二章 許処で君が -肆拾参夜 あひみての-

 八月の第一日曜日、僕と小野は、ささやかな打ち上げをすることにした。レポート提出と期末試験を終え、あとは結果を待って残り少ない講義をいくつか受ければ学生の長い長い夏休みが始まる。

 小野が「前期終了お疲れ様ラーメンを食べよう!」と言うので、崇子さんの家の最寄りでもあるT駅で待ち合わせることになった。都心へ行くには少々距離がある近隣の学生が一番手近で遊べる場所として選ぶその駅はいつも賑やかで、夏休みということもあって老若男女問わず多くの人が行き交う。

 改札を出てすぐの所にある壁画の前は待ち合わせスポットだ。人混みを避けて、改札から離れた壁画の端の方へ移動する。時計を見ると、十二時半を少しまわっていた。待ち合わせは十三時だから、小野が来るまでの暇つぶしにと、電車の中で読んでいた文庫本を出して壁にもたれる。喧騒をBGMに読み始めた。

 こうしてたまに外食をするようになったのも小野と知り合ってからだ。一人では電車に乗ってまで外食はしないから、知っている店は小野と行った所か、あきづきの皆に連れて行ってもらった店だ。小野は一人でも友達とでも何処そこ行くらしく、美味い店を見つけると一緒に行こうと僕を呼び出す。

 今日はなじみのラーメン店街だ。同じフロアに違う店がいくつか入っていて、定期的に入れ替わりもあるので色んな味を食べられる。外食の何度かに一回はここだ。

「草町、おまたせ。今日も早いね」

「ん、来たか」

 十分程経った頃声がかけられる。顔を上げると、サングラスをかけて帽子を被った小野が目の前に立っていた。待ち合わせの時間までまだあるが、いつものことだ。

 一時期、どんなに早く来ても僕が待っていると文句を言われたことがある。僕はいつも本を持ち歩いているから、待っていても読書をしていて苦にはならない。だから一時間前でも二時間前でも、他の用事がなければ待ち合わせ場所に向かってしまう。

 本を読んでいるから気にするなと何度も言い続けた僕に、それでも一人で待たせるのは嫌だと小野はしつこく言い続けた。その結果、互いの妥協点として僕は待ち合わせ時間の三十分以上前に着かないことを約束することになった。代わりに、小野は三十分くらいなら待たせても気にしないことにしたのだ。

「行こっか」

「ああ」

「今日は何にしようかな」

「あっさりしたのが良い」

「草町はもうちょっと肉食った方がいいと思うよ」

 話しながら駅を出る。目的地は目と鼻の先だが、夏の日差しは容赦なく照りつける。眩しそうに笑った小野が、僕の顔を覗き込んでサングラスの奥で瞬きした。

「草町、ちゃんと食べてる?夏バテで倒れたりしないでね?」

「最近はほとんど一緒に夕飯食べてるだろ」

「そうだけど、朝とか昼もちゃんと食べなきゃだめだよ」

「……わかってる」

「……そうめんだけとかじゃダメだかんね?」

「……」

「草町……」

「パ、パンとかも食べてる」

「どっちにしろ小麦じゃん!」

 小麦だってなんだって、腹が膨れれば動けるのだから大丈夫だ。言ったら怒られそうな気がするから言わないけれど。

「よし、草町。今日はラーメンとご飯も食べよう。確か焼き肉丼がつく店あったよね」

「確実に食べきれないな、それ……」

 ビルに入ると、冷やされた空気が体を包む。しばらくは涼しくて心地いいが、慣れてしまえば寒いだけだ。エスカレーターに乗って上って行く間に、まくり上げていた七分丈の袖を下ろした。

 目的地に着いて、まずはぐるりとフロアを一周する。好みで言えば僕は塩ラーメンが好きだし、小野は味噌ラーメンが好きだが、季節柄かスタミナ系や豚骨ラーメンの看板が目立つ。

「お、あった。焼き肉丼付き」

「僕は食べきれないぞ」

「半分くらいならいけるって。オレが頼むから食えるだけ食べなよ」

「母親より口うるさいな」

「ラーメンはどれにするー?」

 僕の言い分を聞いているのかいないのか、小野はメニューの一覧の前で選び始めた。まぁいいかとその横に並ぶ。小野が肉を半分くれるなら、野菜がたくさん乗ってるのにしようか。自炊では栄養が足りないのはわかっているんだ、一応。

 このフロアの店はどこも食券制だ。日曜の昼過ぎ、まだ店の外に行列ができている店もあるが、比較的空いている店だったので食券を買うとすぐに店内に通された。壁沿いのカウンター席に着いて、店員が食券と引き換えに置いて行ったおしぼりで手を拭く。

「カップルでラーメン屋とか来るんだね。デートでラーメンって、女の子嫌がんないのかな」

 小野が背後のテーブル席を目線で示す。不躾にならないようにそっとうかがうと、同年代の男女が楽しそうに談笑しながらラーメンをすすっていた。

「本人たちが楽しいなら、いいんじゃないか」

「そだね」

 セルフサービスの水をピッチャーからコップに注いで、一口飲んだ。氷で冷やされた水が食道を通って行くのがよくわかる。

「草町は、さ……」

「ん?」

 飲んでから、小野の分がないことに気付いてもう一つのコップに水を注いだ。ありがと、と言って受け取った小野は一気に半分飲み干すと、視線はコップに固定したまま口を開く。

「デートで行ってみたいトコとか、ある?」

「デート?」

 唐突な問いに面食らって小野を見ると、いつになく真剣な顔とかち合った。マジメに聞かれたことには真面目に答えなければと、思うのだが。

「……」

「……草町?」

「でーと……」

 困った。デートしたいと思った事が無い。机の上の拳を睨んで考えるが、自分がデートをしている場面が全く想像できない。

「お待たせしました!」

 考えているうちに笑顔の店員がラーメンを持って来てくれた。どうしよう。

「あのさ、草町。別にそこまで深い意味があって聞いたわけじゃないから……伸びちゃうし、ラーメン食べよ?」

「あ、ああ……すまん」

 気を遣われてしまった。いただきますと手を合わせてから食べ始めるが、味がわからない。機械的に麺やら野菜やらを口に運び、咀嚼して飲込む。

「草町。くさまちー?」

「……」

「草町ってば!」

「!……わるい、とんでた」

「オレこそごめん、そんな悩むと思わなくて。ホント気にしないで?ほら、焼き肉」

「……ん。ありがとう」

 受け取った小鉢の中の肉を一切れ口に放った。考え事をしながら咀嚼しても、なかなか噛み切れない。

 背後から楽しそうな声がする。よくよく耳を傾ければ、どこに行きたい、何をしたいと相談中のようだ。そんなに楽しいのだろうか。何処かに行くことが。何をしようかと相談することが。それとも、誰とするかが問題なのか。恋愛小説でよく見る、あなたと一緒ならどこだっていい、というヤツだろうか。

 ようやく口の中のものを飲込んで、右隣に座る小野を見る。チャーシューを頬張りながら、目で「なに?」と聞かれた気がした。

「小野は、行ってみたいところとか、あるのか?」

「え?」

「ごめん。デートしたいとか、思った事なくて」

「あ、それで悩ませちゃったのか」

 小野が納得した顔で嚥下して言った。そーだなー、と考える風にしながらも僕から受け取った小鉢から焼き肉と米を軽くかき込み、咀嚼して飲込む。

 話しながらでもこうして合間合間に食べるのが上手いから、小野は僕より話して僕より食べるけれど食事のペースは変わらない。

「オレが聞いといてなんだけど、ココに行きたい!ってのはあんまないかも。近所の公園でもコンビニでも、好きな人と一緒なら楽しいだろうし。あ、でもたまにでいいからちょっと旅行とか行けたらいいよね、温泉とかさ。……あれ?デートと旅行って別物?」

「旅行は、どうだろうな……二人で行くならデートと言えなくもないんだろうか」

 二人して首をかしげて、ずるずるとラーメンをすすった。

「怒んないでっていうか、引かないで聞いてほしいんだけど」

 そう前置きされて、咀嚼しながら小野を見た。口の中に何かが残っている様子はない。ちゃんと噛んでから飲込んでいるんだろうか。

「オレは、学校からマスターんとこ行く時も、草町の家に帰る時でも、二人で歩く時も部屋でだらだらしてる時だって、デートみたいだなってしょっちゅう思ってるよ。こうやってラーメン食べに来るんでも、オレにとっては大事で楽しくて嬉しい時間」

 思わず、チャーシューをくわえたまま固まった。

「気持ち悪かったらごめん。そんくらい、草町といれるのしあわせって言いたかっただけなんだけど……伝わった?」

「う、ぐ……わ、とと」

「……だいじょぶ?」

 くわえたチャーシューを落としそうになって慌てる。あまり食事中のこういう失態はしないので、小野が驚いたような顔をした。なんとか大惨事は免れて、はねたスープをテーブルに備え付けられたティッシュで拭う。

 毎日好きと言われ続けてもう一月半近くになるのに、どれだけ想われているのかを思い知ると驚いてしまう。その度に、小野はわかっていないことを責めるでもなく笑う。

「……僕は、でーとをしていたのか」

「なにそれ。……いつかね、草町もそう思う日が来たらいいなって話だよ」

 残り少なくなってきた丼を睨んで大真面目に言ったが、やはり小野は笑うだけだ。少し、違和感を覚えて小野の顔を改めて見る。

「どした?あ、焼き肉もうちょい食べる?」

「いや、もういい」

 違和感の正体はわからないままだったが、食事を終えて小野のスクーターに乗って部屋へ帰る頃には気にならなくなっていた。

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