ユーイル・エネン編

第一章【城の下にいるのは】

 ユーイル・エネンはなるべく誰の目にも触れないような日陰を歩きながら、今回の敵陣であるアウシュビッツ城まで接近した。

 見れば見るほど物々しい雰囲気を漂わせている石造りの城だが、さてどこから侵入したものか。おそらくあの自由奔放という四文字を体現したかのような銀髪碧眼の女――確か、名前はユフィーリア・エイクトベルと言ったか――は、きっと下水道なりを通じて城の中に侵入しただろう。あの女空賊もそんなことをやりそうだ。

 どこか似ている様子の二人の顔を思い出して、ユーイルはガスマスクの下で顔を顰めた。あの系統はどうにも苦手なのである。


「ま、どーでもいいけど」


 いずれにせよ、ユーイルには関係のないことである。

 人気のない日陰の道を散歩でもするかのようなゆったりとした足取りで歩いていると、なにやらすぐ近くでパリンというガラスが割れるような音を聞いた。何事かと顔を上げると、石造りの城を覆い隠していた透明な膜のようなものが割れたようだった。

 緑色の粒子がキラキラと曇天を舞い、ユーイルは不思議そうに首を傾げる。


「なんだありゃ。新手のマナ患者かね」


 この世界に、ユーイルの敵がいるとは考えられない。

 万能薬『マナ』――それを服用したマナ患者と呼ばれる相手こそが、ユーイルの本来の敵である。

 彼らはあらゆる病がたちどころに治ってしまうという『マナ』を服用し、副作用によって自我を崩壊させて怪物と化してしまった人間である。超常現象じみた異能力も副作用によって獲得し、それらを用いて他者を害するようになってしまった。

 ユーイルは、そんな彼らを殺す為に生きているのだ。


「この世界に『マナ』の代わりがあんのかねェ。まあ関係ねえか」


 異世界にまで『マナ』に準ずるものがあったとしたら、それがユーイルの呼ばれた理由にもなるだろう。

 しかし、ユーイルはあくまで悲劇を変える為に呼ばれた一人に過ぎない。同じような理由でこの得体の知れない異世界に召喚された七人は、それぞれ自分のやりたいことをやっている。だからユーイルもやりたいことをやるだけなのだ。

 気ままに歩いていたユーイルは、ふとすぐそばに井戸があることに気がつく。どうやら水は枯れているようで、


「――?」


 井戸の中からがした。

 井戸の底が見えるので枯れていることは明らかだが、何故ここから赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのだろうか。

 理由は不明だが、この先になにかがあるのは間違いない。


「……仕方ねえな」


 そう呟くと、ユーイルは井戸をひらりと飛び越えた。

 白衣の裾を翻して、真っ直ぐに井戸の中へと落ちていく。ぬかるんだ井戸の底に着地したユーイルは、反響する赤ん坊の泣き声に耳を傾ける。

 周辺をぐるりと積み上げられた石によって囲まれているが、その隙間から漏れる赤ん坊の声をユーイルは聞き漏らさなかった。積み重ねられた石の隙間に指をねじ込んで、無理やりそのうちの一つを引き剥がす。


「なるほどな」


 引き抜いた石を放り捨てて、ユーイルはフンと鼻を鳴らした。

 石の向こうに見えたのは、木製の扉だった。いまだ泣き続ける赤ん坊の声が、扉を通り抜けてユーイルの鼓膜を揺らす。おそらくこの向こうに赤ん坊がいるのだろう。

 別に助けてやる義理などないが、この声を聞いてしまった以上、聞かなかったことはできない。


「まあ、別に子供は嫌いでもねえし」


 自分に言い訳するように、ユーイルはワイングラスを取り出した。

 曇り一つないワイングラスをくるくると揺らすと、ワイングラスの底から勝手に赤黒い液体がゴボゴボと湧き上がってくる。葡萄酒ワインというよりも、どちらかと言えば鮮血に近いその液体を足元に全てぶち撒ける。

 小さなワイングラスのどこにそんな容量が入っていたのか、井戸の底全体に広がっていくその赤黒い液体に、ユーイルは淡々とした口調で命じた。


「扉ごと壊せ」


 ユーイルの足元に広がった赤い海が、彼の命令に呼応するかの如くざわざわと蠢き始める。意思を持つように蠢き、ざわめき、形を成して、それから石の向こうに塞がれた木製の扉めがけて襲いかかる。

 液体だというのに、鋼のような質感を帯びた赤黒い大波は、ユーイルの命令通りに扉ごと石の壁を破壊した。轟音が耳をつんざき、土煙が視界を覆う。

 ユーイルは崩れた石の壁を蹴飛ばして、木っ端微塵に砕け散った扉を踏みつけて、扉が守っていたその向こうへと足を踏み入れる。

 視界は暗い。天井から下がった小さな明かりが薄暗く、そしてどこまでも伸びる廊下を照らしている。

 その殺伐とした空気が漂う廊下には、鉄格子がずらりと並んでいた。


「――収容所? いや、この世界だと牢獄か?」


 足音を響かせるユーイルは、近くの牢獄を覗き込んだ。

 明かりが届かなくて分からないが、部屋の隅で息を潜めるようにしてこちらを睨みつけるいくつかの存在を確認した。


「…………人間かァ?」


 ガスマスクを外したユーイルは、改めて牢獄の中身を観察した。

 そこにいたのは、確かに人間である。身なりは上等な貴族風の出で立ちから、襤褸ぼろのような服を着た者まで幅広い。無作為に同じ空間に閉じ込められた彼らは、全員してユーイルを警戒しているようだった。

 そして、ようやくユーイルは合点がいった。

 彼らは、捕虜なのだと。

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