やっと人間らしく
中川 弘
第1話 笑顔の秘密
微笑みは、未来を保証する
そんな警句を、私は知っています。
でも、誰が、そのような言葉を放ったのか、あるいは、もともと、そんな言葉があったのかは、実のところ、承知してはいないのです。もしかしたら、自分で勝手に作って、誰か著名な人が語ったのではないかと錯覚をしているのかも知れません。
でも、そうだとしても、その言葉が与えてくれる展望、未来に対するほのかな安堵感を心地よく思っているのです。
笑顔は、今が大変だから、苦しいから、とんでもない時代だから生まれる、なんて言葉も、私の中にあります。
人は、あまりに辛いと、そして、その中に浸かっていると、苦痛のために顔を歪めるのではなく、微笑みを浮かべると言うのです。
本当かなって、若い頃は、この言葉にさほどの信頼を寄せてはいませんでした。
だって、辛いのに、笑顔を見せるなど、聞いたことも見たこともないからです。
でも、それが本当だとわかるのです。
誰だって、生きていれば、崖っぷちに立たされることが、人生の中で、一度や二度はあるはずです。
そんなことを体験すれば、人は、そういう時、笑みを浮かべるのです。
私は、何と、私自身の体験からそれを知ることになったのです。
崖っぷちでに立たされての失職の不安。
お前さんはいらないよって、会う人だれもがそう言っているような強迫観念。
これまでやってきたことは一切合切無駄だったのかという喪失感無力感。
そんな後退志向の場面ばかりが脳裏に浮かび上がってきた時、とてつもなく窮屈な思いに胸を詰まらせた時に、もはや、生きる気力もなくなったとうなだれた時に、だったら、それはそれでいいではないかと、そんな思いが首をもたげてきたのです。
そう思った矢先、私は笑顔を手にしたのです。
人間は、笑顔を作るとき、口の両端をちょっと上げて、笑顔をつくろいます。
今、私は、「つくろう」と書きました。
「つくろう」とは、整えて格好を付けるという意味です。
つまり、口の端をあげるのは、笑いを取り繕っていると言う点で、心底から、笑みを浮かべると言う真実性を喪失していると言う点で、芳しくはないと思っているのです。
だから、そうした笑顔をしばしば見せる人に、私は信頼を置くことはできませんでした。
どこか、怪しげな点がある、その人間の心の広さを示す笑顔は、背を向けると、即座に消えて、何の感情もない無表情になっているって、そう思っていたのです。
そうかと言って、口の端をあげることは、そうして笑うことは、きっと、誰もがすると思います。
人間の顔の筋肉が、笑顔になると、そうなるようになっているからです。
だとするなら、その笑顔が本物かどうかを、私は、相手の目で判断をするようにしていたのです。
目は、口ほどにものを言うからです。
ふと「月目」という言葉があったな、平生、思い出しもしない言葉が浮かんできました。
満月のような目、それとも、三日月のような目と、きっと、思案が巡るかと思います。
そんなことを思案していていますと、月目というのは、要は、優しさ、親しみやすさが、その目からにじみ出ていることを言うのだと悟るのです。
でも、本当にそうなのかと、ここでも、私は疑義を催すのです。
そして、さらにまた、気がつくのです。
そっと、私の脳裏に浮かび上がってきたのは、半跏の思惟像でした。
台座に、腰掛けて、右足を左大腿部にのせて足を組みます。
折り曲げた右膝頭内側側面に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する姿が、半跏の思惟の像の姿です。
その時の像の目を見てみますと、ことごとく、その目を閉じています。
いや、うっすらと目を開けているそのお姿こそが、私、正真正銘の「月目」ではないかって思ったのです。
もちろん、思索をしているのですから、目をかっと見開いていては形無しです。
ぼんやりとした目つきをしていれば、不安定この上ありません。
その閉じた目こそ、いや、うっすらと開けたその目にこそ、笑顔の秘密があるんだと思ったのです。
半跏思惟像の代表に、弥勒菩薩像があります。
その菩薩の像に見られる微笑は、アルカイック・スマイルと呼ばれています。
古代ギリシャの彫像がその発祥であると言われて、それがアジアに伝来するのです。
古代ギリシャのそれは、口の端がわずかに上がり、目は大きく開いています。
その形が、アジアに渡ると、半跏となり、目をうっすらと開き、思惟する姿に変じるのです。
あの円形の土俵の上で、トランプの笑顔を見たとき、この人の口角を上げたあの笑みは、果たして、どっちなんだろうかって、そんなことを思ったのです。
未来を保証してくれる笑顔なのか、それとも、その背後で無表情になる得体の知れないものなのかって。
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