Enτer the laЬоratory





 ん? 

 そこに誰かいるのか? 



 おやおや……どうしたんですか。ひょっとして部署をお間違えになった? それとも、私のところに連絡が届いていないだけなのか? 今日、私の研究室には、来客なんて予定はなかったはずなんだが。


 ……。



 …………。



 ……………………。




 あの……なぜそんな顔をするんです? 


 

 そんな、あの……なんて言ったらいいのか。でもですよ、なぜ貴方はそんなにも、「これから何か起こるに違いない」と信じて疑わない顔をされているんです? その期待に満ちた眼差しは一体……もし私が今の貴方の立場なら、とりあえずこの部屋を出ていくと思うんだがな。ああ、そうか。貴方は迷ってしまったんですね? それも無理はありませんね、何せこの研究所は広い。一つの部署だけでも見て回るのに丸一日かかってしまうくらいだから。どれ、私が案内して差し上げましょう。どうせ、煮詰まっていたところなので。


 ああ、私の名前ですか?


 貴方も見ませんでしたか、部屋の前にネームプレートがかかっていたのを。私の名前はクレンプルゼッツァー。ウーヴェ・クレンプルゼッツァーですよ。


 え? 

 その顔だと、まさか部屋の前のネームプレートを見ていない? 

 どころか、部屋のドアにさえ、触れていない?


 つまり……うん? 

 君はどこからか、急に現れたということですか。


 ふーむ……。



 見たところ、貴方は……研究者ではありませんね? 白衣も着ていないし。ということは、「研究に根を詰めすぎて頭がどうかしてしまった同僚の科学者が、たまたま私の研究室に迷い込んできた」ということではなさそうだ。それにこの研究所のセキュリティはかなり堅牢だし、いかれた一般人がふらふらと入り込めるような場所でもない。セクションを移動するためには、ゲートを通らなくてはならず、そこを開けるためにはIDカードが要る。でも貴方は見たところ手ぶらだ。


 は? あらすじ?

 あらすじって何だ? 


 いや、あらすじについては知ってる、その言葉が辞書的にどのような意味を持っているのかは。私は生まれてこの方、文芸や芸術なんてものとはまるで縁のない、完全に理系の人間だが、それでも政府が子どもに施すことを義務づけた基礎的な教育のおかげであらすじが何を示すのかは知っている。「物語のおおまかな流れ」のことだろう? でもそれが今この状況と、一体何の関係があるっていうんだ。

 え、「あらすじが書いてあった」? どこに? 私の部屋の前にか? 


 小説? 説明欄? 


 はい、はい、ええ。なるほど。つまり貴方が言いたいのは……「ここは小説の一ページ目で、貴方はこの小説の一番最初の登場人物なんですよ、クレンプルゼッツァー博士」ってことか? 私が喋ることはすべて小説の中に記載された文章に過ぎず、貴方は私がたどる運命をすでにおおまかに知っていると? 私がここでどんなに熱心に研究をしようと、それは世の中に掃いて捨てるほどある短編小説の中の架空の出来事に過ぎず、貴方の関心は私の研究内容になどなく、ストーリーの中で私の心情がどのように変わるかというのが貴方にとっては一番大事だということか?

 ふーん。そう。なるほどね。



 ねえ……たとえばだ。



 たとえば貴方は何か新しい物語を読もうとするとき、こう考えることはないか? 「作者あるいはキャラクター自身がどのような理屈を述べているにせよ、どうせこのキャラクターは、読み手である私に特定の感情を抱かせる目的でこのような行動をするんだろう」と。これは何も小説に限った話でもない、いつもいつも思うわけではないにしろ、このつまらない人生を生きている限り一度は経験するはずだ、「こいつの言葉は何もかも嘘っぱちだ、偉そうに言葉を並べているが、こいつの言うことは全部虚飾に過ぎない」と思うほかない人間に出会うことが。まだないのなら、それはおよそ想像し得ないほど幸福なことだが、それでも貴方はいつか出会うだろう。そんな嘘だらけの人間に。


 つまり、何を言いたいかと言えば、貴方はきっとあらすじを読んで(あるいはこの小説の作者のこれまでの作品とその世界観や評価の数、この小説が発表されている場所に多く見られる他の作品の傾向を鑑みて)、私がおおよそどのようなキャラクターなのかすでに想像してしまっているのでしょう? 貴方は思っているのでしょう? 「これもまたありふれた短編小説の一つに過ぎない。それなりの起承転結があって、意外性があって、皮肉や揶揄に満ちていて、読者の心を掴むキャッチーな仕掛けが随所に仕込まれているのだろう。でもなんかこれ1話からとても文字数が多いし、言ってることが理屈っぽくて難しくて、つまらないな。適当に別の小説を探そう」と。


 だから、君がこの小説を読むのをここでやめる……つまり今この私の研究所を出ていくというのなら、私は止めない。君はここに現れたときと同様、煙のように消えるのだろうし、私は君などいなかったかのようにまた研究を続けるだけだ。お互いの人生になんのプラスもマイナスもない。ただの無、ゼロ。君と私はお互いほんの一瞬人生の迷い道に入り込み、すぐにそこを出た。ただそれだけのことで話は終わる。 


 さあ、君はどうする? 


 ……いいんだよ、何も気にすることはない。短編小説ならこちらの世界にも存在する。だから私は知っている。短編小説というものがどれだけありふれて、今の世の中にあふれかえっているかについて。君の格好を見るに、おそらく君の世界も私の世界とほぼ同じなんだろう。こちらの世界には魔法も魔獣も存在しない。あるのはただ肥大した科学と、地球を埋め尽くさんばかりの人類だけだ。

 君にはこの研究所を出て、もっと夢にあふれて心が洗われるような、あるいはエロティックで刺激的な、はたまた残酷で胸の重くなるような、そんなよりどりみどりの作品の中から好きなものを選ぶ権利がある。私はこの小説がどんなストーリーなのか知らないから、その通りに話が展開するという保証はないし、仮にたまたまあらすじ通りに話が進んだところで、一体それがなんになるっていうんだ? 君は何かを得られるのか? どれだけ感動的なストーリーであれ、それが架空の出来事に過ぎないということは、私より君の方がわかっているだろうに。


 さあ、これで私の言わんとしていることがわかっただろう? 私はこれでも遠回しに「君にここから出て行ってほしい」と言ってきたつもりだ。真に迫った短編小説が読みたい? なあ……君はもしいきなり自分の家に知らない奴が来て、「あなたは小説のキャラなんですよー! 今から僕はあなたの行動を見て楽しみますー!」なんて言われたらどういう気持ちになる? 普通は警察に電話して終わりだろうが、万が一そいつの言うことが本当のことだったとしても、気持ち悪いと思わないか? どうして自分の人生で勝手に泣かれなきゃいけない? 笑われなきゃいけない? 俺はお前を喜ばすために生きているわけじゃない! そう言いたくなるんじゃないか? 











 ふう……さて、ここまで言えば、もう読む気も失せたろう。さよなら、名も知らぬ読書家の君。私は図書館に行ってもまず間違いなく文学コーナーには足を運ばないから、きっともう会うこともあるまい。じゃ、ご機嫌よう。


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