第33話 さらば、樹の里


 細い水路を水流に流されるまま移動したスズネは、途中で左肩を突然現れた壁に強打することとなった。鈍い痛みに驚いて顔を上げれば、正方形を描く夜空が水面越しに見える。――井戸だ。

 底を蹴り上げた勢いのまま水中を上昇したスズネは、ヨルと一緒に水面から顔を出した。スズネは水中にいる間もずっと呼吸が確保されていたので問題はないが、湖の精霊ではないヨルはそういう訳にもいかない。呑み込んだらしい水を吐き出した彼は、冷ややかな水温で白くなった頬を晒しながら、か細い声を絞り出す。


「スズネ……?」

「はい。井戸まで到着しました。ごめんなさい、苦しかったですよね」

「いや、平気。マナ、使えるようになったんだね」


 よかった、と目を細めて笑うヨルに、スズネも微笑を返す。その微笑が多少ぎこちなくなってしまったのは、彼が痛々しい怪我を負っていたからだ。

 頬の痣や口端から垂れた血が、嫌なほど目につく。見える範囲での怪我はその程度だったが、背中を強く打ち付けているはずなので、服に隠れた部位の方が負傷は酷いだろう。

 ヨルの背中に手を回したまま、スズネは神経を集中させてマナを発動させる。井戸の縁まで水を満たせば、水の浮力が自動的に二人を井戸の外へ押し出してくれた。

 ヨルが井戸に寄りかかりながら呼吸を整えている横で、スズネはシンヤが今朝したように、服が吸い込んだ水を回収する。酷く集中力がいる作業で、シンヤがしたように瞬間的に回収することができない。涼しい顔をした彼がどれだけマナを使いこなしているかが、今になって分かった。

 眉間に皺を刻んで水を回収するスズネを、ヨルの瞳が凝視する。その真っ直ぐな視線と見つめ合うのは何だか恥ずかしくて、スズネの視線は自然と彼の腹部に向いた。顔を見ていられなかった。


「ねえ」

「はい?」

「さっき、僕のこと、ヨルくんって呼んだ?」


 その確認の言葉に、スズネは肩を揺らした。漸く回収して球体を作っていた水が、集中力の乱れにより破裂。二人の頭上から降り注いだ水飛沫が、折角乾いた衣服と髪の毛を再び濡らした。

 咄嗟だった。記憶の断片を取り戻した勢いと、その場の熱が、スズネの口を勝手に動かしたのだ。記憶の中でスズネは確かに彼のことを、彼だと思われる誰かのことを『ヨルくん』と呼んでいた。

 しかし、それはあくまでスズネの中での出来事。彼からしてみれば、突然妙に親し気な呼び方に切り替わったのだ。不審に思うのは当然のことながら、怒りすら感じるかもしれない。

 恐る恐るヨルの顔色を窺うと、彼の頬は未だに白いままだった。彼の銀灰色の髪は、普段はふわふわとした大変撫で心地の良さそうな髪質をしているのだが、水に濡れた今はそれが艶めいて酷く色めかしいように感じる。彼の頬に張り付いた毛先から滴る雫が、白い肌を伝い、ぽたりと落ちて彼の服を濡らす。

 彼の表情には、戸惑いも怒りも浮かんでいなかった。スズネの方が戸惑ってしまうほどに、ヨルは優しい微笑みを携えていた。


「なんか、いいね。その呼び方」

「生意気だって思いませんか?」

「ううん。なんというか、すごく落ち着くんだ。これからもそう呼んでほしいな」


 こんな時に言うことじゃないかもしれないけど、と付け足したヨルの声は穏やかだった。自分の頬に張り付いた髪を指で退かした彼は、井戸に背中を預けたまま力なく笑っている。元々優しげな色をしているヨルの瞳が、その時は一層優しく見えた。

 月光の静謐な光が照らしだす彼はとても美しい。格好いいのは勿論として、何処か可愛らしさを感じるその顔立ちも、今はスズネに美しさだけを伝えてくる。

 全身に熱が巡るのを感じた。その熱に突き動かされたように、スズネの口は、またしても自分の思考が追いつかない内に勝手な言葉を紡ぎ出す。


「じゃあ、これからは、ヨルくんって呼びます」

「うん」

「……もう一度乾かしますから、ちょっと待ってください」

「お願い。今度は声かけないようにするね」

「……そうしてください」


 妙な気恥ずかしさを覚えながら、スズネは指先に神経を集中させる。ヨルの真っ直ぐな視線に撫でられているような気がしてくすぐったくはあったが、目線を彼の目から逸らすことで、どうにか羞恥を耐えきった。

 無事に回収した水を周囲に生えていた木の根元にかけてから、スズネは井戸の奥を覗き込む。あの水流を利用して、リンが追ってくるかもしれない。それに、シンヤとコハルも二人を待っているはずだ。ここでゆっくりしている時間はない。


「ヨルくん、立てますか?」

「うん、平気。少しだけどキミのマナを浴びて回復したみたい。樹と湖の精霊が相性いいって本当だったんだね」

「良かった。鳥居まであともう少しですから、頑張りましょう」

「了解」


 緩慢な動作だが確かに立ち上がったヨルの姿を見届けて、スズネはゆっくりと頷く。

 夜の訪れにより、里中は闇に包まれていた。しかし、月と星の仄かな明かりが道を照らしだしている。

 大通りに出た二人を待ち構えていたのは、既に倒れている住人達の姿だ。その身体が例外なく水に濡れていることから、誰の仕業かはすぐに予測がつく。スズネは慌てて近くの男性に駆け寄って脈を確認したが、気を失っているだけで死んではいないようだ。


「本当に容赦ないなアイツ……」

「い、生きてますよ」

「じゃないと困る。流石に弁えてるでしょ、無愛想仏頂面冷酷男の真っ黒助でも。流石に」


 酷い言われようである。しかし、これもある種の信頼なのだろう。

 どれだけ容赦がなかろうが、半年間この里に身を置いたシンヤも、里の住人は殺せないらしい。マナを使っても気絶で済ませるところに、彼の複雑な心情を感じた。

 スズネが来るまでは、三人は穏やかな日々を送っていたのだ。スズネがこの里を訪れて、二日でその平穏が崩れ去ってしまった。

 いつか訪れる未来だったかもしれない。避けられないことだったかもしれない。それでも、切っ掛けになったのは、間違いなくスズネの存在である。

 この結末を変えることはできたのだろうか。脳裏を過る僅かな後悔がスズネの心臓を煩わしいほどに駆け足にさせる。

 私が来なければ、と心の中のスズネが呟いたところで、それを聞いたかのように、ヨルが呟いた。


「キミが来てくれてよかった」

「えっ」

「キミが来てくれなかったら、いつかシンヤが殺されてたかもしれない。それは、嫌だから」


 前を走るヨルが、背中越しに有難うと呟いた。力が抜けかけていた足に再び力が入る。

 大通りの向こうに人影が見えた。一人は剣を抜いており、一人はその影に隠れるようにして立っている。それがシンヤとコハルであることは、遠目からでも分かる。また、彼等の後ろには二頭の馬と屋根付きの馬車が確保されていた。


「……シンヤさんがいなくなったら寂しいですか?」

「まさか。コハルが悲しむでしょ? 僕達双子だからさ。あの子のことはできる限り守ってあげたいし、アイツのための涙なんて勿体ないなと思って。それに、リンの手だって汚れちゃう」

「成程」


 理由は安定している。苦笑を零したスズネの前で、ヨルは早口で言葉を継いだ。


「まあ、多少、ほんの少し、ちょっとだけ、若干、微妙に寂しくないこともないけど、これは秘密だよ」


 ヨルはそう言い切ると、シンヤとコハルの顔が目視できるようになった距離に入ったせいか、会話を打ち切ってしまった。

 スズネは瞬きをした後、小さく笑う。やっぱり仲が良いんじゃないか、という無粋な言葉は、静かに胸の内にしまっておいた。


「ヨル、新米。生きてたんだ」


 シンヤは、そんな無愛想な言葉で二人のことを迎え入れた。構えていた剣を下げた彼の表情に、僅かな安堵が見える。その後ろで、コハルも同じように表情を和らげさせた。

 一瞥した限り、二人には外傷がないようだ。周囲で倒れている里の住人は等しく気を失っており、当然の様に濡れている。しかし、その数は屋敷で見かけた数と比べれば少ない。やはり、戦力は屋敷に集中しているようだ。


「生きてるよ、死ぬわけないじゃん」

「その割にボロボロみたいだけど? やっぱ俺がそっち行ったほうがよかったんじゃない」

「狙われてるお姫様の分際で何言ってんの。コハルに怪我させてないだろうね」

「させるわけないし、お姫様じゃない。本気で言ってるなら君は一度医者に診てもらったほうがいいよ」

「冗談に決まってるでしょ、馬鹿じゃないの」

「馬鹿は君でしょ、ばーか」


 顔を見合わせた瞬間に飛び交う口喧嘩も、先ほどの言葉の後では微笑ましいものに見えてくる。思わず笑い声を零したスズネを見て、シンヤはその眉間に皺を刻んだ。


「笑ってる場合じゃないよ、馬鹿二号」

「ば、馬鹿二号?」

「君達が手古摺ってくれたおかげで戦力が少しずつこっちに向かってきてる。急いで里を出るからさっさと乗って」


 容赦のない罵倒に添えられた的確な指示に、スズネは頷く。この感覚も、何だか酷く懐かしい。ヨルの体を支えながら荷馬車に乗り込んだスズネは、その中に無造作に詰め込まれた食料の山に身体を寄せた。

 日持ちしそうな食料から、直ぐに食べることを想定したであろう果実等が馬車の半分を占めている。小さな食糧庫とすら呼べるその光景だったが、元々大人数で乗ることを想定された馬車なのか、それでも全員が乗り込むには十分な空間が確保されていた。

 馭者を務めるのはシンヤらしい。荷台に乗り込んできたのはコハルだった。彼女は怪我を負ったヨルとスズネを見比べて眉尻を下げたが、ぎこちない笑顔を浮かべてスズネに明るい声を掛ける。


「無事でよかった、スズネちゃん」

「はい、私は無事です。……でも、ごめんなさい。私のせいで、ヨルさんが怪我を」

「大丈夫、ヨルは強いから。それに、いつもシンヤくんと喧嘩して自分で怪我してるんだから、これくらい慣れっこだよ。ね、ヨル」

「はは……言ってくれるね、コハル。でも、その通り。大丈夫だよ、スズネ。キミのせいじゃないから」


 コハルと視線を交わらせたヨルは、微笑を湛えてそう言った。何処までも優しい言葉に、スズネが言葉を詰まらせる。コハルはさらに気を遣ったようで、笑いながらスズネの手を握った。


「大丈夫だよ、スズネちゃん」

「でも……」

「あ、いいこと教えてあげよっか。シンヤくん、ああやって格好良く二人のことお迎えしたけど、ずっとそわそわしてたんだよ。すごく心配してた。でも絶対生きてるって、無事だって私に言ってくれてたから、二人のこと心底信じてたんだと思う。ふふ、素直になれないだけなんだ。許してあげてね」

「コハル、聞こえてるから。余計なこと言わないの」

「うふふ、ごめんね」


 馬車の前部から飛んできたシンヤの言葉に、コハルが笑い声を零しながら返答する。それを聞いたヨルが穏やかに笑うのを見て、スズネも小さく笑った。

 いつか来る未来だったかもしれない。その未来を、スズネがこの里にやってきたことで早めてしまったかもしれない。

 けれど、もしかしたら永遠に失われたかもしれない未来を守れたというのなら。それはきっと、間違いなんかじゃない。


――私は目覚めてもよかったのだ。


 スズネの心の内に、確かな満足感が生まれる。胸の内に広がった安堵が、肩の力を抜かせていく。


「コハル、少し前に手伸ばせる? キミに触れてないと出られないから」

「うん、わかった」

「じゃあスズネは僕に触れてて」

「あ、分かりました。ヨルくん」


 前部に移動して腕を伸ばしたコハルが、スズネの一言で「えっ」と声を零して振り向いた。その手を握ったシンヤも、何故か一瞬スズネに視線を向ける。彼は馭者なので、その視線はすぐに逸らされたが。

 差し出されたヨルの手を握ったスズネは、大きく目を見開いて小首を傾げる。どうかしましたか、と聞く前に、コハルはその頬を僅かに赤らめながら「いいなぁ」と声を漏らした。


「ヨルだけ特別親しそうな呼び方になってるの、ずるい。私もコハルでいいんだよ」

「……呼び捨てはなんだか落ち着かなくて」

「じゃあ、コハルちゃんで!」

「で、では、コハルちゃんで」

「やった! よろしくね、スズネちゃん」


 呼び方が変わっただけなのに、コハルは心底嬉しそうに満面の笑みを零してみせた。伸ばした手はシンヤの手と指まで絡んでいるように見える。そちらの方が余程特別親しそうに見えるのだが――そういった言葉は、呑み込んだ。『コハルちゃん』という呼び方が、存外、スズネの中でしっくりきたからだ。

 絶対防御の壁のことも、記憶のこともある。もしかしたら、かつてこの四人は顔を合わせたことがあって、それなりに会話をする仲だったのかもしれない。

 声も顔も、時間が過ぎれば過ぎるほど曖昧になっていく記憶の断片では、判断がつかない。けれど、そうだったらいいなと、スズネは思った。


「――あの」


 そう思うと、燻ることを許さない言葉は、スズネの口から自然と零れ落ちた。

 ヨルの手を握りしめたスズネは、一拍間を置いた後、破裂しそうなほど高鳴った心臓の音を聞きながら、静かに呟く。


「少し、気になることがあって。確信は何もないけど、私達は、百年前、何処かで会ったことがあるんじゃないかと思って。ええと、それでというか――いや、あの、それでというのも、あんまり関係ないんですけど、えっと」

「言いたいことがあるならハッキリ言って」


 シンヤの言葉が容赦なくスズネを急かす。それに刺された気分になって、スズネは思わず背筋を伸ばした。


「は、はい。えっと、よければ、この四人で一緒に行動しませんか。里から、出た後も。……四人で一緒にいたら、何か思い出せる気がして……」


 誰かの顔を見ることはできなかった。里を出るという行動でこれだけ迷惑をかけたのに、その先も共にあることを望むのは、我が儘が過ぎるかもしれない。

 スズネの声を聞いて、返ってくるのは沈黙だけだった。スズネは自身の頬に熱が集中していくのを自覚する。馬車の揺れを感じながら、随分と長いように感じられた沈黙を破ったのは、ヨルである。


「それ、今更いうこと……?」

「えっ」

「私、ずっとそのつもりでいたんだけど……」

「えっ」

「逆に四人で行動しないで何処に行くつもりだったのか教えてほしい」

「えっ」


 ヨル、コハル、シンヤの順で、呆れたような声で返答される。スズネが慌てて三人の顔色を窺えば、ヨルとコハルは眉尻を下げて笑っていた。馬鹿だね、と言いたげな表情に、胸の奥が熱くなるような感覚を覚える。

 シンヤは前を向いていたので表情を確認することはできなかった。しかし、それ以上の罵倒がなかったので、彼も決して否定的な感情を持っているわけではないことが察せる。

 今更許可を取らなくても、三人と一緒に居ていいらしい。その事実に、スズネは思わず頬を緩ませた。


「よ、よろしくお願いします。ヨルくん、コハルちゃん、シンヤさん」

「よろしく、スズネ」

「よろしくね、スズネちゃん!」

「よろしくするつもりはないけどまあ精々頑張れば」


 各々から飛んできた挨拶に、スズネは思わず笑い声を零してしまう。

 誰かと一緒にいられることが、こんなに嬉しいだなんて。

 ふと外を見れば、丁度馬車が鳥居を通り過ぎるところだった。がたん、と大きく揺れた荷台の中で、見納めとなるであろう樹の里を、馬車の後部に乗った三人が眺める。

 かつて湖の里と一つだった里。湖の大精霊を愛した故に、離別の道を歩んだ大精霊がいる里。

 民家に灯る明かりは一つとしてない。大通りの奥に見える屋敷も、その輪郭が夜の背景と融けて、遠くからでは明確に視認することができなかった。

 たった二日過ごしただけの場所。それだけとは言い切れない感情を残して、馬車は鳥居を通過する。樹の大精霊の結界を通り抜けた瞬間に、スズネは自身の耳元で、微かな女性の声を聞いた気がした。


『あなたの全てを愛している』


 そんな熱の籠った声が、スズネの鼓膜を撫でて、過ぎ去っていった。

 目を見開いたスズネが慌てて周囲を見渡すと、既にそこは巨木と鳥居だけが存在する空間へと成り代わっている。結界を抜けた先――つまり、樹の里の外だ。

 里を抜けた馬車は、その巨木の森からも遠ざかるように、小刻みな揺れを繰り返しながら大地を駆けていく。

 失われた記憶を取り戻すために、四人の旅は幕を開けた。

 深い森での出来事だった。

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