第4話 鮮血の海と残骸
「あの、これは、何でしょう」
やや沈黙した後、スズネは目の前の水で作り上げられた球体を指差して尋ねた。その中ではまだ男達がもがき苦しんでいる。あまり見ていて気持ちの良い光景ではないが、それ以前に、正体不明の水が恐ろしい。
平原に相応しくはない物体だ。いや、こんな摩訶不思議な物体は、何処にあっても相応しいと感じないかもしれない。少なからず水場で見掛けたら、見間違いかと目を擦ることもできるだろうが、周囲には土と草しかない。そんな場所では、辻褄合わせの誤魔化しは無効だ。
乗り手を失い、あまつさえ目の前に奇妙なものが突然出現した。六頭もいた馬はあっという間に散り散りになって平原の向こうへと駆けていく。それを追いかけようとする者は誰もいなかった。
スズネの困惑した声が絞り出した問いに、返答を用意したのはヨルだった。
「シンヤのマナで作った水の檻」
「……シンヤの、マナ?」
「シンヤっていうのはあいつのこと。あそこに立ってる真っ黒助の冷酷男」
「その紹介止めてくれない? すごく不快」
シンヤと呼ばれた黒髪の少年は、その端麗な顔立ちに心底不愉快そうな表情を浮かべた。
真っ黒助と呼ばれるだけあって、彼は黒い上着に身を包んでいた。黒い布の上で四つの金色の釦が輝く規律正しい衣服が、彼の厳格な雰囲気を一層引き立たせている。
鋭い言葉と目付きから伝わってくる性格の冷たさに、ヨルが冷酷と言う言葉を選んだ理由の一端を見出せる気がした。刺々しい雰囲気に気圧されつつ、スズネは小さく呟く。
「あの、これ、死んじゃいませんか?」
すごく苦しそうですけど、と控えめに呟かれた言葉に、ヨルとシンヤが目を丸くする。否、よく見ると、シンヤはその直後で「何言ってんだコイツ」という顔をした。まるで信じ難い何かを見ているような顔をした彼の眉間に、深く皺が刻み込まれる。
渋い顔をしたままのシンヤは、何処か呆れた声音で言い放った。
「殺すつもりでやってるからね」
「……殺すんですか?」
「あのさ、一応確認するけど。君、一応この連中に襲われてたんだよね?」
「そ、そうです」
「コイツ等が死んでも君は困らないでしょ。それに、それはこれからコイツ等に襲われる誰かを未然に守ることにも繋がる。全部良いこと尽くしじゃん。何をそんなに怯えた顔をしてるの」
理解できないと言いたげな突き放す言葉がスズネの胸に刺さる。心臓が嫌に速い。もがき苦しむ男達の姿とシンヤの顔を交互に見比べて、スズネは唇を結んだ。
元はと言えば私が簡単に声を掛けたせいで。ヨルを危険な目に合わせた上、さらに彼等の命を奪ってしまう。自分を助けるために、誰かの手が汚れてしまう。そして、誰かの命が終わってしまう。
彼等が善人でないことをスズネは知っている。あの翼がある蛇の刺青だけでなく、彼等の態度からも、それを感じ取ることができた。
けれども、殺す必要はあるのだろうか。誰も怪我をしていない。少なくとも、今回は。
考えれば考えるほど、良くない事態だ。スズネが眉尻を下げれば、横で二人のやりとりを見守っていたヨルが、ぽつりと呟く。
「離してやればいいんじゃない」
「……正気?」
「キミ、コハルがこの場にいたらどうする?」
「…………」
シンヤが黙り込む。コハルというのが誰かは分からなかったけれど、少なからず、彼はここにコハルという人物がいたらこんな行動をとらないようだ。
シンヤは翳していた手を静かに拳にして振り下ろす。その瞬間、男達を引きずり込んで宙に浮かんでいた水の球体は弾け飛び、周囲に水飛沫を撒き散らしながら消滅した。男達が重なり合って地面に投げ捨てられる。その乱雑さに目を瞑りかけたスズネは、しかし、彼等が解放されたことにホッと安堵の息を吐いた。
飲み込んだ水を吐き出しながら噎せ込む男達を見て、ヨルが小さく呟く。
「君は優しいんだね」
その声は、少しだけ低かった。唐突な褒め言葉にスズネが瞬けば、それを見たヨルは柔和に笑う。気のせいか、と思ったスズネは、背後に立つシンヤに視線を向けた。
「あの、有難うございます。助けてくれたのと、それと、彼等を解放してくれて。ヨルさんも」
「どういたしまして」
感謝と、それから迷惑をかけて申し訳ないという謝罪の意を込めて頭を下げた。それに応じたのはヨルだけだった。シンヤはあまり人と関わり合いになるのが好きではないのかもしれない。声を掛けることすら申し訳なくなって、スズネが肩を竦める。
それと同時に、漸く水を吐き出したのだろう主導者の男が、胸を激しく上下しながら叫んだ。
「お前、お前ら、精霊だろ!」
男の手首を飾る石が未だに強い光を放っている。いや、先ほど見たものより、その光は強くなっていた。
主導者の男は先ほど見せていた余裕の態度を崩し、その瞳の奥で畏怖を露わにしている。
精霊。再び出てきた聞き馴染みのない言葉に、反応をしたのはシンヤだった。
ずっとスズネとヨルの背後に立っていたシンヤが、歩き出す。二人の間を通り抜けた彼が向かう先は、主導者の男の元だ。
「精霊石。精霊に反応して光り輝く石、だっけ。面倒なモノつけてるね、君」
気だるげな声が、地面に這いつくばった男に投げかけられる。水を吸って重くなった衣服が体に張り付いている上、水中で暴れ回って疲労したおかげで、起き上がれないらしい。草の上で四肢を伸ばしながら横たわった主導者を、シンヤの冷ややかな視線が突き刺した。
男の問いかけに対する答えではない。ただ、心底鬱陶しそうな声音を聞いて、男はその顔に恐怖を張り付ける。彼の迫力は、スズネは勿論、短剣を持っているヨルより、余程鋭く恐ろしいものだった。
シンヤはもう、男に手を向けることはしない。仕組みは理解できないが、どうやら彼の意識で水を操ることができるらしい。先ほどのような事態にはならないようだ。張りつめた空気の中でもその事実だけがスズネを安心させる。人が苦しむところも傷つくところも見たくはない。
「そんなもの持たれて、俺達が行動する度に湖の民連中に情報を売られたら面倒だ」
「……何……何だよ、その目……」
「その刺青、確か、精霊に人間性を疑われて契約し損ねた挙句に拗ねた人間が好んで掘るものだっけ。なんだったかな、君達の合言葉。『精霊なんてゴミだ、所詮人間に従属する存在の癖に』、だっけ? それで君達、精霊を売りさばくんだってね。自分が縁に恵まれなかったから、その分誰かと縁を繋いであげようってわけ。自分のことは二の次で。随分献身的且つ涙ぐましい優しさだね」
用意されたような台詞を淡々と呟くシンヤの声が、少しずつ低くなっていく。あと一歩踏み出せば男の顔に彼の靴底が当たるというところまで接近したシンヤは、温度のない声を素っ気なくその場に零した。
「くだらない」
吐き捨てるような言葉と共に、彼が腰に刺していた剣を鞘から引き抜く。すらりとした細長い剣は白銀に光り、降り注ぐ太陽光を反射する。それが酷く冷たく見えたのは、これからの彼の行動が容易に予測できたからだろう。
スズネの心臓が跳ねる。咄嗟に足を踏みだしたスズネの手首を、誰かが素早く捕まえた。――ヨルだ。
真剣な顔をしたヨルが、首を横に振ってスズネの行動を制限する。先ほど予想外な行動をしたおかげで、警戒されていたらしい。スズネがどれだけ足掻こうとも、ヨルは決してその手を離さなかった。
「ま、待て、おい、待ってくれ!」
男の恐怖に染まった悲痛な叫び声が上がる。それと同時に、シンヤは引き抜いた剣を天に翳し――躊躇いなく振り下ろした。
容赦のない剣が男の右腕を斬り落とす。スズネを捕まえるために伸ばされ、ヨルの短剣に突き刺されたあの太い丸太のような筋肉質な腕は、まるで細い枝のようにすっぱりと斬られていた。
男の言葉にならない悲鳴と共に痛みに蠢いた身体が生々しい。青々と茂った草に滴った鮮血の量は、ヨルが短剣を突き刺した時とは比にならない程、おびただしい。
それを見下ろすシンヤはあくまで冷静だった。斬り落とされてもう動かなくなった男の腕を見ると、その手首を飾っていた精霊石に剣先を突き刺してパキンと割る。
御頭、と叫んだ他の男達が慌てて主導者の男を抱えて逃げていくのを、シンヤは追わなかった。その場に残された右腕と砕かれた精霊石の残骸が、鮮血の海に溺れる草原の一部に残されている。
「――言っておくけど、俺はコハルが居たら彼女の安全確保を最優先に動くよ。だから容赦なくアイツ等を殺す。腕一本で済ませたのは、そこに突っ立ってる生温い思考を持つ奴への特別対応。説得する言葉を間違えないで」
まあ、コハルだったら、目を瞑らせるか後ろを向かせるかするけど、コハルじゃないし。そんな言葉を付け足したシンヤは、血振りをしてから剣を鞘にしまった。
鞘と鍔がぶつかり合い、硬質な音を立てる。冷ややかな音を取り消す様に、草原をざわめかせる風が吹き抜ける。
強い鉄の匂いが一瞬鼻孔を擽り、直ぐに風に流されて消えた。今度は誰の指示でなくその場にしゃがみ込んだスズネの手首を、ヨルは未だ握っている。
「冷酷男」
ヨルはシンヤに対してそう言い放って見せたが、その声音はあまり彼を批難しているようには聞こえない。
こうなることが分かっていたのか、或いは、分かっていなくとも、あの行為に思うところはあまりないのかもしれない。彼はとても戦い慣れているように見えたから。
価値観の違いである。シンヤの言う通り、彼等を生かしておけば次も誰かが襲われる。今度は、ヨルやシンヤのような親切な誰かが助けてくれないかもしれない。
彼等は悪人だ。悪人は、誰かを脅かすから悪人なのだ。
そう、だから、シンヤの行為を批難することはできないし、そうすることは間違っている。そもそも、彼がいなければスズネは死んでいた。冷静に考えれば、ヨルだって殺されていたかもしれない。スズネが連中に殺された後、彼の身体の上には死体が一つ出来上がることになる。彼がどれだ戦いに慣れていたとしても、その状況でいつも通り戦えるとは思えない。死体には、物理的な重量と精神的な重量のどちらも付き纏うものだから。
だから、シンヤの行為を批難することはできない。
ただ、少なくとも、スズネの記憶にはあんなに生々しい悲鳴も鮮血も見当たらない。たったそれだけの話なのだ。
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