一章 望降ち -弐夜 はるすぎて-

 毎週、月水金の夜は家庭教師のアルバイトがある。学校の最寄り駅から八駅先、三十分ほどモノレールの緩やかな振動に揺られた先にバイト先の家はある。

 高校の恩師の昔の教え子の娘、藤崎崇子さんは三つ年下で、今は高校二年生だ。

 宿題や自主学習に付き合ってわからないところを解法へ導く、たまに本を貸したり、その感想や考察を話し合うという緩い指導方針が功を奏したらしい。最初は若干面倒そうにしていたものの、慣れてからは大人しく僕の拙い授業を受けてくれている。

 昼間の講義を終えてから適当に時間を潰し、崇子さんが部活を終えて夕飯を済ませる夜の八時半頃からが僕の仕事の時間だ。いつも通り、彼女の質問に答えたり本を読んだりして二時間程を過ごす。

 この日もつつがなく緩い授業を終えた僕が玄関で靴を履いていると、背後から柔らかい声がかかった。

「草町くん?これ、今日の夕飯の残りで悪いんだけど持って行って?」

「あ、いつもすみません。ありがとうございます、おばさん」

 藤崎夫人は料理が得意で様々なものを作る。時々はこうして分けてもらったり、食卓にお邪魔することもあった。

「いいのいいの。また時間のある時はうちでご飯食べて行ってね?わたしも主人も楽しみにしてるのよ。それでね、草町くん」

「はい?」

 おばさんはいつもにこやかでふわふわとした印象だ。崇子さんはどちらかというとおじさん似で、口数もさほど多くない穏やかな子である。

 おばさんは僕の傍に膝をついて、おかず入りタッパーが入った袋を差出しながら上目遣いに尋ねる。

「何か、あったのかしら?」

「は、い……?」

 直後には身に覚えのない質問に疑問を持ったが、土日の小野とのやりとりを思い出してしまって袋を受け取ろうとした手が中途半端な所に浮いてしまった。

「うふふ、ごめんなさいね。余計なお世話なのはわかってるんだけど……崇子がね、珍しく『草町くんにあげられるおかずある』ー?なんて聞いてくるから。なんだか心ココにあらずで調子悪いのかもしれないって、こんなの今までなかったって、心配になっちゃったみたい。だいじょうぶ?」

 まさか、崇子さんにそんな印象を持たれているとは思わなかった。いつも通り、だと思っていたのに、どこがおかしかったのだろう。

「大丈夫です。……ちょっと、寝不足だったかもしれません。ご心配おかけしてすみません」

「そーお?無理しちゃだめよ?草町くんにだってテストとかレポートとかあるんだし、無理なときはバイトもお休みしていいんだからね?」

「はい。ありがとうございます。おかずも」

「うんうん。たくさん食べてちゃんと栄養を摂るんですよ?」

「はい。失礼します。おやすみなさい」

「はい、お疲れさまでした。また水曜日にね。おやすみなさ~い」

 おばさんに見送られてマンションを出る。いつもは崇子さんも見送りに出てきてくれていたが、今日は気恥ずかしかったのかもしれない。

 それにしても、女子高生に指摘されるなんて。そこまで悩んではいないつもりだったのだが、慣れない事をしているせいか本調子とは行かないようだ。

 慣れない事をするのは疲れる。誰かを意識することがこんなに振り回されるものだとは知らなかった。

 そういえば、小野は何時頃来るのだろう。携帯を開くが、着信もメールもない。大学でも会わなかったから、まだ今日は顔も見ていなかった。僕の帰宅が遅くなることは知っているはずだが、こちらから連絡をした方がいいのだろうか。

 小野は新聞配達のアルバイトをしている。伯父さんの紹介だとかで、朝刊、夕刊、はたまた牛乳などなど、テストや課題のためにシフトを融通してもらう代わりに便利に使われているらしい。彼のバイトは不定期だから行動が予測できない。

「……やめた」

 開いていた携帯を閉じて鞄にしまい、モノレールの窓から都心程ではない、民家の灯りに照らされた夜景を眺める。

 小野小町のように、待てるだけ待つと言ったのは昨日の僕だ。あの時代の女性が男を待つ切なさや寂しさや、待ち遠しく思う恋情はわからないけれど、いつ来るともしれない相手を待ち続けるために覚悟が必要なことだけは、少しだけ理解できた気がした。


 十六夜の月が昇る静かな街に、遠くスクーターのエンジン音が響いた気がして、重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。蛍光灯の明るさにすぐ目を閉じて、開けてを繰り返す。

 手元にある本を認めて、ああ、読書の途中で寝てしまったのかと現状を把握していると、呼び鈴が鳴った。

 まだ半分寝ぼけた頭を動かして時計を確認すると、針が示していたのは午前三時十二分。何度瞬きしても秒針が進む以外に変化はなく、こんな時間に来客なんて呼び鈴が鳴ったと思ったのは気のせいだろうか、と思っていたら机の上に置いてあった携帯が震えた。

 立ち上がって携帯を開くと、小野からのメールだった。本文には「寝ちゃった?」と一言だけ。携帯を持ったまま踵を返し、ドアに向かう。鍵を開け、チェーンを外してドアを開ける。

「ごめん、遅くなった」

 小野が、申し訳なさそうに笑う。ドアを開けて彼の顔を見たまま動かない僕の目の前で手を振る。

「やっぱ寝てた?ごめん、起こして」

「……ああ、わるい、もうおきる」

「ふふ、いいよ。もう帰るから。すぐ布団に入って寝直しなよ。遅くなるのわかった時点でメール入れようと思ったんだけど、結局できなくて、」

 困った様に笑う小野の額に手を伸ばす。うっすらと汗で湿っていた。

「くさま、ち?」

「……いそがせてわるかったな」

 仕事を終えて、疲れて、すぐに帰って寝たかったろうに。

 前髪ごしに覗く目が、少し驚いているように見える。どうしたんだろうと思ったら、伸ばしていた手を掴まれた。

「そんなことない。二日目にして待たせちゃって、ごめんね。待っててくれてうれしかった。ありがとう」

「やくそく、だからな。まてるだけまつ」

「うん。オレも、約束守るから」

 小野が笑う。僕が知っているとびきり嬉しい時の笑顔で、ほんの少し、瞳に覚悟みたいなものをにじませて。

「好きだよ」

 小野が目を細めて笑った時の目の色はいつもより一際綺麗で、もう少し見ていたかったけれど、笑って差出された二枚目の札を放置するわけにもいかなくて視線を外した。

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