し、ベッドや床を浸食してしばらく経った頃、小野が帰ってきた。
「ただい……うわ、あっつい!何コレどしたの!?……何がどうした!?」
「おかえり。何がって……あ」
ドアを開けた瞬間、想定外の熱気に包まれた小野が叫んだ。廊下を進み、僕とその周りの惨状を見ると三回瞬きしてから再び叫ぶ。
特に何をした覚えもないので首を傾げたが、改めて自分の周りを見ると避けて歩くのが面倒そうなくらいメモが散乱していた。パチンと音がして蛍光灯の光が目を貫く。薄暗かった室内が照らし出されると、悲惨さが浮き彫りになった。……これはひどい。
「ハイ、これ飲んで!ゆっくりね!あとそれなんとかして!」
小野がふるふる震えながら麦茶の入ったコップを寄越した。メモを踏まない様に、ギリギリの所に立って手を伸ばしている。そういえば喉が渇いた。有難くうけとって飲み干す。
その間に、小野は窓を全開にしてまわる。窓の外からは虫の音が響き、まとわりつく様だった雨の音も匂いも消えていた。
「草町さー、もう普通のメシ食えそう?」
まとめたメモの端を揃えていると、小野が見覚えのある紙袋を掲げた。中身を察した瞬間、僕の腹の虫が鳴く。ポカンとした小野がふきだして笑った。
「すっげ。体が欲しがってるんだね、マスターの焼きおにぎり」
正直過ぎる体に、きまり悪く目を逸らした。だが体がそわそわと落ち着かなくなるのを止められない。口の中でじわじわと唾液が分泌されているのがわかる。寝込んでからこちら、ずっと粥とはいえ米ばかり食べていたが、好物は飽きとは無関係のようだ。
ちゃぶ台にアルミ箔に包まれた三角が並ぶ。おかずにスーパーの総菜も買って来てくれていて、食卓が華やぐ。
「よおおおく噛んでね」
「ん。いただきます」
心配の仕方が相変わらず母親のようだ。けれど忠告はもっともなので、いつも以上に時間をかけて、意識して咀嚼して飲込む。醤油の香ばしい香りが食欲をそそった。
「……もう、大丈夫?」
「ん?」
焼きおにぎりを2つ食べ終えた頃、小野が箸休めにきゅうりの漬け物を齧りながら聞いてくる。体調の話だろうか。
「帰ってきた時ちょっと顔赤い気がしたけど、なんか起きて色々やってたし。元気になったんなら、あんまり長いこと居座ってもアレかなって……まあどうせ毎日来るんだけど」
小野が言い出したことだからと、誰にとも知れない言い訳をしながら甘やかされていた。けれど夏休みだからと言ってそう何日も泊まらせるのはよくない。
「帰るのか」
「うん」
すっかり忘れていたが、世間は今お盆休みだ。家でしなければならないことだってあるだろう。
「本当に、ありがとう。世話になった。今度ちゃんと礼をするから、何か考えておいてくれ」
「えっいいよ別に。オレが勝手に何日も泊まりこんだんだし」
礼をするしないの問答をしているうちに食事は終わり、いい加減自分で片付けると言ったのに聞き入れてはもらえなかった。
所在なく今日の成果であるメモの束を手に取る。恋歌と称して良いのか疑わしいものばかりだが、形になったうたは多い。
今までこんなに恋や愛や好きという感情について考えたことはなかった。小野のせいと言おうか、おかげと言おうかは迷いどころだけれど、ネタの提供をしてもらっていることに変わりはない。
「本当に、何もないのか」
「何が?」
「欲しいものとか、してほしいこと」
「お礼の話?いいって言ってるのに」
片付けを終えたらしい小野が苦笑しながら居間に戻ってくる。やっぱり自分で考えるしかないのか。小野が喜びそうなことなど、誕生日に贈った肩たたき券無しで肩たたきくらいしか思いつかない。
「あ、じゃあさ、それ見たい。草町のうた」
「え」
伏せていた顔を上げると、足取り軽く小野が近付いてくる。ベッドに腰掛けている僕の傍で胡座をかいて手を差出した。
「ダメ?ちょっとだけ」
「や、これは……」
してやれることはしたいと思っている。小野が望むことなら、出来る限り応えたい。けれど、小野のことを考えながら詠んだうたを本人に読まれるというのはいただけない。
ここ二ヶ月弱、小野のことで散々悩んだ。人の感情はエネルギーを持っていて、一瞬触れるだけでもそうとうな衝撃だ。正直、結構キツい。
そうして抱えていたものを吐き出したようなうたに触れたら、小野は何を思うだろう。僕の理不尽な、自身すら理解できない感情で小野を振り回したくない。勝手な言い分だと分かっていても、不可解でも理不尽でも自身の感情を否定されるのはこわい。
「だめだよ、こんなにしちゃ」
小野が少しずつ解いていくのを見て、メモを握る手に力が入ってシワが寄っていたことに気付く。いつもとは違う、少しだけ低い位置から声がこぼれてくる。
「草町のうたでしょ?どんなのでも、草町のきもちなんだから大事にしなきゃ」
ね、と小野が微笑んだ。言い表せない感情が喉を塞ぐ。小野は簡単に同調も同情もしない。けれど否定も、きっとしないのだろう。そこに在るのは、理解しようと寄せられる心だ。
「――考えたんだ。たくさん。小野のこと、僕のこと……好きとか、恋とか。これから、どう在りたいのか。……でも、答えが出ない」
大事な人を、大切にできるようになりたい。どうして、上手くできないのだろう。自分の感情すら覚束ないのに、他人を慮ることなど出来やしないのか。
「まいごになっちゃった?」
眉尻を下げて笑う小野が僕を見上げながら首を傾げた。
暗闇の中で道も見えずに足踏みをしている感覚は、迷子の心もとなさに似ている。いつかの口約束が頭を過った。メモを持つ手に触れていた小野の指先のぬくもりは唯一の道標のようで離れ難い。
「っ……?」
「こっちだよって、言いたいけど言えないから。……ここにいるよ」
触れた指先に力が込められている。けれど、それは存在を主張しているだけで簡単に逃げられる強さだ。
「勝手に離れたりしない。待ってるから、答え出たら……教えて」
小野が手を引くままに、僕が引きずられることは望んでいないのだろう。あくまでも僕の意思で、在る場所を選ぶこと。小野はそれを待っている。
身じろぐだけで振り払えそうな触れ方をして、僕が拒めばきっと悲しむ。けれど受け入れて握り返したところで、幸せそうに笑う様も想像できない。迷っているうちは孤独ではないと思えても、心細さが和らぐ程度で不安がなくなることはない。
彼が望む形ではなくとも、いっそ引きずり込んでくれたら楽なのだろうか。それとも、ぐだぐだ思い悩む僕に見切りをつけてくれたら。どちらにしろ、いつか後悔して今以上に苦しくなる気がする。
結局、自分で決断しなければいけないのだ。僕のために。そして、小野のために。
小野は僕の答えを待っている。僕と、きっと彼自身のために。
「小野は、重い。めんどくさい」
「うーん、イマサラ?」
「自覚あるのか」
「それなりにはね。前にも言われた気するし。あれだよ、大事過ぎてから回っちゃってんだ、多分。そうやって考え過ぎると全部メンドーになっちゃう草町と似てるかもね」
「……面倒な思考回路してるのはお互い様か」
ため息をついて、苦笑いを眺めた。自身のことは棚に上げて呆れることもあるけれど、愚かだとは思わない。釣られるように、知らず寄っていた眉間の皺と共に口元が緩んだ。
そういえばいつの間に、小野の気持ちに応えることが選択肢に紛れ込んだのだろう。一月半前、初めて好きと言われた時は、好意を受け入れられても応えられないと思っていたはずなのに。
恋をしている僕を想像出来るようになったわけではない。小野の心を理解できるとも思えない。理解出来なければ同じものを返すことは出来ない。けれど小野の全てを拒絶したいわけでもない。「ない」ばかりでわけがわからなくなってきた。
毒される、では表現が悪いだろうか。小野のすきで感覚が麻痺してきている気がするから、あながち間違ってはいないのかもしれない。
思えば最初から応えたくないという気持ちはなかったのだ。小野将宗という男は友人として、人として、好ましい性情を持っている。明るく、穏やかで、素直だ。
「ん?」
唐突に、思案に沈んでいた肩に衝撃を感じたかと思うと、視界が回って薄暗くなる。栗色のカーテンの中に閉じ込められた僕の胸元にメモが散らばった。
「お、の……?」
小野に押し倒されている。僕の体を跨ぐように彼の右膝は腰の傍にあって、両肘は顔のすぐ傍にある。見開いたままになっている僕の目がそれをとらえている。
「かわいー顔して、何考えてんの?」
「は?何言って」
「オレのこと?」
「っ!」
左頬に小野の手が触れた一瞬、その熱さに呼吸が止まる。
「ほんと、ずるいなあ」
頬を掠めて耳の裏に指先が届く。何が、と問うことも、身じろぐこともできなかった。
状況を認識しているのに、理解が追いついていない。頭が働かなくなっていて、つい今しがたまで何を考えていたかさえ思い出せなくなっている。
視界いっぱいに、小野がいる。
「……好きだよ」
小野の顔が逆光になっていて、明るいはずの目が暗く見える。至近距離にある天鵞絨に一瞬で体を包まれるような錯覚に囚われる。じりじりと焦げるように染められていく。
――こわい。
竦んだ瞬間、視界に見慣れた色彩が飛び込んだ。近過ぎてぼやけた文字が僕のか細い吐息を受け止める。
優しく、圧しつぶさない様に。けれど、心が伝わることを願う様な重さで。
札越しに、口付けられた。
「……おやすみ」
額に額を合わせた小野が、少しだけ目を閉じて小さな声を落とす。
ゆっくりと、もう一度開いた目には、様々な感情が複雑な色で揺れていた。
小野が帰宅しても、しばらく動けなかった。一人の部屋で自分のうたに埋もれながら、小野が置いていったうたを眺める。
ここ数日、隣に小野の寝息があったから無音の空間が心もとなく感じる。昼間は気にも留めなかったのに。
「明けぬれば、暮るる、ものとは……」
また逢えるとわかっていても、逢えない昼の間が辛くて明けていく夜が恨めしい。
そんな感情、僕は知らない。
声を出した途端に、無音だと思っていた部屋に鼓動が響き始めた。耳の奥で鳴っているだけだとわかっているのに、本当にそうだろうかと疑わしくなるくらいにうるさい。
なぜ今更こんなに心臓がうるさいんだ。血流がよくなり過ぎて、顔どころか耳の毛細血管まで勢いよく血が巡ってしまって熱い。やめてくれ、こんなの僕じゃない。
布団の中の閉じた世界に逃げ込む。小野が大事にしなきゃと言ってくれたうたがくしゃくしゃになったけれど、構う余裕もない。
逃げたと思ったのに、世界は明る過ぎて薄い夏布団の中の薄闇は小野の腕の中を思い出させる。キツく目を閉じて、頭を振って追い出そうとしてもなかなか上手くいかない。
あの、天鵞絨が。情に濡れた小野の瞳が、どうしても頭から離れてはくれなかった。
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