一番に考えるべきはあなたの命じゃない

霧谷進

ただ自分らしく生きるために

 生きる理由がないからといって本当に死ぬことができるのなら、あなたはこの文章を読む機会すらなかったことでしょう。生きることに積極的でない人は大抵の場合、死ぬことに対しても積極的ではないと思われます。だからこそ、死ぬことも生を謳歌することもできず、ただ現在を漠然と過ごして、なんとなく消えてしまいたい、そう思っている人間は存外多いのかもしれません。


 例えばの話、戦争という時代の中で生きていた当時の人間が現代人のような悩みを抱えていたとは考えにくい。そもそも余計なことを考える暇などなかったかもしれない。彼らは生きることに必死だったはずです。


 しかし、現代人は違います。生活水準が底上げされたことで、必死に生きようとしなくてもそれなりを手に入れることができてしまいます。生命を脅かすような危険が取り除かれ、技術の躍進によって肉体的負担が少なくなれば、必然的に物事を考える余裕ができてしまう。そうやって余計な思索を巡らせてしまう者ほど身動きが取れなくなっていく。


 物事に対して理由を探してしまう人間は、何より実益に目を向けようとします。娯楽にまで損得を持ち出し時間を割くだけの意義があるのかと問い始めれば、楽しいという感覚は次第に色褪せてしまうでしょう。前向きな判断ができなくなると徐々に行動する頻度も減っていき、体を動かさなければ代わりに頭が回り出します。


 そうやって思考の沼に嵌り、哲学や心理学の文句を検索した人間はどれほどの数になるのでしょうか。その人たちは生きる意味、幸せの形を見つけられたでしょうか。仮に得られたものがなかったとしても不思議ではありません。先駆者が残したものは効果的な方法や個人的な解釈であり、あなたに目的を与えるようなものではないからです。


 一方、どこかの誰かは『人間は幸せになるために生きている』と考えるらしい。


 端的に表せば、幸せとは状況に対する評価でしかありません。紛争地域にいた孤児が日本を訪れれば死ぬリスクが無くなるだけで天国のように感じるかもしれない。あるいは、何不自由なく生活していた人間が恋人に捨てられてリストカットするかもしれない。この二つの想定について第三者が客観的に何を感じるか、それは些末な問題です。当事者にとっては目の前にあるものがすべて。周りと比較しても抱えたものが取り除かれることはないでしょう。


 余計な物事に足を取られる後ろ向きな人間は、そもそも自分という存在を肯定することに慣れていません。赤の他人に『悲観的になるより前向きに考えなよ』とアドバイスをされても素直に実行できる者は殆どいないように。変われるのであれば既に変わっているはずなので、当事者には当事者なりの後ろを向こうとする理由があります。犬が嫌いな人間に自分の愛犬を近づけても相手は恐れて拒絶するばかり。悲観的な感性をただ否定するだけでは変わりようがないのです。


 加えて自分に自信がない人間は安易な自己肯定を良しとしません。逆を言えば、自分自身の駄目な部分を把握し向き合えている、ということです。明らかな欠点が存在する場合、それを軽視すれば当人の分析結果、価値観そのものを蔑ろにしてしまう。『自己を否定している自分』という人格を攻撃することに繋がってしまいます。


 だから、そういった精神性の善悪を論じることに意味はないのです。心のままに現れる情動を抑えつけたところで負担は増すばかりになります。ネガティブな自分を責めてしまう人、死ねば楽だろうなと考えてしまう人、多種多様の個性があって然るべきなのです。そういった人たちの後ろ向きな姿勢を、筆者は全面的に容認します。こうだと思ってしまうこと自体に罪はないのです。『通り魔殺人や自然災害に巻き込まれる自分』を想像してしまったとしても、不謹慎だと笑うことだけは、筆者は絶対にしません。


 あなたが「死にたい」と呟くだけで救われる心があるのなら、染み付いた負の感情を殺さないであげて欲しい。


 自分の命を大切だと思えなくても人は生きていくことができる。けれど、心がすべてを諦めてしまったら、あなたは本当に死んでしまう。


 重要なことはたった一つ、あなたが何を感じてどう思うか、ただそれだけです。人間が生きる上で好ましいかどうか、などという漠然とした問答に左右される必要はありません。正しくないからと誤魔化して、抱え続けているマイナスを偽らないでください。


 嫌いな者が嫌いなままで、それでもあなたは生きていくことができるのだから。

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