メイド・オブ・ナイト
ノグチソウ
夜
ある夏、陽の沈む頃。
「ショートケーキを食わないか?」
「え?」
私のもとへ、センタローさんから電話がかかってきた。
これはつまり、夜の公園でケーキを食べる話だ。
闇を掻き分けるようにして、私は歩いている。住宅街は静かで、誰かが寂しさのあまり、音だけを持ち帰ってしまったみたいだ。
――夜って、寡黙なのかな。
私の思いつきも、黒いアスファルトへ染みていくだけだ。
家から徒歩十五分ほど離れた児童公園――尾花公園。そこへ辿り着く頃には、月光がさらに強くなっていた。
「よう、ヤナギ」
砂場のそばの街灯の下、ベンチに座る影から声が掛かる。私は、やっぱり二人なんだと認識しながら、挨拶を返す。
「こんばんは、センタローさん」
彼は私を見て、悪戯相手を見つけたみたいに笑っていた。
思い出す。
米村
診察は、かなり簡単に終わった。睡眠導入剤を処方されて、経過観察のために定期的に通院することを言いつけられた。まるで、自分自身をレポートとして提出するみたいだな、と奇妙な感想を得て、医療費精算の順番を玄関ロビーの柔らかいソファで待っていた。
「あんたも、眠れないのか?」
隣から話しかけてきたのはもちろん見知らぬ人で、私は怪しむよりも先に、純粋な驚きにとらわれた。
顔をそちらへ向けると、そこには私と同じ歳くらいの男性がいた。黒いポロシャツに、茶色の半ズボン。ラフで、悪い印象は受けなかったけれど、その眼の辺りには、隈が見られた。
私と同じ。
「あまりじろじろ見るなよ。俺は、単なるアドバイスとして言っておきたいだけだよ。睡眠薬をあまり当てにするな、ってな」
「……どういうことですか?」
正直、彼を特に怪しんではいなかった。しかし私は彼の台詞に、何らかの優しさを感じたからこそ、少し怪訝に感じてしまい、そう訊き返したのだ。
彼は三秒ほど何かを思考して、提案した。
「会計が終わったら、時間あるか?」
つまりそこで、尾花公園が私たちの拠り所に決まった。
「俺は米村戦太郎だ。二十二歳の、まあ、フリーターか」
結論から言うと、彼はかなり長い間、不眠症を患っていて、もはや生活の一部になっていたらしい。そのため、自分の後に診察を受けていた私をただ心配したらしいのだ。
「『眠れない』は、ある意味で『死ねない』の下位互換だからな。辛くないわけがないんだ」
夕暮れの公園で、私にいくつかの大切なことを教えてくれた。睡眠薬の多用はかえって身体への負担をもたらすこと。就寝時刻をずらすことも、逆効果になりうること。読書などをすることで、グラデーションのような眠りへの移行を心掛けること。 そうして、思いついたように付け加えた。
「あとは、独りにならないことだぜ」
「独りに……」
思い至ることもあって、私は黙るしかなかった。
しばらく沈黙が辺りを漂ってから、彼は呟くように言った。
「もし眠れなかったら、この公園へ来ればいい」
「え?」
「気が向いたら、だ。家は近いんだよな?」
「ええ、まあ」
「俺は、眠れないときにここで読書したり、ビール飲んだりしているんだ。歓楽街からは遠いし、誰も来ない」
女子大生的観点から言えば――よく考えると奇妙な観点だけれど――あまり安全な行為ではない。ただ、夜に独りでいることも、人生においては寂しいものかもしれない。
「多分、来ますよ。夜自体は、好きなほうですから」
「ああ、それは重畳だ」
彼は笑っている。戯曲にも似た口調や常に笑っている表情などは、彼の不可思議さを面白いものにしている、と私は感じた。
「お互いに、早く治そう。あんたも眼の隈で、綺麗な顔が大変なことになっているぜ?」
それは私を小馬鹿にしたのか、遠回りなお世辞を伝えようとしたのかは分からない。
いずれにしても、それは私を和ませてくれた。
「よろしくな、
「よろしくお願いします――センタローさん」
私は白川夜凪。大学二回生、二十歳。
不眠症だけで繋がる、私とセンタローさんの話。
現実の、今へ戻る。戻りたいかは、また別として。
ところで、『夜凪』という変わった名前だから夜を好きになったのかと、何度か会った夜の内のどこかで、センタローさんに問われた。おそらく無関係だ、と答えた。
幼い頃から夜更かしは多かったし、星や宇宙にも興味はあった。ベランダで考え事をすることもある子だった。
暗い性格だから、と言うと、俺もだ、と彼は笑っていた。
それはさておき。
「どうしてケーキなんですか?」
「甘いからだ」
相変わらず会話を崩しにかかってくる。
「理由なんて考えるなよ。俺が奢るなんて、それだけでも珍しいことなんだからな」
確かに、一度私が飴の詰め合わせを持って来たくらいで、彼が食べ物を持ってきたことはなかった。
ただ彼は、いろんな言葉をくれる。
私は彼と同じベンチに座ったが、ベンチの中央には白い箱が置いてある。
「病院の裏にあったケーキ屋で買ってきた。カットケーキをツーピースだ」
どうやら、貰い物ではないらしい。
「でも、フォークとお皿は?」
「もちろんあるさ。プラスチック製だがな」
そう言って紙袋を取り出し、無機質な皿とフォークを二組、ベンチの上に置いた。
センタローさんは何も言わず、そのままケーキの箱も開いた。中を覗くと、予想より大きな三角形のショートケーキが二つ、仲良さそうに並んでいた。形は崩れていない。当然、真っ赤なイチゴが美しいアクセントになっている。
彼は、ケーキを慎重に皿へ移す。ガラスに触れるみたいに。綺麗な三角を保ったまま、ケーキの準備は整った。
「よし、食うか」
私は頷く。『夜』と『公園』と『ショートケーキ』を結ぶ何かを探してみたけれど、少なくとも私の中にはなかった。
不可思議な組み合わせを、楽しんでいる。
「いただきます」
「いただきます」
そっと、フォークでケーキの角を切り落とす。それを口の中へ放り込んだ。
とても柔らかく作られている。甘味が口の中に残って、どこかへ消えていく。とても美味しい、店については後で訊こう。
「なあ、ヤナギ。ショートケーキって、衝動的に食べたくなるものだと思うんだよ、俺は」
「その衝動を、女子は我慢しているのですけれどね」
「なんでだ?」
私は答えない。秘密であることが、すなわち答えだ。
答えないままに、白い欠片を次々と口へ運ぶ。クリームはゆっくりと溶けて、スポンジは喉の奥へ吸い込まれていく。
あっという間に三角形は消えてしまって、残ったのはイチゴだけ。その赤いフォルムを観察したのち、舌に載せて、噛み砕く。ちょっと酸っぱい気もした。でも。
甘い。
スプーンと皿を置く音、二人分。隣を見ると、センタローさんもクリームまで平らげてしまっていた。
「ご馳走様でした」
「ご馳走さん」
ご馳走様でした、と神様へも忘れずに伝えておいた。
目的の品を食べ終えて、私達は他愛もない話を続けた。ヘッドホンとイヤホンはどちらが使いやすいとか、雨が降るか否かの見分け方とか、睡眠における枕の重要性とか。
くだらない話の後には、客が来た。
「おっ、来たか」
彼が嬉しそうに迎えたのは公園へ入ってきたパスカルだった。
二週間ほど前に初めて、仏頂面でふらりと公園へやってきた。センタローさんがこの子の顔を見て、「パスカルに似ている」と言い出したのだ。私はパスカルの肖像を覚えていないし、調べる気もない。名前がただそこにあるだけだ。
「パスカル、あなたの分はないよ」
私がそう言うと、こちらを睨んできた。躾は受けていないらしい。でも、私は少し態度の悪い、彼みたいな犬が好きだった。
「そういえば、この子の犬種って何でしょうね」
「雑種っぽいよな。シベリアンハスキーとか、コーギーとかか? ただ、パスカルだからとりあえず、フランス出身だな」
パスカルもまた、私たちと同じなのだと思う。野良犬なんてすぐに捕まって保健所行きとなるこの時代、生きていくのは私達より大変だろう。彼こそ本物の、夜の住人なのだ。
しばらく「何かくれよ」といった眼でこちらを見ていたけれど、「くれねえのか」と言うようにして気怠そうな足取りで帰っていった。
「気をつけて帰れ。職務質問されるなよ」
犬へ向けた冗談までとても徹底されている。
ふと思えば、彼が何の仕事をしているのかを聞いたことはかった。動物関係の何かかもしれない、と考える。
「センタローさん」
「どうした?」
貴方の仕事は、と口にしようとして言い淀む。ちょっと考えて、質問を変えた。
「どうして、いつも似たような服を着ているんですか」
黒いシャツに茶色の半ズボン、初対面時とほぼ変わらない。どの夜も、暖色の服を着ていた記憶はなかった。
「さあ。泥棒だからじゃあないか?」
ふざけた答えに、ちょっとだけ不満を覚えた。
「ヤナギは、いつもお洒落しているな」
そうかな、と自らを省みてみる。
薄橙のブラウスに、紫に花模様のフレアスカート。ローヒールのパンプスは白くて、ちょっと擦れてしまっている。
夜に紛れないように明るいトーンを心掛けるくらいで、容姿や服装に気を遣っているとは言えない。
「大学も、その格好で行っているのか?」
誤魔化そうかな、
とも思った。
でも、話したくなった。
視界の端で、家の明かりが一つ消えた。
「ちょっとだけ大学でキツイ目にあって、行っていません」
気を付けたつもりだったけれど、幽かに声が震えてしまった。横眼で彼の表情を見ると、まったくの不動だった。
そこが好きだ。
「インターネットに、変な写真を撒かれちゃったんですよ」
センタローさんは岩のように無言だ。ただ聞いていることだけが分かる。
『いじめ』というものを、私情を込めずに口にするのはとても難しい。そこに感情が見えたら、哀しみの呼び水となる。
それでも、彼に伝えておきたかった。
盗撮の末、写真をネット上に流された。加えて、風俗に関するあらぬ話なども何処からか噂されてきた。
この時代の怖いところは、『死なせずに殺す方法』が増えたところかもなあと、もはや他人事のように私は思った。
「次に行くのがいつになるか、分かりません」
語らなければよかった、などと後悔はしない。現実はどこにだって存在しているし、この公園から現実だけを追い出してしまうのは、あまりにわがままだ。
どこかから吠え声が響く。パスカルだ。私が語り終えてから一分間の中で聞こえた音はそれだけだった。
唐突に彼は立ち上がって、私の前に立った。ポケットに手を突っ込んだままの張りのない姿。私を見ていた。
湖の中の魚を覗いているみたいに、私の眼を見ていた。
思えば初対面から、私たちは隣り合ったまま会話をしていた。こうして面と向かい、眼を合わせたことはない。
つまりそれが、覚悟の在り処を示していたのだ。
「俺は、お前に『死ぬな』と言おう」
私は、静かに彼を見つめる。顔はあくまで笑っていた、けれど寂しさが微かに滲んでいたように感じられる。
「驚くことに、実は俺が言えることは、この空っぽな『死ぬな』くらいしかないんだよ。俺は頭が悪いし、気遣いさえない。相手を傷つけるかもしれない励ましなんて、言えないしなあ」
口調はあくまで明るく、私へ話しかけ続ける。
「『闘え』とも言おう。世界がくだらないのはお互いに知っていることだろう? じゃあそれを倒すしかないんだ。不眠症なんて、吹き飛ばさないとな。力がなくても、馬鹿でも、覚悟だけを持って闘うしかないんだよ」
私は、納得できない。それは多分、私の感情が叫んでいることで、理性では理不尽へ行動を起こす必要に気付いている。
私には覚悟だけが足りない。彼の励ましの言葉だけでは、そこが埋まらなかった。
でも、次の彼の言葉だけは――
「勇気は、旨いものの中にあるんだぜ?」
私の、心を、動かした。
……ああ。
私は、ようやく微笑むことができた。彼もそれを見て、ようやくいつもの人生を楽しむ笑みに戻った。
自分を信じられたわけじゃあない。
でも、彼のことだけは信じられるような気がした。
「俺は夜が好きだ、なぜか分かるか?」
隣へ座り直したセンタローさんの疑問に、静かに首を振った。ただただ、彼の言葉を聞いていたかった。
「きっと、すべてが夜から生まれたからだ」
センタローさんは、静かに言った。
「夜が、世界のすべてを造っているんだ」
The world is made of night.
その言葉は、彼の発見というより願いに近かったと思う。
公園も、街も、ショートケーキも、この会話も。
夜で造られているから、美しくて、残酷なのかもしれない。
センタローさんは、またベンチを立ち上がった。
「俺は、先に帰るぞ」
彼も少し疲れているみたいだ。微笑んで、私も立つ。
「私も帰りますよ。勉強させなくてはいけないので」
「誰を?」
「自分を」
彼は満足そうに笑った。このジョークはお気に召したらしい。
公園の入り口で、最後の挨拶。
「じゃあ、またな」
「おやすみなさい」
背を向けて、家路へ踏み出す。良く響く彼の足音が遠ざかるのを聞きながら、センタローさんとはしばらく会わないかもしれない、と直感した。
星が見たかったのに、帰り道の空は知らぬ間に雲で
何を見たいのかは、私自身が決めるしかない。
あれから一週間経った。ケーキの甘さは口から消えた。
尾花公園は訪れていない。受講していなかった分の大学の講義に追い付くために、必死だったから。
結局、私は大学へまた通っている。彼の言葉のおかげかは知らないけれど、闘う覚悟だけは生まれた。
センタローさんにまた会うかは分からない。これからはあまり頼りたくない。それでも、夜の秘密を教えてくれた彼のことはどうやっても忘れられない。
また携帯電話が鳴るまでは、生きていこう。そう思った。
まだ不眠症は治らない。それはきっと、哀しいことで。
それでも、私は幸せになろう。
メイド・オブ・ナイト ノグチソウ @clover_boy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます