メイド・オブ・ナイト

ノグチソウ

 ある夏、陽の沈む頃。


「ショートケーキを食わないか?」

「え?」


 私のもとへ、センタローさんから電話がかかってきた。

 これはつまり、夜の公園でケーキを食べる話だ。



 闇を掻き分けるようにして、私は歩いている。住宅街は静かで、誰かが寂しさのあまり、音だけを持ち帰ってしまったみたいだ。

 ――夜って、寡黙なのかな。

 私の思いつきも、黒いアスファルトへ染みていくだけだ。

 家から徒歩十五分ほど離れた児童公園――尾花公園。そこへ辿り着く頃には、月光がさらに強くなっていた。


「よう、ヤナギ」


 砂場のそばの街灯の下、ベンチに座る影から声が掛かる。私は、やっぱり二人なんだと認識しながら、挨拶を返す。


「こんばんは、センタローさん」


 彼は私を見て、悪戯相手を見つけたみたいに笑っていた。



 思い出す。

 米村戦太郎センタローという変わった人に出会ったのは、一か月半ほど前の総合病院でのことだ。大学で支障が出るくらいに症状が酷くなったため、私は初めて睡眠外来へ通うことにした。

 診察は、かなり簡単に終わった。睡眠導入剤を処方されて、経過観察のために定期的に通院することを言いつけられた。まるで、自分自身をレポートとして提出するみたいだな、と奇妙な感想を得て、医療費精算の順番を玄関ロビーの柔らかいソファで待っていた。


「あんたも、眠れないのか?」


 隣から話しかけてきたのはもちろん見知らぬ人で、私は怪しむよりも先に、純粋な驚きにとらわれた。

 顔をそちらへ向けると、そこには私と同じ歳くらいの男性がいた。黒いポロシャツに、茶色の半ズボン。ラフで、悪い印象は受けなかったけれど、その眼の辺りには、隈が見られた。

 私と同じ。


「あまりじろじろ見るなよ。俺は、単なるアドバイスとして言っておきたいだけだよ。睡眠薬をあまり当てにするな、ってな」

「……どういうことですか?」


 正直、彼を特に怪しんではいなかった。しかし私は彼の台詞に、を感じたからこそ、少し怪訝に感じてしまい、そう訊き返したのだ。

 彼は三秒ほど何かを思考して、提案した。

「会計が終わったら、時間あるか?」

 つまりそこで、尾花公園が私たちの拠り所に決まった。


「俺は米村戦太郎だ。二十二歳の、まあ、フリーターか」


 結論から言うと、彼はかなり長い間、不眠症を患っていて、もはや生活の一部になっていたらしい。そのため、自分の後に診察を受けていた私をただ心配したらしいのだ。


「『眠れない』は、ある意味で『死ねない』の下位互換だからな。辛くないわけがないんだ」


 夕暮れの公園で、私にいくつかの大切なことを教えてくれた。睡眠薬の多用はかえって身体への負担をもたらすこと。就寝時刻をずらすことも、逆効果になりうること。読書などをすることで、グラデーションのような眠りへの移行を心掛けること。 そうして、思いついたように付け加えた。


「あとは、独りにならないことだぜ」

「独りに……」


 思い至ることもあって、私は黙るしかなかった。

 しばらく沈黙が辺りを漂ってから、彼は呟くように言った。


「もし眠れなかったら、この公園へ来ればいい」

「え?」

「気が向いたら、だ。家は近いんだよな?」

「ええ、まあ」

「俺は、眠れないときにここで読書したり、ビール飲んだりしているんだ。歓楽街からは遠いし、誰も来ない」


 女子大生的観点から言えば――よく考えると奇妙な観点だけれど――あまり安全な行為ではない。ただ、夜に独りでいることも、人生においては寂しいものかもしれない。


「多分、来ますよ。夜自体は、好きなほうですから」

「ああ、それは重畳だ」


 彼は笑っている。戯曲にも似た口調や常に笑っている表情などは、彼の不可思議さを面白いものにしている、と私は感じた。


「お互いに、早く治そう。あんたも眼の隈で、綺麗な顔が大変なことになっているぜ?」


 それは私を小馬鹿にしたのか、遠回りなお世辞を伝えようとしたのかは分からない。

 いずれにしても、それは私を和ませてくれた。


「よろしくな、夜凪ヤナギさん。俺のことは、どう呼んでも構わない」

「よろしくお願いします――センタローさん」



 私は白川夜凪。大学二回生、二十歳。

 不眠症だけで繋がる、私とセンタローさんの話。



 現実の、今へ戻る。戻りたいかは、また別として。

 ところで、『夜凪』という変わった名前だから夜を好きになったのかと、何度か会った夜の内のどこかで、センタローさんに問われた。おそらく無関係だ、と答えた。

 幼い頃から夜更かしは多かったし、星や宇宙にも興味はあった。ベランダで考え事をすることもある子だった。

 暗い性格だから、と言うと、俺もだ、と彼は笑っていた。

 それはさておき。


「どうしてケーキなんですか?」

「甘いからだ」


 相変わらず会話を崩しにかかってくる。


「理由なんて考えるなよ。俺が奢るなんて、それだけでも珍しいことなんだからな」


 確かに、一度私が飴の詰め合わせを持って来たくらいで、彼が食べ物を持ってきたことはなかった。

 ただ彼は、いろんな言葉をくれる。

 私は彼と同じベンチに座ったが、ベンチの中央には白い箱が置いてある。


「病院の裏にあったケーキ屋で買ってきた。カットケーキをツーピースだ」


 どうやら、貰い物ではないらしい。


「でも、フォークとお皿は?」

「もちろんあるさ。プラスチック製だがな」


 そう言って紙袋を取り出し、無機質な皿とフォークを二組、ベンチの上に置いた。

 センタローさんは何も言わず、そのままケーキの箱も開いた。中を覗くと、予想より大きな三角形のショートケーキが二つ、仲良さそうに並んでいた。形は崩れていない。当然、真っ赤なイチゴが美しいアクセントになっている。

 彼は、ケーキを慎重に皿へ移す。ガラスに触れるみたいに。綺麗な三角を保ったまま、ケーキの準備は整った。


「よし、食うか」


 私は頷く。『夜』と『公園』と『ショートケーキ』を結ぶ何かを探してみたけれど、少なくとも私の中にはなかった。

 不可思議な組み合わせを、楽しんでいる。


「いただきます」

「いただきます」


 そっと、フォークでケーキの角を切り落とす。それを口の中へ放り込んだ。

 とても柔らかく作られている。甘味が口の中に残って、どこかへ消えていく。とても美味しい、店については後で訊こう。


「なあ、ヤナギ。ショートケーキって、衝動的に食べたくなるものだと思うんだよ、俺は」

「その衝動を、女子は我慢しているのですけれどね」

「なんでだ?」


 私は答えない。秘密であることが、すなわち答えだ。

 答えないままに、白い欠片を次々と口へ運ぶ。クリームはゆっくりと溶けて、スポンジは喉の奥へ吸い込まれていく。

 あっという間に三角形は消えてしまって、残ったのはイチゴだけ。その赤いフォルムを観察したのち、舌に載せて、噛み砕く。ちょっと酸っぱい気もした。でも。

 甘い。

 スプーンと皿を置く音、二人分。隣を見ると、センタローさんもクリームまで平らげてしまっていた。


「ご馳走様でした」

「ご馳走さん」


 ご馳走様でした、と神様へも忘れずに伝えておいた。



 目的の品を食べ終えて、私達は他愛もない話を続けた。ヘッドホンとイヤホンはどちらが使いやすいとか、雨が降るか否かの見分け方とか、睡眠における枕の重要性とか。

 くだらない話の後には、客が来た。


「おっ、来たか」


 彼が嬉しそうに迎えたのは公園へ入ってきたパスカルだった。

 二週間ほど前に初めて、仏頂面でふらりと公園へやってきた。センタローさんがこの子の顔を見て、「パスカルに似ている」と言い出したのだ。私はパスカルの肖像を覚えていないし、調べる気もない。名前がただそこにあるだけだ。


「パスカル、あなたの分はないよ」


 私がそう言うと、こちらを睨んできた。躾は受けていないらしい。でも、私は少し態度の悪い、彼みたいな犬が好きだった。


「そういえば、この子の犬種って何でしょうね」

「雑種っぽいよな。シベリアンハスキーとか、コーギーとかか? ただ、パスカルだからとりあえず、フランス出身だな」


 パスカルもまた、私たちと同じなのだと思う。野良犬なんてすぐに捕まって保健所行きとなるこの時代、生きていくのは私達より大変だろう。彼こそ本物の、夜の住人なのだ。

 しばらく「何かくれよ」といった眼でこちらを見ていたけれど、「くれねえのか」と言うようにして気怠そうな足取りで帰っていった。


「気をつけて帰れ。職務質問されるなよ」


 犬へ向けた冗談までとても徹底されている。

 ふと思えば、彼が何の仕事をしているのかを聞いたことはかった。動物関係の何かかもしれない、と考える。


「センタローさん」

「どうした?」


 貴方の仕事は、と口にしようとして言い淀む。ちょっと考えて、質問を変えた。


「どうして、いつも似たような服を着ているんですか」


 黒いシャツに茶色の半ズボン、初対面時とほぼ変わらない。どの夜も、暖色の服を着ていた記憶はなかった。


「さあ。泥棒だからじゃあないか?」


 ふざけた答えに、ちょっとだけ不満を覚えた。


「ヤナギは、いつもお洒落しているな」


 そうかな、と自らを省みてみる。

 薄橙のブラウスに、紫に花模様のフレアスカート。ローヒールのパンプスは白くて、ちょっと擦れてしまっている。

 夜に紛れないように明るいトーンを心掛けるくらいで、容姿や服装に気を遣っているとは言えない。


「大学も、その格好で行っているのか?」


 誤魔化そうかな、

 とも思った。

 でも、話したくなった。

 視界の端で、家の明かりが一つ消えた。


大学でキツイ目にあって、行っていません」


 気を付けたつもりだったけれど、幽かに声が震えてしまった。横眼で彼の表情を見ると、まったくの不動だった。

 そこが好きだ。


「インターネットに、変な写真を撒かれちゃったんですよ」


 センタローさんは岩のように無言だ。ただ聞いていることだけが分かる。

『いじめ』というものを、私情を込めずに口にするのはとても難しい。そこに感情が見えたら、哀しみの呼び水となる。

 それでも、彼に伝えておきたかった。

 盗撮の末、写真をネット上に流された。加えて、風俗に関するあらぬ話なども何処からか噂されてきた。

 この時代の怖いところは、『死なせずに殺す方法』が増えたところかもなあと、もはや他人事のように私は思った。


「次に行くのがいつになるか、分かりません」


 語らなければよかった、などと後悔はしない。現実はどこにだって存在しているし、この公園から現実だけを追い出してしまうのは、あまりにわがままだ。

 どこかから吠え声が響く。パスカルだ。私が語り終えてから一分間の中で聞こえた音はそれだけだった。

 唐突に彼は立ち上がって、私の前に立った。ポケットに手を突っ込んだままの張りのない姿。私を見ていた。

 湖の中の魚を覗いているみたいに、私の眼を見ていた。

 思えば初対面から、私たちは隣り合ったまま会話をしていた。こうして面と向かい、眼を合わせたことはない。

 つまりそれが、覚悟の在り処を示していたのだ。 


「俺は、お前に『死ぬな』と言おう」


 私は、静かに彼を見つめる。顔はあくまで笑っていた、けれど寂しさが微かに滲んでいたように感じられる。


「驚くことに、実は俺が言えることは、この空っぽな『死ぬな』くらいしかないんだよ。俺は頭が悪いし、気遣いさえない。相手を傷つけるかもしれない励ましなんて、言えないしなあ」


 口調はあくまで明るく、私へ話しかけ続ける。


「『闘え』とも言おう。世界がくだらないのはお互いに知っていることだろう? じゃあそれを倒すしかないんだ。不眠症なんて、吹き飛ばさないとな。力がなくても、馬鹿でも、覚悟だけを持って闘うしかないんだよ」


 私は、納得できない。それは多分、私の感情が叫んでいることで、理性では理不尽へ行動を起こす必要に気付いている。

 私には覚悟だけが足りない。彼の励ましの言葉だけでは、そこが埋まらなかった。

 でも、次の彼の言葉だけは――


「勇気は、旨いものの中にあるんだぜ?」


 私の、心を、動かした。

 ……ああ。

 私は、ようやく微笑むことができた。彼もそれを見て、ようやくいつもの人生を楽しむ笑みに戻った。

自分を信じられたわけじゃあない。

 でも、彼のことだけは信じられるような気がした。



「俺は夜が好きだ、なぜか分かるか?」


 隣へ座り直したセンタローさんの疑問に、静かに首を振った。ただただ、彼の言葉を聞いていたかった。


「きっと、すべてが夜から生まれたからだ」


 センタローさんは、静かに言った。


「夜が、世界のすべてを造っているんだ」


 The world is made of night.

 その言葉は、彼の発見というより願いに近かったと思う。

 公園も、街も、ショートケーキも、この会話も。

 夜で造られているから、美しくて、残酷なのかもしれない。

センタローさんは、またベンチを立ち上がった。


「俺は、先に帰るぞ」


 彼も少し疲れているみたいだ。微笑んで、私も立つ。


「私も帰りますよ。勉強させなくてはいけないので」

「誰を?」

「自分を」


 彼は満足そうに笑った。このジョークはお気に召したらしい。

 公園の入り口で、最後の挨拶。


「じゃあ、またな」

「おやすみなさい」


 背を向けて、家路へ踏み出す。良く響く彼の足音が遠ざかるのを聞きながら、センタローさんとはしばらく会わないかもしれない、と直感した。

 星が見たかったのに、帰り道の空は知らぬ間に雲で翳るっていた。夏の大三角もさそり座も、私の想像力で輝かせるしかない。

 何を見たいのかは、私自身が決めるしかない。


 あれから一週間経った。ケーキの甘さは口から消えた。

 尾花公園は訪れていない。受講していなかった分の大学の講義に追い付くために、必死だったから。

 結局、私は大学へまた通っている。彼の言葉のおかげかは知らないけれど、闘う覚悟だけは生まれた。

 センタローさんにまた会うかは分からない。これからはあまり頼りたくない。それでも、夜の秘密を教えてくれた彼のことはどうやっても忘れられない。

 また携帯電話が鳴るまでは、生きていこう。そう思った。



 まだ不眠症は治らない。それはきっと、哀しいことで。

 それでも、私は幸せになろう。

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