一章 望降ち -参夜 あしびきの-

「小野、風邪をひく」

 翌日の夜、家に帰るとドアの前に小野が座り込んでいた。駐輪場にスクーターがあったから別段驚く事もなく声をかけると、膝に埋めていた顔を上げて「おかえり」と笑った。

「ただいま。いつからいたんだ。連絡をくれればもっと早く」

「遅かったね」

 僕の言葉を遮って小野が呟く。怒っているというよりは、拗ねているような声だった。

「サークルの集まりが長引いた。今年も学祭は面倒そうだ」

「学祭?って秋だろ?まだ六月だよ」

「ウチは毎年面倒なことをやるから、相応の準備期間が要る」

「あー去年も大変そうだったもんなー」

「役割的には楽だと思って引き受けたのが間違いだったな。浅はかだった」

 去年、サークルの会長である有川先輩が企画した百人一首をテーマとした学内ウォークラリーで使う小道具の清書が僕の仕事だった。

 和歌や訳詩を和紙や色を塗ったベニヤ板等に書きまくった。同じ和歌でも何十枚も必要なものもあり、結局何枚書いたのかは割と早い段階で数える事を諦めたのでわからない。

「でもオレ、あれ感動したよ」

「感動?」

「草町の字、綺麗だし、なんかあったかくてすき。見てて、あー草町だなーって思う」

「……日本語を話せ」

 字を褒められたのは初めてで、なんと返していいのかわからなかった。小野がへへと笑う。

「有川サンも草町の字がいーなって思ったから任せたんじゃない?今年は何か書かないの?」

「……今回も清書担当だ」

「やっぱり!」

 小野はけらけらと笑い転げる。人事だと思って。

「笑うな。そんな事より、待ってないで連絡を入れろ。これから暑くなるとはいえ、こんな所で座り込んで風邪でもひいたらどうする」

 言って、いつまでも座り込んでいる彼に手を伸ばした。

「何をしている。さっさと立て。麦茶くらいは出す」

 小野はきょとんとした顔で何度か瞬きして、ようやく僕の手を取って立ち上がる。

「ごめん。今度からは連絡いれるよ。待たせるよりは待ってた方が気が楽だけど、すれ違ったら大変だもんね」

「ああ」

「へへ、お尻冷えちゃった」

「直に座ってるからだ」

 ドアの前からへらと笑う小野をどかして鍵を開ける。中に入ってキッチンを抜け、部屋へ足を踏み入れ電気をつける。籠った熱気を逃がす為に窓を全開にする。

 ふと冷蔵庫の中の存在を思い出して振り返り、律儀に鍵をかける客人に声をかけた。

「小野。今日はシフト入ってるのか?」

「今日は休み。明日は夕方からだから、来るのちょっと遅くなるかも」

「そうか。夕飯は」

「まだだけど……草町は外で食べてきたんじゃないの?オレもお茶一杯もらったら帰るよ」

「昨日もらった肉じゃがが残ってるから温めよう。待たせた詫びだ」

 小野の手伝いを断って座らせ、コップに麦茶を注いで渡す。レンジに肉じゃがをセットして、自分の分の麦茶をコップに注いで一口飲んだ。箸を出そうと棚を漁る。

「待ってる間、草町のコト考えてたよ」

 箸を掴んだまま顔だけ小野に向けると、片膝を抱いてこちらを見ている小野と目が合った。膝頭に頭を乗せて、目を細めて微笑んでいる。

「勉強しようとも思ったんだけど、待ってるとどうしても草町が頭ちらついちゃって諦めた」

 苦笑する彼から目が離せないでいると、レンジが音を立てて僕を呼んだ。我に返って、箸とレンジから出した肉じゃがの入ったタッパーを持って居間へ移動する。

「どうぞ」

「ありがと」

 小野が座り直して、「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。小さなちゃぶ台を囲み、僕も麦茶をすする。

「おいしいね。さすが藤崎のおばさん」

「ああ」

 小野の話に相槌をうちながら、ちらと表情をうかがう。

 いつも通り、だと思う。

 思うのだが、なんだか穏やかというか、静かだ。隠しているだけで、待たせた事を怒っているのだろうか。そんなに器用ではないと思っていたのだが。

 ふと、小野の鞄の上に置かれた二枚の札が目に留まった。

「これ、今日の分。眺めてたらさ、なんか、わかるなーって思った」

 視線に気付いて、箸を置いて札を手に取る。今日は三日目。

「あしびきの……」

「草町といる時間はホントに早くて、ずっといたいと思うのにあっという間でさ。でも、草町がいない時は、ながーくて、寂しくて、切なくて」

 小野が札を眺めている。恋人のいない秋の長い夜を詠った恋のうた。

「ずいぶん一緒にいるような気もしてたけど、全然だなって思っちゃった」

 小野はいつから僕を想ってくれているんだろう。出会ってから流れた時間の感覚が違うらしい。僕は、小野を想ってそんな顔はきっとできない。

 僕は今、どんな顔をしているんだろう。

「……好きだよ」

 小野が昨日とも、一昨日とも、最初の好きの時とも違う顔で告げた。

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