第95話 ナイフ



 ダリオという馬鹿貴族がその一言を放ったことにより、場の空気が一瞬だけ死んだ。


 本当に一瞬だけ、テオ以外のその場にいる客達やダリオは、息が出来なかった。


「っ! な、なんだ……?」


 ダリオは急に鳥肌が立ったことがとても不思議に思った。

 他の客達も寒気がしているのか、身体を無意識に震わせている。


 戦闘経験のない者ばかりなので、その重厚な威圧感が何なのか、誰から出ているかもわからない。


 少しでも戦闘をしたことがある者ならば、わかってしまっただろう。

 ――危険な生物を穏やかな長い眠りから覚ましてしまい、怒らせてしまっているということを。



 ヘルヴィは座ったまま、横に立っている男を見上げる。


 このような男、ヘルヴィが殺そうと思えば一秒も満たないで殺せる。

 この男に近い腕を軽く薙ぎ払えば、太ってて醜い胴体を真っ二つにも出来る。


 今すぐそれをしたいが、それは避けたい。


 ただでさえ男のせいで不快感を募らせているのに、男の汚い血でこの場を汚したくない。


 今考えているのは、どうやってこの男を殺すか。


 魔法を使って男を瞬間移動させ、高い場所から落下させようか。

 だが多くの人が見ている中でそれをやっては、いきなり消える男に不信感を抱かれるだろう。


 ヘルヴィからすると、もうこの男は殺すこと確定である。


 なぜならば、この男はテオのことを最大級に侮辱しているからだ。


 このような高級な飲食店で、二人きりで食事をしている男女。

 どこからどう見ても夫婦、または恋仲であることは確実。


 周りの貴族達が話しかけなかったのは、それがわかっていたからだ。

 しかしわかっていてなお、話しかけようとしていた者もいたが。


 だがこの男は、夫であるテオを一瞥してから無視して、ヘルヴィに不快な言葉を発してきた。


 夫婦や恋仲であるという可能性を考えず、ただ己の欲に従ってヘルヴィに声をかけてきた男。


 それが自分やテオに対しての侮辱と言わず、なんというのか?


(絶対に――殺す)



 そんな殺気を隠そうともしていないヘルヴィを前にしても、馬鹿な貴族のダリオは話し続ける。


「なんか寒くなったか? まあいい。それでお前、なんか言ったらどうだ? この俺の妻にしてやると言っているのだ」


 無駄に豪華な服を見せびらかすようにしながら鼻を鳴らす。

 周りで見ている客の誰かが、「豚……」と小さく呟いたのはダリオには聞こえなかった。


「女とは、男の凄さを見せるための物だ。良い男の側には、良い女がいないとな。その点、お前なら私の横にいても見劣りしないだろう」


 それを聞いてここにいる誰もが、「お前の方が見劣りするに決まっている」と心の中で思っただろう。


 ヘルヴィもこのような見所も全くないような男に、自分と同等だと思われているのがとても腹が立つ。


(もうこの場で殺してしまおうか?)


 そんなことを考えていたが……。


「あ、あの!」


 テオが少し緊張しながらも、勢いよく立ち上がりながら言う。


「ヘ、ヘルヴィさんは、僕の奥さんです! だから、誰にも渡しません!」


 ヘルヴィの前だからか少し恥ずかしそうに、しかし堂々とそう言い放った。


 その言葉で客達が感じていた寒気が、少し収まった。

 ヘルヴィが今の言葉で、怒りがちょっと収まって嬉しさが優ってきたからだ。


 やはりテオから「ヘルヴィは自分のもの」と宣言されるのはあまりされないから、されるとキュンとくる。


 いつもは可愛いが、こういうときは男っぽくてカッコよく思える。

 不快な気持ちは、少しだけ和らぐ。


 しかし、それをまたさらに超えてくるようなことを言う奴が隣にいる。


「あっ? お前が、この女の妻?」


 テオの言葉に目を見開きそう言って、続く言葉で罵る――。


「お前みたいな――っ!!」

「口を閉じろ、ゴミが」


 ダリオが喋ろうとしたが、ヘルヴィが持っていた食事用のナイフを使って、下から顎を押さえた。

 そしてほんの少しだけ力を入れ、開いていた口を閉じさせる。


 その際にダリオは舌を軽く噛んだようだが、痛みの呻き声も上げさせない。


「これ以上、醜く臭い口を開くな。次に貴様がここで何か言葉を発したら、有無も言わさず殺す。一瞬でだ」

「……っ!」

「嘘だと思うか? それだったら喋るといい。私は今日、機嫌が良い。貴様が一言も発さずに私の目の前から消え去れば、今日は殺さずにしておいてやる」


 ダリオにだけ聞こえるようにそう言って、ヘルヴィはナイフを顎下から離してやる。


「っ……!」


 何か言いたげにヘルヴィの方を見て、そしてテオの方を見る。

 何回か交互に二人を見て、周りを見渡すダリオ。


 口を何度も開いて言葉を発しようとしていたが、何も喋らない。


 十秒ほどしてから、ダリオは顔色を少し悪くしながらも足早にその場を去って行った。


「今の行動はなんだったんだ、一体……?」

「さあ、あんな馬鹿貴族のやることなんて、さっぱりわからん」


 周りはダリオが何を言われたかわかっていないので、そう口々にしながらも食事を再開する。


「……失礼、私のナイフを変えてくれるか? このナイフで食事をすると、確実に不味くなる」


 ヘルヴィはそう言って、店員にナイフを変えてもらった。



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