二章 許処で君が -肆拾肆夜 あふことの-
前期最後の講義を終えた日、小野を自分の部屋へ連れ込んで、僕は困っていた。
バイト前だという小野が夕方訪ねて来た時、夕飯を食べる時間くらいはあると言うので中へ招いた。そうめんを茹でて、スーパーで買っておいた出来合いの天ぷらを並べる。ちゃぶ台を囲んで定位置に着いた時、僕が正座なのに気付いて怪訝な顔が一層不思議そうに歪んだ。
「なんか、言いたい事あるの?別にこんな歓迎しなくても聞くよ?」
「…………」
そうめんが半分程減った頃、黙ってさつまいもの天ぷらを齧る僕に焦れたように小野が控えめに問うた。僕自身、らしくない行動をとっているのはわかっている。その様子が気になったのだろう小野も、そわそわしながら口数が少なかった。
「……食べ終わったら、話がある」
「……うん、わかった」
自分の情けない部分を、こんなにも歯痒く思う日が来るとは思わなかった。相手の傷つく顔が怖くて言葉が出ないのは初めてだ。
味がしない夕食を終えて、食器を片付けている間もなんと切り出したものかをぐるぐる考えるが良案は全く浮かばない。小野はこれからバイトだと言っていたのだから早めに話さなければならないのに、浮かぶのはあのすかした顔をした会長への恨み言だ。
「あの陰険眼鏡……」
「いんけ……何?」
「なんでもない、八つ当たりの悪口だ」
「……ホントどうしたの?らしくない」
どんなに悩んでも、恨み言を内心で積み上げても、決定事項は変わらない。言わなければならないことは一つだ。
「小野」
「はい」
「ごめんなさい。……約束、守れなくなった」
定位置に戻り、変わらず正座して開口一番謝罪した。頭を下げたはいいものの、怖くなって上げられなくなってしまった。息を呑む気配だけが伝わってくる。
沈黙が下りた。後頭部に重しでも乗ってるみたいだ。
「…………」
「なんか、理由ある感じ?」
視線が小野の胸あたりで止まりそうになるのを堪えてのろのろと顔を上げる。眉尻を下げて笑う顔が目に入った瞬間、腹のあたりがギリと締め付けられたように感じた。
「今日、昼間あきづきの招集があって」
「もしかしなくとも、有川サン?」
幸か不幸か、皆まで言わずともほくろ眼鏡の存在が見えれば伝わる。小野の表情に諦めが混じった。その顔に覚えのある違和感を覚えた。つい最近感じたものと同じ気がする。
「……合宿に行くらしい」
「合宿?」
「……うん。文化祭に向けて皆でって」
「どこ?」
「京都」
「遠いね……いつから?」
「土曜日から、一週間」
切なそうな顔をして、それでも顔を上げていた小野が俯いた。
じわじわと真綿で首を絞められる様な罪悪感が襲う。こんな顔をさせることを言いたくなかった。根負けしてあきづきに入った過去の自分まで恨めしくなってくる。
小さな、小さな声で小野が呟く。
「……行くの」
「…………ん」
脳内で有川先輩を殴った。
こんな思いをするくらいなら合宿なんて行かなければいいとわかっている。けれど、相手が有川先輩である以上ほぼ確実に言いくるめられてしまう。既に昼間、合宿決行の旨が会員に伝えられた時に一戦やらかした後だ。何度やっても結果は見えているし、異を唱えれば唱える程不利になる可能性もある。
近場だったなら、二、三日の短期だったなら、小野を巻き込んでしまえたかもしれない。夏休みの小旅行だと無理を言って。有川先輩に使われることになったとしても、頼めばついて来てくれたかもしれない。しかし有川先輩が計画した距離と期間は、僕が我侭を言える限度を超えていた。
小野がゆっくりと息を吐いた。知らず、僕の体が小さく跳ねる。右腕で自身を抱きしめた。
「そっか」
「え」
何を言われるのかと身構えていたのに、納得したような言葉に顔を上げると「しょうがないよ」と力なく笑う顔とかち合う。
「いっこだけ、いい?」
「なんだ」
「草町の意思じゃないんだよね?約束守れるなら守りたいって、思ってくれてたんだよね?」
「……ああ。正直、不本意だ。有川先輩に恨み言を言うくらいには」
小野が意外そうな顔をしてしばし黙る。目を閉じて、もう一度ゆっくりと呼吸する様をじっと見つめた。気丈に笑ってみせた顔が、泣き顔に見えた。
「うん、わかった」
ちゃんと笑えているつもりなのかもしれないが、出来てない。目は合わさないし、声は寂しそうだ。さっき言ったが、僕だって不本意だ。一人だけ辛いみたいな顔をされたくなかった。
小野が荷物を漁り始める。何度も見たその横顔に、言い様の無い感情の波が立つ。
「……好きだよ」
「僕は」
差出された気持ちと四十四枚目の札を受け取る資格を持っているのだろうか。今まで躊躇いなく受け取ってきたそれに触れられずにいると、手を取って握り込まされる。
「もらって、草町。……気をつけて、行ってきてね」
「……う、ん」
もらったものを突き返すことはできずに頷いた。小野は手早く荷物をまとめて玄関へ向かう。靴を履いている間にその背に追いついて、それでもかける言葉を見つけられない。
「あ、お土産よろしく!京都と言えばやっぱ八つ橋かな?今色んな味あるよね」
「ああ……そうだな」
いつもの調子で笑う小野に力なく答えた。そんなオレに少しだけ心配そうな顔をしたけれど、じゃあねと去って行く背中はいつも通り過ぎて切なさがにじむ。
閉ざされたドアの前で立ち尽くした。残されたのは、ぬぐい去れない罪悪感と気持ちの証。
「あふ、ことの……」
思い出すらなければ辛い想いもしなかったのに。うたに無言で責められているようだった。
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