二章 「神都」

第34話 うたた寝の馬車


 誰にも嫌われたくない。

 誰かに必要とされていたい。

 そのために必要なことは分かっていた。

 完璧に遂行することが無理だということを理解していると同時に、『それ』をすれば最低限で留められるということも理解していた。

 だから、何処までも『それ』を熟した。

 だって、嫌われたくない。

 特に、貴女には。

 だから、私はずっと『それ』をした。

 貴女に、嫌われたくなかったから。

――貴女は、それが、嫌いだった?




 ガタン、と音を立てた大きな揺れに、スズネは瞳を開けた。

 うたた寝をしていたようだ。強く懇願して、何かを問いかけるような夢だった気がする。朧げな夢の内容を反芻しながら、スズネは眠気の靄が掛かった思考を少しずつ巡らせる。そうして、重い瞼で辛うじて瞬きを繰り返した。

 大きな揺れの後も、小刻みな揺れが継続している。その揺れに合わせるように目の前に転がってきた林檎の鮮烈な赤色を見て、スズネの意識は少しだけ覚醒した。

そうだ。ここは馬車の中だ。


「起きた?」

「……え」

「おはよう、スズネ」


 耳元で聞こえた穏やかな声に、折角円滑に回りだしたスズネの思考が一気に制止した。大きく目を見開いてそちらを見やれば、微笑みを携えたヨルの顔がスズネの視界を埋める。

 僅かに青色が混じった優しい緑色の丸い瞳。ふわふわとした銀灰色の項までの髪の毛。美麗ながらに何処か幼さを帯びた愛らしい顔立ちが、息も交わりそうな距離にある。既に停止していたスズネの思考回路が音を立てて破壊された。そんな気がした。


「ひぇっ」


 小さく悲鳴を上げて勢いよく飛び退けると、それに合わせて馬車が大きく揺れた。急激に頬に集中した熱と、寝起きとは思えぬ程に騒がしくなった心臓の音が、スズネが抱いた羞恥と驚愕の感情の強大さを物語っていた。


「ちょっと、暴れないでくれる?」

「えっ、あっ、すみません」


 馬車の前部から飛んできた不機嫌そうな注意の声に、スズネは訳も分からず謝罪した。全く顔から退散していかない煩わしいほどの熱で思考が搔き乱されている。明らかに動揺しているスズネを見て、ヨルはその瞳を大きく見開いた後、苦笑した。


「悲鳴上げられるのは心外だな」

「ご、ごめんなさ、えっ、私、あの、もしかして」

「うん。僕の肩に寄りかかって寝てたよ」

「ひえ……」

「その悲鳴の意味が知りたいなぁ」


 求められたのは悲鳴の意味だったが、スズネの口から出てくるのは謝罪ばかりである。何重にも重なる謝罪の言葉を受け取ったヨルは、その下がった眉尻を元に戻して、優しい笑顔を浮かべてみせた。いつもの、ヨルの顔である。


「ううん、大丈夫。昨晩はスズネが火の番だったし、寝るのは当たり前だよ。精霊といえど、休息はとらないとキツいし」

「い、いや、そうなんですけど。怪我をしていらっしゃるヨルさんに寄りかかるなんて、私、なんて馬鹿なことを……。ごめんなさい、お怪我は悪化していませんか?」

「平気だよ。そんなに心配しないで。叩かれたりしなければ然程痛くないから」


 蒼褪めたスズネにゆるりと手を振ったヨルは、その流れでスズネの前に転がっていた林檎を拾い上げた。そのまま、詰め込まれた食料が作り出している山の中に林檎が返される。


「寝起きから騒がしいね。寝てた方が静かだからずっと寝ててくれていいのに」

「す、すみません」


 馬車の前部に座った、馭者を務める黒髪の少年――シンヤの辛辣な言葉に、スズネは肩を竦めた。先ほどの注意の言葉も、彼が放ったものである。ヨルに比べて容赦のない態度をとられるため、スズネは彼との距離を掴み兼ねていた。

 大人しく口を閉ざそう。邪魔にならないように。

 そう思って唇を結んだスズネを見て、正面に座っていた愛らしい顔立ちの少女が困った用に笑った。


「あれね、シンヤくんなりの心配の言葉。『昨日寝てないんだからもうちょっと寝てたら?』って言ってるつもりなの」

「あ、そうだったんですね」

「コハル」

「今のはシンヤくんが悪いよ。女の子にはもっと優しくすること」


 咎めるようなシンヤの声に、少女は頬を膨らませて返答した。

 緩やかに波打つ黒髪を肩の上で切り揃え、ぱっちりとした桃色の瞳を持つ彼女の名は、コハル。ヨルの双子であり、シンヤの分かりやすい弱点でもある。


「君以外には興味ないって言ってるのに」

「興味の有無と優しさの有無は関係ありません。めっ」

「はいはい。悪かったよ、新人」


 スズネへの対応とは打って変わって、シンヤの声がとても甘い。幼子を嗜めるような言葉も、他者から投げられればシンヤは間違いなく「は?」の一音で一蹴するが、コハルがそれを口にすると、何とも不思議なことにこのように素直に頷いて、挙句に本意ではないであろう謝罪までしてみせる。

 シンヤはコハルのことを溺愛していた。何よりも、誰よりも。酷く掴みにくい性格の持ち主であるシンヤの、唯一分かりやすい部分である。


「い、いえ、煩くしてすみませんでした。お言葉に甘えてもう少し寝させてもらいますね」


 目の前で繰り広げられるやりとりに苦笑を零したスズネは、それから、馬車の壁に寄りかかって目を閉じる。今度はヨルに寄りかかってしまわぬように、ちゃんと姿勢を正した。

 樹の里から脱出して、三日が経過していた。あれ以来、スズネ達はずっと馬車で移動している。

 シンヤのマナを使用して移動したほうが格段に速い。樹の里から追っ手が来ることを考えれば移動は何処までも速い方が良いのだが、そうしないのには二つ理由があった。

 一つは、マナを温存するため。休めばマナを回復することができるが、それは微々たる量である。食料を大量に摂取すれば瞬時に回復することも可能だが、食料が限られている状況では、気軽にその手段をとるべきではない。長期的な旅になることを見越して、いざというときのためにマナの乱用は防ごう、というのが四人の下した結論だった。

 もう一つの理由は、リンが精霊石を持っているためだ。

 彼女の持つ精霊石は、盗賊が持っているものより遥かに純度が高いらしい。純度が高ければ高いほど、精霊石は遠くのマナや精霊に反応を示して光る。そういった性質があるらしい。精霊の存在に対する反応とマナの発生に対する反応では後者のほうが断然に感知しやすいため、マナを使えばこちらの居場所がすぐに伝わってしまうのだそうだ。

 こちらの居場所を眩ませるためにも、マナの使用は必要時以外避ける。その必要時というのは、自分の身、或いは仲間の身にどうしようもない危険が迫ったとき。それ以外でのマナの使用は禁止、というのが、この旅での決まり事の一つだった。


「神都まで、どの程度かかりそうですか?」

「あと一日」


 目を閉じたまま問いかけると、シンヤから素っ気ない声での返事が聞こえた。無愛想な声ではあるが、求めれば返事があるのは、やはり彼の根っこの優しさを感じさせる部分だ。――尚、必要な質問でないと判断されるといくら待っても返事はないので、その優しさについて、スズネは未だ少し懐疑的である。


『……神都、ですか?』


 樹の里を抜けた後、四人でこれからのことを話し合っていた時のこと。シンヤが提案した『神都』という言葉に、スズネが小首を傾げた。初めて聞く言葉だ、と言えば、彼は馬車を走らせたまま、やや面倒くさそうな声で答えてくれた。


『そのまま、神のいる都のこと。色んな精霊で溢れかえってるってさ』

『ああ、成程。色んな精霊に紛れて行方を眩ますんですね』

『それもあるけど、そっちの理由は二割』

『……では、残りの八割は?』

『そこの怪我人の治療のため』


 シンヤの声は無愛想だったが、その提案と理由は実に愛情に満ちていた。シンヤとヨルの仲はすこぶる悪いが、双方、それは表面だけであって、本当はお互いのことが大好きなのではないか? というのが、スズネの感想である。それを口に出せば全否定を喰らうのは目に見えているので、絶対に口にしないが。

 そこの怪我人、というのはヨルのことだ。彼はリンとの戦闘で負傷しており、里を出た当日は流石にぐったりとしていた。

 精霊はマナの塊である。だから、回復にはマナが必要なのだそうだ。

 自分の意思で使うマナと回復に使うマナの消費量は、後者の方が圧倒的であるらしい。そのため、この馬車に詰め込んだ食料全てをヨルが口にしたところで、完全回復は見込めない。何より、ヨル自身がその選択肢を拒否した。


『ここにいる全員、マナを消費してるはずでしょ。いざというときのためにマナをとっておくっていうなら、僕が食料全部消費するのは避けたい。別に死ぬわけじゃあるまいし』


 ヨルはその主張を譲らず、結局、日持ちしない果実等の食料を優先的に回すということで話が纏まった。

 神都は、文字通り神のいる都。故に、神のマナが充満しているのだそうだ。そして神は、大精霊を創り出した大いなる存在。大精霊に創られた精霊もまた、神のマナに触れれば食料や休息以上にマナの回復を見込めるはず。

 これがシンヤの主張だった。ヨルの治療は勿論、精霊が集う場所であれば、隠れるにはうってつけの場所でもある。精霊石がまともに機能しなくなれば、数多いる精霊の中から四人を見つけるのは至難の業になるだろう。

 好条件ばかりが揃っていた。神都を目指す理由は、それだけで十分だった。


「シンヤくん、疲れてない? 交代する?」

「平気だよ、コハル。有難う。君はゆっくり休んでて。君のためなら何処までも頑張れるから」

「道間違えてないだろうね、真っ黒助」

「そんな馬鹿しない。手元にマツの図書館から盗ってきた地図があるから平気。怪我人は大人しく寝てな。力付くで強制的に寝かしつけてやってもいいんだよ」

「労わりとは程遠い有り難いお言葉を有難う。キミのせいでマツさんは今頃リンに叱られてるかもね、可哀想」

「俺達が犠牲になるよりいいでしょ。説教くらい乗り切ってもらいたいもんだね」

「もう、二人共。スズネちゃん寝てるんだから、もう少し静かにしなきゃ」


 三人の声を聞きながら、身体の力を抜いていく。馬車の小刻みな揺れは次第に心地よいものとなっていき、スズネの眠気を酷く誘った。

 三人の言葉は、眠気に侵された思考の中で意味が認識できなくなっていって、やがてただの音となる。それがとても心地よい。

 スズネは簡単に意識を手放した。そして、意識を失った身体は馬車の揺れによってずるずると傾いていき、再びヨルの肩にスズネの頭が乗っかる。その間、僅か十秒。


「スズネちゃん、馬車で寝るといつもヨルにくっつくね」

「そうだね。その度に悲鳴をあげられて飛び退かれるけど」

「でも結局いつもこの体制になるんだよね」


 無防備に寝顔を晒すスズネを見て、コハルは可笑しそうに小さく笑い声を零す。釣られるように口端を持ち上げたヨルは、左肩の重みを拒絶することなくそのままにしておいた。

 初めてこの体制になったときはそれなりに驚愕したし、どうするべきか困惑もしたが、それを見るコハルが微笑ましそうだったので、何となくそのままにしておいた。その後目を覚ましたスズネの反応を見て、起こすのが正解だったか、などと思ったのに、彼女はその後もこの体制を繰り返している。

 その度に蒼くなって謝罪を繰り返すスズネの反応が、次第に面白くなった。だから、ヨルは彼女をわざと起こさない。子供のちょっとした悪戯心にも似た感覚である。


「怪我人なのに平気な訳?」


 シンヤの何処か呆れたような声が聞こえた。眠っているスズネに気を遣ったのか、その声は普段より多少潜められている。


「別に、怪我してるとこグリグリ押されるわけじゃないし平気。それに、こんなに心地よさそうにされちゃ、起こすのは可哀想だし」

「ね。ヨルに寄りかかって寝てるときが一番幸せそうな顔するよね」

「僕からじゃ見えないけど。まあ、いい枕になれてるようで何よりだよ」


 冗談交じりのヨルの声と、楽しそうに弾んだコハルの囁き声が、スズネの鼓膜を撫でる。眠っている彼女はまさか自分が話題に上がっているだなんてことも知らないまま、穏やかな夢の世界を漂っていた。

 嫌われたくないと、懇願する夢。

 貴女だけには嫌われたくないと、強く思う夢。

 そして、最後には必ず問いかける。

――貴女は、それが、嫌いだった?

 返答はいつもない。けれど、それを問いかける声が酷く寂しそうで、悲しそうで、また、自分の胸に穴が開いたような痛い虚無感がある。

 それだけが確かな夢。

 貴女というのが誰なのか、『それ』とは何なのか、今のスズネには分からない。

 それを知るための旅は、まだ始まったばかりだった。

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