7
ようやく車が航空学校に程近い場所にあるイアンの家の前で停まった。
車を待たせたまま、4人は大きな家の前の門に設置されていたブザーを鳴らした。
春本番になってもまだ夜は少し肌寒い。クリスは背中が開いたドレスを着ているゾフィーを気遣って、自分が着ていたジャケットを脱いでそっとゾフィーの肩に掛けた。するとゾフィーはクリスを見上げて小声でありがとう、とつぶやいた。
ハンスは後ろから何となくその様子を眺めていて、クリスとジルベールがゾフィーを巡って三角関係になったりしないだろうな…とこんなときに思った。
恋愛に疎いどころか興味すらないハンスは普段ならそんなことは思いつきもしないのだが、突然望みもしない婚約者が現れたりする今の状況となっては、やはり妹にはちゃんと幸せになってほしいという兄らしい思いが芽生えているのだった。
少しすると使用人らしい女性が一人、家の中から出てきた。どちら様でしょうかと尋ねられ、イアン君と同じ航空学校のクラスメイトです、イアン君はご在宅でしょうか?とクリスがなめらかに答えた。
女性は一度4人を見回してから、少々お待ちくださいと言って家の中に戻って行った。
しばらくすると玄関がわずかに開き、様子を伺うようにしてイアンがそっと顔を覗かせた。門の前に並ぶ4人が目に入った瞬間、イアンはかなり驚いた顔で「どうしたんだよ!?」と声をあげ、慌ててドアから出てきた。
「突然来てすまん、ちょっと事情があって…。ここでは全部は言えないんだけど…」
ジルベールがどこから説明したらいいか分からないといった様子で口を開くと、イアンはその言葉を遮るようにして、まずは家に入るよう促した。
「とりあえず中に入って!まだ夜は寒いだろ、ほら。」
4人は申し訳ないといった顔をしながらお邪魔します、と断ってイアンの家にあがらせてもらった。
イアンの家は代々医者の家系らしく、家の中は床や壁や天井、手すりに至るまで病院のように全て白で統一されていた。玄関から続く広い廊下を真っ直ぐ進むと突き当たりに階段があり、イアンは階段を上がって二階にある自分の部屋に4人を案内した。
部屋に入ると、たまたま集まっていた同じチームクルーのジャンとヘンリーが部屋の中央にあるガラスのローテーブルで本や書類を広げていた。
「は!?客ってお前らかよ!?」
ジャンが4人を見て目を丸くした。
「ゾフィーもいるし。お前ら、今日はパーティーに行くんじゃなかったのか?…いや、その帰りか?」
ジャンは4人の服装を見て怪訝な顔になった。明らかに何かがあったことを悟ったのだ。
「まぁとりあえず座れよ。ほら、そこのソファーにでも。」
イアンに促されて、4人は黙ってローテーブルの周りにあるL字型の大きなソファーに座った。
「イアン、早速で悪いんだけど…、お前の兄貴って今この家にいるか?」
ソファーに座りながら、ジルベールが唐突にイアンに聞いた。
「兄貴?いるけど…なんで?」
「実はハンスが腕をケガしてて、できればすぐ診て欲しいんだ。」
クリスが深刻な顔で言うので、イアンとジャンとヘンリーは驚いてハンスを見た。
「ケガって…もしかして重症なのか!?見せてみろよ!」
ジャンが大きい声を出すと、クリスがシィっと口に指を当てて言った。
「大ごとにしたくないから、イアンの家に来たんだ。理由は後で話すから、まずはケガを診てもらえないか?」
「…わかった。兄貴を連れてくるから、ちょっと待ってて。」
イアンは急いで部屋を出て廊下を駆けた。
「こうなったら、レイと双子も呼ぶか。」
イアンが部屋を出た瞬間、ヘンリーがぼそっとつぶやいた。
「レイはともかく、双子なんて呼んだらうるさいだけだぜ。」
ジャンは冗談めかして答えたが、クリスがヘンリーに同調した。
「今後に関わる話もあるから、呼んだ方がいいかもしれないな。」
「…電話してくるよ。イアンの家はしょっ中来てるから、電話の場所も知ってるんだ。」
それだけ言うとヘンリーはすっと部屋を出ていった。するとほぼ入れ替わりでイアンが早くも兄を連れて部屋に駆け込んで来た。
イアンの兄は丸い眼鏡を掛けていて、背は高いがひょろっとした体で一見頼りなさそうだった。身長はだいぶ差があるものの、よく見ると目元がイアンにそっくりだった。
「兄貴、俺と同じチームクルーのみんなと、パイロットのハンス。」
イアンの兄はずれた眼鏡を直しながら全員の顔を見回した。
「ハンスがケガしてるらしいから、診てやって。」
突然の要求に戸惑いつつも、兄はハンスの方を見直して声を掛けた。
「君がパイロット?どこをケガしたの?ちょっとこっちにおいで。」
やさしい声でハンスを呼んだ。その穏やかな雰囲気にクリスとジルベールとゾフィーの当事者3人は少しほっとした。
「…突然すみません。」
ハンスは言葉通り申し訳ない気持ちで席を立った。
「医者はどんな状況でも患者を診るのが義務なんだ。だから気を遣わなくていいよ。ハンス君だね、僕はモーリス。ケガした所を見せてくれる?」
モーリスはハンスをそばにあったスツールに座らせ、自分はイアンのデスクの椅子を寄せて腰掛けた。
そのときヘンリーがふっと部屋に帰って来て、誰にともなくレイと双子に連絡したよ、とだけつぶやくと、そのままソファーに座った。
ハンスはジャケットを脱いで自分のシャツの右袖を捲った。腕はさっきよりさらに腫れあがり、紫色だったところはよりどす黒くなったように見える。それを見て驚いたジャンが声をあげた。
「うわっ!何だよそれ!?」
モーリスはそれに反応せず、あくまで冷静にハンスの腕を持って患部を観察した。
「内出血がひどいね。かなり強く掴まれたような痕があるけど、ケンカでもしたの?」
答えに困ってハンスは黙った。
「…ケガをしたときの状況を教えてくれる?」
モーリスが改めてハンスの目を見て語りかけると、ハンスはようやく口を開いた。
「…腕を強く掴まれて、そのあと後ろ手に捩じ上げられた感じです。」
ハンスが淡々と答えると、モーリスは頷いた。
「うん、そんな感じだね。圧迫されただけじゃなくて、捩じ上げられたときに細かい血管が切れて内出血がひどくなったんだ。そのとき骨が軋むような感覚はあった?」
「…はい。」
そこでジャンが「誰にやられたんだよ!?」と怒りの声を上げたが、クリスに後でちゃんと説明するから、と静止させられた。
「ちょっと痛いかもしれないけどごめんね。」
丁寧に断ってから、モーリスはハンスの腕の患部を何度かそっと押した。
「…痛っっ!!」ハンスは鋭い痛みに思わず顔をしかめた。
「痛いよね。骨が折れるまではいってないかもしれないけど、確実にひびは入ってる。しっかり固定して動かさないようにしないといけない。今副木と包帯を持ってくるから、ちょっと待ってて。」
「あのっ…、どのくらいで治りますか?」
ハンスは立ち上がろうとしたモーリスを引き止めて尋ねた。
「そうだね、全治1ヶ月ってところかな。成長期だからもう少し早く回復する可能性はあるけど…あくまで安静にしてたらね。」
その答えを聞いて全員がかなりのショックを受けた。
「そんな…!もっと早く治す方法はないの?10日後までには完治させたいんだ!」
イアンがなんとか兄に縋ろうとすると、モーリスは困ったような顔をした。
「10日後…?ああ、トゥラディアか。チャンピオンシップに出るんだね。…残念だけど…。」
それでもイアンは諦めずに続けた。
「今回のは普通のレースじゃないんだ!ここまですごく順調で…俺たちこのために全部を賭けてるんだよ!!」
「イアン、わかってるよ。お前たちがレースに本気になってるのは。泊まり込んでまで作業してたんだもんな。…でも、僕は医者として、ハンス君の10日後のレースへの参加は許可できない。練習だってできないんだから、今回は諦めるしかないよ。」
イアンは呆然として立ちすくんだ。モーリスは立ち上がり、改めてハンスにちょっと待っててね、と声を掛けると一旦部屋を出て行った。
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