第11話 隣のお姉さんの友達は自由すぎて凄い
今日は特に暑い。夏にはまだ少し早いのに、気温は随分気分屋みたいだ。そのせいか、通りすがる人は薄着が多かったし、麦わら帽子や傘をさしている人もいた。
店内も似たような光景が広がる。平日の昼前ということもあって、喫茶店は休憩やお茶目的の親子さんやおばさま達がちらほら目に入る。パソコンを開いて何やら険しい顔付きをさせてカタカタと指を動かしている人もいる。
俺はコーヒーを手に取り、口の中へ注いだ。クーラーによる機械的な涼しさと、緩やかに流れるジャズの音楽が、心も体も余裕を生んでくれる。
「なぁ、そいつはいつ来るんだ?」
「もう少しですよ。さっきメールきました」
今日は佐藤さんを呼び出す当日。田中さんは隣に座り、貧乏揺すりをさせながら落ち着きなく座っている。
さっき送信されてきたメールには、「あと10分!」と書かれていた。もう少しでここに到着するみたいだ。
「───お前、なんか随分余裕そうだな」
「そうですか?」
「そうだよ! この前色々あったばかりってのに」
田中さんが言うように、俺は不思議と心に余裕があった。
確かに、俺はあの佐藤さんという女性が苦手だ。神崎さんとは違うタイプな上、ただ活発で元気なだけじゃなく、勘の鋭いところもあって隙がない。
例えるなら、そう、人の皮を被った悪魔と言えるだろう。
それでも、俺に余裕があったのは、頼れる先輩───田中さんが側にいるからだ。
「今回は田中さんがいますから」
「期待はするなよ! ───今更だけど、'佐藤'って名前に少し苦い思い出があってな」
「苦い思い出?」
「あぁ……まぁ、今から来るやつは違うだろうし、関係ないんだがな」
そう言うと、貧乏揺すりを再開させてまた黙りこんしまった。多少緊張しているのかもしれない。
苦い思い出……そういえば、田中さんのことはあまり聞いたことがなかった。まだ時間がありそうなら、色々聞いてみようか。
「────どーもー!」
田中さんに話し掛けようとすると、被せるように女性の声が重なった。
見ると、見覚えのある赤髪の長髪が目に入った。ここまで走ってきたのか、息を荒くさせて、Tシャツの裾を持ちながらパタパタ風を入れている。
そのまま、田中さんの正面に座った。
「いやぁ、暑いねしかし!まだ六月初めだよぉ? 勘弁してほしいよねー! あ、店員さん、ウチビールね!」
こんな時間にビールを頼むのはこの人くらいだろう。店員さんは一瞬戸惑っていたけど、すぐに裏へ行きジョッキに入ったビールを持ってきた。
「ありがとう店員さん。暑い時はやっぱりこれだよね!」
何の迷いもなく、グビグビと喉を鳴らして美味しそうにビールを流し込んでいく。一回飲んだだけなのに、もう半分以下の量になっている。
「ぷはぁーっ! やっぱり酒はいいね!」
「今日は佐藤さんに確認というか」
「確認? なにそれ? あ、枝豆もおねがーい!」
「……壁の件なん……ですが」
「あーっ! 壁ね! そうそうあれね! あ、唐揚げも追加で!」
駄目だ、自由すぎるこの人。
ここは、田中さんに頼るしかない。
「田中さん、一緒に言って……あれ?」
見ると、口を大きく開け、目を魚のように見開き、汗を滝のように流している。目線の先には、飲みまくり食いまくりの佐藤さんがいる。
「お、お、お、おま……え────」
「た、田中さん?」
「んー?」
田中さんは急に立ち上がり、佐藤さんへ指をさした。口もたどたどしく、喋れていない。
昨日の威勢や頼もしさはどこかへ飛んでいき、怯えた犬のように震えている。
「─────な、なんでお前がいるんだ! 蓮華!」
あれ、下の名前は教えていないはず。にしても、この動揺さは尋常ではない。
「んー? あー! よく見たら裕太じゃん! 久しぶり!」
「まさかお前がこいつの言う佐藤だったとは……」
「え、え、もしかして……知り合い!?」
田中さんは苛立ちを隠せず頭をかきむしりながら口にした。
「──────元カノ、なんだよ」
「は?」
「元カノでーす! イェーイ!」
トンカチで頭を殴られた気分だ。状況を理解出来ず、しばらく呆然とした後、遅れて声が音を立てて喉を通った。
「────はぁぁぁぁぁあああっ!?」
◇
「元カノさん……でしたか」
「はぁ……嫌な予感はしてたんだけどな……」
こんな偶然あるもんなのか。状況を整理していきながらも、なかなか気持ちが落ち着かない。
「まぁまぁ、世間は狭いってことだよ! はっはっは!」
「うるさい蓮華! ……ったく。おい神山、こいつは悪魔だから気を付けた方がいいぞ」
知ってます。もう、十分に。
「悪魔って酷いなぁもう。付き合ってた頃は天使だー、とか女神だーとか言ってくれたじゃん!」
「へー」
「神山、耳を塞いでなきゃ殺すぞ」
鬼の形相をした田中さんに睨まれ、俺は素直に耳を塞いだ。ビビったわけじゃない、ただ、これ以上田中さんのイメージは下げたくないからだ。
「そうだ! ……あったあったこれ見てよ! 可愛いかったんだよー!」
目の前に出されたのはスマホだ。画面には動画が流れていて、無防備な視界に入る。
そこに映し出されていたものは、想像を絶する内容だった。
『蓮ちゃん好き好きぃ!』
『あはは! 可愛いぃ! ねーねー、バブバブ言ってみて!』
『バブゥ! バーブゥ! キスしてしてー!』
『しょうがないなぁ裕太はぁ……チュー!』
『チュー!』
「だぁぁぁぁぁぁぁああっ!─────」
田中さんはスマホを無理矢理奪って、電源を消してしまった。
嗚呼、助かりましたよ田中さん。これ以上、憧れたものが汚れていく様は見たくない。
「はぁ……はぁ……」
「ちょっと! 酷いことするなぁ」
「だ、誰がだこの野郎!」
「もういいですから! 今は本題に!」
これ以上埒があかない。一旦落ち着いて、冷静に話を戻しそうと考えた。
だけど、佐藤さんは既に冷静になっているようだった。
「さてと、君がお願いしたいことって、壁のことを黙っててほしいってことでしょ?」
「…………はい。言わないとは言ってくれましたけど、あれだけじゃ信用出来なかったというか」
「なるほどねぇ。少しは信用してくれてもいいんだけどなー」
田中さんは腕組をしながら待機している。きっと、変なことを言い出した時に止めるためだろう。……いる意味あるんだろうか。
「一応言っておくけど、ウチは沙耶の傷つくことはしたくない。だから、このことも必ず言わない」
真剣な表情をした佐藤さんに、嘘の色は感じなかった。本当に、心から想っているようだ。
「なら……良かったです」
「うん! だから、沙耶の傷つくことはしないでね。お姉さんは協力者ですから!」
「面白がってるだけだろ」
「ボソッと言うな裕太!」
夫婦漫才が始まり騒がしい中、俺は安心していた。これで、神崎さんにはばれないだろう、と。
────バレないからなんなのだろう。
いつまでも打ち明けず、隣から聞こえてくる声をいつまでも聞いていたい、ただの我が儘────そんな身勝手で子供みたいな願望を無意識に抱いているんじゃないかって。
それは、許されることなのか。傷つかないことなのか。
俺の胸には、棘が刺さったような痛みが滲んでいった。
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