第31話 愛しているから

「今から百年前のことです。樹の大精霊様は、湖の大精霊との生活に限界を感じていらっしゃいました」

「……限界?」


 リンは鋭い目付きをスズネに向けたまま、一言そう呟いた。スズネの脳内は疑問で埋め尽くされる。

 その先を求めるように復唱したスズネの声は、部屋の中で反響した。先ほど、水に叩き付けられた影響で顔面を濡らした水滴が、頬から顎を伝い、水面に落下する。その些細な水の音ですら、その静謐な部屋の中では異音と成り得た。

 ヨルが警戒を露わに短剣を構える。リンは僅かに苦しそうな顔をしてみせたが、部屋の中央に佇む一本の樹を一瞥して、目を伏せた。


「ヨル様、申し訳ございません。御無礼を、お許しください」


 一言謝罪を添えると、リンは自身の右足で部屋の水面を蹴り上げた。靴先で弾かれた水がその視界を一瞬奪うと同時に、ヨルの全身を濡らす。ヨルが怯んだその隙に、リンは素早い動作で自分が操るマナの樹を大きくしならせた。

 瞬きの一瞬の内に、リンの足元で蠢いていたはずの樹の根はヨルの眼前まで迫っていた。ヨルが息を呑むのと同時に、太い木の根が彼の身体に叩き込まれる。ヨルは咄嗟に腕で防御をしたようだが、彼の体はその攻撃を受け止めきれずに部屋の片隅まで吹き飛ばされた。

 ヨルは背中を壁に叩き付けたようだ。痛みに耐えるような呻き声が聞こえる。


「ヨルさん!」

「気絶してくだされば、それが一番なのですが」


 悲痛なスズネの呼び声に、ヨルの腕がぴくりと動く。リンの無感情な声に顔をあげた彼は、眉間に深い皺を刻みながら、覚束ない足取りでその場に立ち上がった。


「……キミは、僕に攻撃できないと思ってたよ。リン」

「そうはいかないようですね。流石はヨル様です。貴方に攻撃するのはとても心苦しいので、できればスズネ様を置いて今すぐこの部屋を立ち去っていただきたいのですが……」

「勿論、断る」

「……ヨル様のその頑固さは、一体誰に似たのでしょうか。シンヤ様から悪影響を受けたのかもしれません」

「アイツと一緒にしないで、不愉快だよ!」


 ヨルはそう言うと、力強く地面を蹴り上げた。水飛沫が上がると同時に目にも止まらぬ速さで走り出したヨルに、リンが顔を歪める。両者の距離は一気に縮められた。リンが後退しようと後ずさりしたところで、ヨルはその一歩を着実に詰める。

 リンの腹部目掛けて突き出された短剣の刃は、目標に刺さることはなかった。寸でのところで体を捩って回避したリンと、本気で攻撃を仕掛けたヨルの視線が至近距離で交わる。

 無理に体を捩って体制を崩したリンを、見逃すヨルではない。勢いよく突きだした腕をそのまま振るうことで、ヨルは流れるような追撃を繰り出す。

 短剣の刃は、水面の光を浴びて鈍く輝いていた。それが、やけにスズネの瞳に焼き付くように見える。

 ヨルが突き立てようとした短剣は、リンの横腹に浅く刃先が当たっていた。それが深く食い込んでいかなかったのは、彼の手首をマナの木の枝がしっかりと掴んで止めていたからだろう。


「……やるね、リン」

「これでも、里の代表ですので」


 刃を沈めようと力を込めるヨルと、マナを強く放ってそれを制するリン。よく見れば、リンの片足には木の枝が絡みついており、彼女の逃げる術を奪っていた。

 激しい攻防は、スズネの目では追いきれない。正真正銘の取っ組み合いをしながら、ヨルは低い声で彼女に尋ねた。


「話の続き。どうして樹の大精霊は湖の大精霊との生活に限界を感じていたの」

「それは、湖の大精霊の性格故です」

「何。相性最悪でした、とか?」

「最高すぎて最悪でした、の間違いですね。ええ、御二方は本当に仲が良かった。湖の大精霊のマナで生かされた樹の大精霊様は、心底彼女のことを慕っていましたよ。本当に、彼女のことが大好きだった。大好きだったから、離れなければならないことを悟ったんです」


 リンの声音に、僅かに苦しそうな色が混じった。彼女の腹部にヨルの短剣が僅かに刺さっている。腹部から滲んだ鮮烈な赤が滴り、水面に落ちた。水面が、僅かに赤く染まっていく。


「よ、ヨルさん……」

「スズネ、立てる? 今すぐ穴の下まで向かって。そしたら僕がマナで持ち上げるから――」

「させません」


 リンの無慈悲な声が響くと同時に、スズネは背後から頭部を強く殴られた。目の前が白くなる感覚を覚えて前に倒れこんだスズネは、咄嗟に手をついて後ろを見上げる。いつの間にか背後に生えていた太い木の枝が、既に次の攻撃を仕掛けようとその体を高く振り上げているところだった。

 咄嗟に横に飛び退く。先ほどまでスズネが倒れこんでいた地点は容赦なく枝に叩き付けられ、激しく水飛沫が飛んだ。それを頭から被りながら、スズネは眩暈と頭痛を堪えて急いで立ち上がる。重心が定まらない体を杖で支えながら、スズネは眉間に皺を寄せた。

 気が付けば、リンのマナは部屋中に張り巡らされていた。常にマナの光に満たされたこの部屋では、彼女がマナを発動させる機会が伺えない。回避をするのも難しい。

 二本の木の枝がスズネ目掛けて次々と振り下ろされる。それを覚束ない足取りでどうにか回避すると、自然とスズネが向かいたい穴からは離れていった。リンの目的はあくまでスズネを大精霊に捧げることだ。ヨルと戦うよりも、スズネを殺す方が優先事項であり、また、そうする方が容易なのだろう。


「スズネ!」

「だい、じょうぶ、です」


 荒い呼吸が間に挟まった絶え絶えの言葉でどうにか返答した。

 肩を上下させながら壁際に寄りかかったスズネの視界がぶれる。激しい頭痛がする。立つことも精一杯で、今にでも床に倒れこんでしまいそうだ。

 頭の中で、声が鳴りやまない。その声がスズネの思考も、目の前の状況も有耶無耶にしてしまう。


『どうして、××××』


 泣き叫ぶ自分の声がする。


『会えてよかった、××××』


 しかし、次の瞬間には安堵したような自分の声が重なる。

 絶望と希望が交互に頭を巡り、スズネの思考は誰かの手で無理矢理かき混ぜられているかのように纏まらない。気持ち悪さが先行して、何も考えられない。何よりも、頭が痛い。煩い。煩わしい。


「どうして大好きだからって理由で離れなきゃいけないのさ」

「樹の大精霊様は、湖の大精霊のマナを受け取りながら生きていました。しかし、ただの樹だった頃とは違い、彼女は大精霊という大きな存在になりあがった。本来、神の手でしか生み出されることのない大精霊が生きるために必要なマナを、同じ大精霊が補えると思いますか?」

「……思わない」

「ええ、仰る通り、湖の大精霊はマナを補うことができませんでした。それでも、彼女は樹の大精霊様にマナを注ぎ続けた。その結果が、自分の破滅を呼びこむことを知りながら」


 リンの表情が翳る。その瞳に宿した殺意はそのままに、彼女は胸に抱いた憂鬱を分かりやすく声に滲ませた。


『ねえ、このままじゃ死んじゃうよ』

『ううん、いいの』


 スズネの脳裏を誰かの声が掠めた。その人は酷く疲弊している様子だったが、それでもこの上なく幸せそうに、力なく微笑んでいた、


『どうして?』

『私、これくらいしかできないから』

『死んじゃうって分かってても、マナを注ぐの?』

『うん』


 その人の手の平からはマナの光が溢れ続けている。それが湖から湧いてくる光の正体だ。周囲を包んだ神秘的な光の中で、その人は、目を細めて笑った。


『どうせ死ぬなら、誰かの役に立って死にたい。それが大好きな人のためなら尚更。私に赦された価値なんて、そのくらいなものだから――自分を削って、削って、削った先で、あの子が生きてくれるなら、それでいい。それがいい。私は人の役に立てて、あの子は生きながらえることができる。生きた先で、私じゃない私を見つけてくれれば、皆幸せでしょ?』


「想像できますか? 大好きな人が、自分のために弱っていく姿を毎日見せつけられる苦痛が」


『私は、あの子を救いたい』


「理解できますか? 大好きな人が、自分のためだと笑いながら自殺に等しい行為を繰り返す光景がどれほど悲痛か」


『私なんていくらでも次がいる。でも、あの子はそうじゃない』


「大好きなのに、愛おしいのに、その感情が相手を殺す虚しさが!」


『私は、あの子を愛しているから――だから、生きてほしい』


「愛しているから、生きてほしいから、樹の大精霊様は湖の里を離れるしかなかったんだ!」


 リンの叫び声と脳内の祈る声が重なった。眩暈が激しい。今自分が立っているのが、現実か過去か分からなくなる。スズネは思わず口元を抑えた。気を緩ませると、すぐにでも嘔吐してしまいそうな不快感が胃の中にある。


「樹の大精霊様は、湖の大精霊様を生かすために、自らその里を離れる決断を下されました。これが、二つの里が別離した理由です」


 リンの声は、その一言でやや落ち着きを取り戻したようだった。しかし、その声を聞いているスズネの心情は、その熱を収めることをしなかった。

 気が付けば、スズネの頬を生温い雫が伝っていた。部屋の床を浸していた水とは違う、温度のあるそれは、スズネの目許から流れ落ちている。

 どうしようもなく愛していた。だから生きてほしかった。

 永遠に一緒にいたかった。その言葉に決して嘘は無かった。

 けれど、永遠がない事は、自分自身が良く分かっていた。

 だからせめて、許されたうちの永遠だけ。

 自分が死ぬまでの、限りある永遠を、あなたと共に過ごしたかった。

 自身の中に流れ込んでくる感情は、確かな熱を持っていた。湖と樹、二つの里が別たれた理由は、決して仲違いではなかったのだ。

 両者は、確かに互いを愛していた。誰も否定できない真実がスズネの心を襲う。


「なら、湖の里の裏切りって何?」


 ヨルの声が緊張したようにリンに尋ねた。リンは僅かに乱れた呼吸を整えた後、呟く。


「樹の大精霊様は、自分自身でマナを安定させられるようになった後に、彼女と再び会うおつもりでした。互いが死なず、生きる道を探すための別離です。湖の大精霊にはそれを告げるための手紙を送りました。――その手紙を託されたのが、ヨル様とコハル様だったのです」

「……僕?」

「はい。湖側がそれを受け入れれば、手紙の返事とお二人が返ってくる。そういった予定でした」


 リンの表情は、そこまで言い切ると一気に硬くなった。一瞬穏やかになったその瞳の奥には背筋が凍る程の嫌悪と殺意が満ち溢れる。その表情に張り付いたのは、深い憤怒である。


「湖の里からは、手紙が返ってこなかった。いいえ、それだけには飽きたらず、手紙を託されたヨル様とコハル様も、そのまま行方不明になりました」

「……それって」

「ええ。それが御二人が百年間この里にいらっしゃらなかった理由です。私はあの時からずっと、黙ってお二人を見送った自分を憎んで、恨み続ける日々を送ることになりました。湖の大精霊は、手紙に込められた大精霊様の想いを破り捨て、それまで語っていた軽々しい愛情を簡単に捨て去り、御二人に危害を加えた。漸く見つかったヨル様とコハル様が記憶喪失だった上に満身創痍だったことから、それは明らかなこと。これを裏切りと称さずに、何と呼ぶのですか」


 リンは表情を険しくしてスズネを見やる。鋭い視線に刺されて、スズネは小さく息を呑んだ。


「湖の大精霊にも、湖の精霊にも、温情は必要御座いません。一度温情をかけた結果が、今のこの状況を招いているのです。私はもう二度と、同じ過ちを繰り返さない。貴女達が語る薄っぺらな愛情のせいで、我々がどれほど苦しんできたことか。――赦しません。大精霊様のお心を、御二人の希望を踏みにじった事。例え百年の歳月が過ぎようが、貴女達が白を切ろうが、私だけは絶対に覚えています」


 リンが拘束されていない片足で水面を踏みつける。水面に広がる波紋とその場に上がった水柱を合図に、静止していた木の根たちが激しく動き出す。

 その内側に秘めていた憎しみを表すかのように、木の根は壁や水面を暴れるように叩き付けた。スズネはハッとして後退しようとしたが、正気に戻るのが遅かった。眼前に迫った根からは、逃れきれない。

 スズネは咄嗟に身体を丸める。頭を隠す様に交差した腕の隙間から、勢いよく迫りくる木の根が見えた。顔が青ざめる。それまでより速い動きから、先ほどの何倍も力が込められていることが分かる。腕などでは防ぎきれない。これが直撃すれば、スズネの首は簡単に折れてしまうだろう。

 死んだかもしれない。

 脳裏を、そんな予感が掠めた。スズネの視界が幹の影で黒く染め上げられる。同時に、脳内は死への恐怖に満たされた。

 しかし。


「スズネ!」


 ヨルの声がした。

 次の瞬間、スズネの視界は、真っ白に染まりあがった。

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