第30話 追想と裏切りの交差


「ねえ、私達、ずっと一緒にいられるかな」


 スズネの質問を聞いて、彼は目を丸くした。そんな唐突な質問でも、尋ねればその答えを出してくれる。彼はそういう、律儀な性格をしていた。

 その時も、彼は驚きながら「そうだな」と悩んで自分なりの答えを出してくれたのだ。


「そもそも、大精霊同士がああもべったりしてるし、離れようがないんじゃない?」

「そうだといいなぁ。今更離れるなんて、考えれないもんね」

「まあ確かに」


 スズネの言葉に頷いた彼の視線の先には、一本の樹と美しい湖が存在している。それこそが、樹の大精霊と湖の大精霊の住処である。

 湖の中央に生えた樹は、愛らしい桃色の花と、青々と茂る木の葉と、林檎や桃といった様々な種類の果実でその身を飾っている。いつみても、あの樹は特別だった。

 その木陰で、二つの人影が楽しそうに笑っているのが見えた。不思議と視界がぼやける。表情の詳細を見ることが叶わなかったが、それでも、二人は酷く楽しそうに笑い合っているのは確信できた。二人は、いつもそうだったから。

 スズネは湖に沈めていた足を持ち上げる。冷やりとした感覚が心地よい。水面に何処までも広がっていく波紋を見つめながら、スズネは小さく笑い声を零した。


「まあ、離れるなんて、私の片割れが許さないと思うんだけど。あれだけ溺愛してれば、例え離れても地の底まで追って行きそうな――」

「誰が片割れだって?」

「ひっ」


 揶揄うような声音のスズネを一刀両断するその声は、彼のものより少し低い。スズネはびくりと肩を揺らして、声の主の方を振り向く。彼とは違う少年が、酷く不機嫌そうな顔をしてそこに立っていた。その後ろには、愛らしい笑顔を浮かべて手をひらひらと振っている少女の姿もある。

 少年は、ぶっきらぼうにスズネに向かって言葉を投げかけた。


「それ、なんか二人で一人みたいな感じで嫌だ。俺達別に双子じゃないでしょ」

「で、でも兄妹みたいなものだし、呼びやすいし」

「嫌だ」

「……心が狭い」

「はあ?」

「なんでもないなんでもない! ごめんなさい!」


 少年に凄まれると弱いのだ。逃げるように湖に飛び込んだスズネを、少年は眉間に皺を寄せながら見下ろしている。でも、彼が本気で怒っていないことくらい、スズネにも分かる。本気で怒っていれば、今頃スズネに対してマナが飛んでくる頃合いである。


「ほんとに仲悪いんだから。もう少し優しくしてあげたら」

「嫌だ」

「頑固。スズネが可哀想」

「可哀想だとは思わないし優しくする必要性も感じない。君がスズネの何処に惹かれたのかが全く分からない。君の頭と目が可哀想だなとは思う。優しくしてあげようか?」

「一つ言うと三つ返ってくるところ本当に嫌い」


 水面から目元を覗かせたスズネを見て苦笑した彼が、少年に対して苦言を零す。少年の止まらない罵倒に彼が青筋を立てたところで、割って入ってきた少女が「まあまあ」と二人を宥めてみせた。

 女の子には優しくしなきゃ駄目、とか、喧嘩しちゃ駄目、とか、少女から飛んでくる説教の言葉に、二人は「でも」と「だって」で応戦している。最後まで聞くまでもなく、少女の圧勝に終わる一方的な舌戦だった。

 スズネは湖から顔を出して、それを見て面白くなって笑い声を零すのだ。いつもそうだった。四人でいるときは、いつも。


「四人共、少しこっちにおいで」


 湖の中央から、そんな声がかかった。四人の視線を一斉に浴びた二つの人影が穏やかに笑っている。

 いつでも笑い声が響いていた。そうだ、二つの里が一つだった頃、確かに皆幸せだった。

――幸せ、だったのだ。




 どうして、と、少年が呟いた。ここまで呆然とした彼の顔を、スズネは初めて見たと思う。

 里内は酷くざわついていた。昨日まで湖の中央に生えていた樹は忽然と消え去り、二人の姿は勿論、彼女の姿も見当たらない。湖の中心に立っている人影は、ただ無言で、樹の生えていた場所を見つめ続けていた。


「何、どういうこと? 説明して。ねえ、あの子達は?」

「分からない」

「分からないって……」

「消えてしまった」


 今にも掴みかかりそうな少年の声と、淡々と事実を報告する声を聞いて、スズネは無言で立ち竦んでいた。

 湖に樹がないというだけで、どうしてこうも何もないように見えるのだろう。その光景が齎す喪失感は相当なもので、スズネの胸の内には直接殴られたような衝撃がいつまでも続いている。


「ねえ、君はアイツからなんか聞いてないの?」

「……何も……だって、貴方だって何も、聞いてない、ん、だよね?」

「聞いてたらとっくに追ってる!」


 少年の焦燥の声が鼓膜を震わす。その顔に滲んだ動揺が、スズネの心臓を酷く速くさせた。少年がここまで取り乱すなんて、只事ではない。そうだ、実際、只事ではないのだ。

 スズネが周囲を見渡す。慌しく走り回る里の住人達の他に、見当たる影はない。

 勿論、彼も。

 現実味のない光景だった。スズネは信じて疑わなかったのである。この先も、ずっとこのまま、永遠に一緒だと。

 では、どうして彼はいないのだ。

 スズネの虚ろな瞳が湖の里を見渡す。ざわめきが遠く聞こえた。


「……どこにいっちゃったの、××××」


 その力のない独り言は、周囲のざわめきに溶けて消えた。頬を伝ったのは、決して湖の雫ではなかったと思う。

 スズネはその日、一人で居ることの恐ろしさを、知ってしまったのである。





「スズネ!」


 その声でハッとした。スズネが頭痛に顔を歪めながらゆっくりと顔を上げれば、焦燥を表に出したヨルと視線が交わる。しっかりして、と動いたヨルの口を見て、スズネは、先ほどまでの光景が記憶の断片であることを自覚した。

 鮮烈な記憶は、やはり現実に戻ってくると急速に色褪せていく。顔も声もぼやけて靄がかかる状態では、記憶の誰が誰かを判別することは難しい。


「大丈夫?」

「すみません、ちょっと、頭が痛くて」

「そっか……動けそう、ではないね」

「いえ、大丈夫です」


 気遣わしげな視線を振り払うようにして立ち上がったスズネを、ヨルが無言で見つめる。

 休んでいる暇はない。あの様子では、リンが追いついてくるのも時間の問題だろう。ここで作戦を台無しにするわけにはいかなかった。

 血の気の引いたスズネの顔を見て、ヨルは何かを言いたげにした。しかし、脱出を優先したのだろう。彼はすぐに表情を引き締めて、素早く周囲を見渡した。

 壁にはいくつか丸い穴が開いている。恐らく、何れかが鳥居近くの井戸に繋がっているはずだ。


「――ヨルさん、すみません。こんな時に聞くものじゃないかもしれませんけど」

「何?」

「百年前のこと、思い出したりしますか? 二つの里が離れ離れになったときのこととか……私、さっき少しそれを思い出して。どうして里が別れたのか、私には全然分からないんです」


 何故、という感情が何時までも胸の中で渦巻いている。激しくなった頭痛の中、か細い声でそう尋ねれば、ヨルは僅かに黙り込んだ。


「勿論、記憶の断片を見ることはあるよ。でも、何で里が別れたかは分からない。僕は、里が別れた瞬間というよりかは、その後の――何かをしなくちゃっていう使命感に駆られてる記憶を見ることの方が大きいから」

「何か?」

「そう。何かを届けなくちゃいけなくて、そのために走ってる記憶。すごく曖昧なんだけど……その後、誰かに襲われたように、いつも視界が暗転するんだ。僕の名前を呼ぶ誰かの声がして、僕も何か叫ぶんだけど……分からない。使命を果たせなかったっていう後悔だけがずっと胸の内にある」


 あまり気持ちはよくないね、と、ヨルが苦笑した。そういった記憶は、スズネの中には無い。湖と樹の精霊の違いだろうか。

 嫌なことを聞いてすみません、と頭を下げれば、ヨルは首を横に振る。そして、優しい声音で言葉を紡いでくれた。


「大丈夫。それより、もう少しの辛抱だよ。スズネ。多分、僕達が向かいたい井戸と繋がってるのはこの穴。僕がマナで穴まで持ち上げるから、そしたら井戸の真下まで移動しよう」

「はい」

「そしたら、落ち着いて話もできるだろうから――」

「その必要は御座いませんよ、ヨル様」


 ヨルの言葉を遮る声が、大精霊の部屋に響く。スズネが後ろを振り向いた刹那、その腹部を太い木の根が思いきり叩き付けた。衝撃と鈍い痛みに呻いたスズネは、そのまま壁に叩き付けられる。落下したスズネの体を受け止めた浅い水場が、大きい波紋をその表面に描いた。


「知りたいのでしたら、私からお話いたします。湖の里の裏切りを」


 腹を抑えて咳き込んだスズネを、リンの冷ややかな侮蔑の視線が突き刺した。彼女の足元からは太い木の根が三本、その身をうねらせながらスズネに先端を向けている。


「……うら、ぎり……?」

「ええ。貴女達が木の大精霊様のご好意を切り捨てたことを、私は決して赦しません」


 スズネのか細い声を踏みにじるように、リンは明確な嫌悪を声に滲ませながらそう断言した。スズネを庇うように前に立ったヨルを見て、リンは嘆かわしいと言いたげに眉尻を下げる。


「湖の里の裏切りって、何? リン」


 ヨルの言葉に、リンは静かに頷いて口を開いた。

 彼女が語ったのは、今から百年前の、二つの里のことだった。

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