第5話 平原のサメ
それで、とシンヤは口を開いた。平然とした顔のシンヤがスズネに視線を注ぐ。あまり興味関心のなさそうな瞳に、抜け殻のようにぼんやりとした顔をしているスズネの姿が映り込んでいる。
青空を背景にしたシンヤの黒髪がやけに映えて見えた。彼の瞳は澄んだ空よりも幾分か深く暗い色をしている。連想するのは――冷たい湖の底のような場所だ。
その比喩が頭に浮かんだ途端、スズネの胸の内で心臓が一瞬大きく跳ねた気がした。身体を強張らせたスズネを訝しんだような顔をしながら、シンヤが小首を傾げて尋ねる。
「君、精霊でしょ? 何処の?」
「……精霊」
先ほどの男達にも問われたことだが、スズネにはその単語に全く心当たりがない。沈黙が続けば続くほど自分に刺さる視線が鋭くなっているような気がして、スズネは俯きながら小さく呟いた。
「あの、私、記憶がないんです。自分の名前以外は何も。動物の名前とか言葉は分かるんですけど、その精霊っていう単語には聞き覚えがなくて」
すみません、と口から謝罪を零して、スズネは黙り込む。脳内で、シンヤの冷ややかな視線が思い起こされていた。
何を馬鹿なことを、と言われるだろうか。ふざけるなと凄まれるかもしれない。けれどこれ以外に言葉が見当たらないし、スズネは事実を述べている。どう答えるのが正解か、さっぱり分からない。
スズネがしゃがみ込んだまま身を縮込めていると、ずっと手首を掴んだままだったヨルが同じようにその場に屈んだ。片膝を地面につけた彼は、そのまま微笑してスズネの顔を覘きこむ。
「キミも記憶喪失の精霊なんだね」
「も?」
「そう。シンヤも僕も、キミと同じ。記憶喪失の精霊なんだよ」
予想外の言葉を投げかけられて、スズネは目を見開いた。白藍の瞳が動揺して左右に小さく揺れるのを、ヨルが真っ直ぐに見つめる。
ヨルの手がするりと肌を滑る様に移動して、スズネの手を握る。スズネよりもやや高い体温が触れた部位から明確に伝わってきた。
「ねえ、樹の里においでよ。スズネが記憶を取り戻すまで、居場所が必要だろうから。僕もシンヤもそこでお世話になってる。あと、キミと同じ女の子の精霊がもう一人いるから、良ければ友達になってやって。きっと喜ぶからさ」
しっかりとスズネの手を握った力強い手からは、偽りや悪意などを全く感じない。少なからず、先ほどの男達のようにスズネを使って金儲けをしたいという意思はなさそうだ。
彼等についていけば、一人でいるよりずっと情報が落ちるだろう。元々、寝泊まりする場所を探さなければならない身だ。そのために男達に声を掛けたのだし、まさしく渡りに船な申し出だ。スズネにとってはようやく見つけた希望の光と言っても過言ではない。
けれど。
スズネは控えめにシンヤの顔色を窺った。先ほどの態度から、彼はスズネを好ましく思っていないように思える。助けてもらった身で、これ以上彼に不愉快な思いをさせるのは如何なものだろう。そんな気遣いによる仕草だったのだが、シンヤは拒絶も歓迎もしていない、ただ無関心な表情でスズネを見ていた。
成程、好ましく思っていないのではなく、ただスズネに無関心なだけらしい。変に迷惑をかけなければ、不愉快な気持ちにさせることはなさそうだ。
「じゃあ、その、お言葉に甘えて。お世話になります」
「うん。そうと決まれば早速行こう」
スズネの返答を聞くと、ヨルは満足そうに頷いて立ち上がった。そのついでに力強く手を引っ張り上げて、簡単にスズネのことも立たせてしまう。
まだ十六歳ほどの幼さが残る容姿をしているのに、ヨルの力は思うよりずっと強い。精霊というのが何かは分からないが、普通の人間とは違うのかもしれない。
「その樹の里っていうのは、ここからどのくらいの距離にありますか?」
「少し遠いかな」
「遠い?」
「徒歩で三日くらい」
三日。スズネは思わず彼等の格好を確認した。
彼等は大きな荷物を持っているようには見えない。歩きやすそうな衣類を身に纏っている以外に彼等を旅人と断定する要素は一切なかった。腰に下げた武器以外に、彼等が手にしている荷物が無いからだ。
テントも飲食料も――水はシンヤの摩訶不思議な力で確保できるのかもしれないが――持たない彼等は、その三日をどう乗り切るつもりなのだろう。
スズネが顔に分かりやすく不安を浮かべれば、ヨルは可笑しそうに吹き出した。それから「大丈夫大丈夫」と安心させるように呟いて、シンヤを指差す。
「僕達には特別な足があるからさ。ね、シンヤ」
「その言い方すごく不愉快。別にここに君だけ置いて行ってもいいんだよ」
「コハルに糾弾されたければお好きにどうぞ」
ヨルは余裕の笑みを浮かべ、シンヤは分かりやすく顔を顰める。ヨルの言葉の後ろには「やれるものならな」と挑発的な言葉が続くような気がしてならない。やはり、スズネにあれだけ優しく笑いかけるヨルは、シンヤに対しては別人のような対応をする。気のせいではない。二人の仲はあまり良くないようだ。
どうにもコハルという人物に弱いらしいシンヤは、わざとらしく溜息を落とした後で、両腕を前に伸ばした。黒手袋に包まれた手の平を宙に翳した直後、彼の釣り目がちな瞳が細くなる。
一拍置いて、シンヤの手の平の前に小さな水の塊が渦を巻きながら現れた。勢いよく渦巻く水の球体は、やがてその体積をどんどん増やしていき、成人男性が縦に並んで二人分ほどの大きさにまで達した。
そして、激しい渦の中心から三つの大きな影が飛び出してくる。
鋭い牙が立ち並んだ凶悪な口と、どんな獲物も呑み込めそうな大きな身体。滑らかな胴体についた胸鰭と背鰭が特徴的な輪郭のおかげで、スズネは一目見ただけでその生物の名を脳裏に浮かべることができた。その身体は水で出来ており、向こうの空や草むらが透けて見える。それ以外は、スズネの知識の中にある「サメ」という生物の特徴と見事に合致していた。
水のサメは、ここが水中であるかのような滑らかな動きで空中を泳いでみせた。
「さ、サメ?」
「そう、サメ」
「サメ」
動揺したスズネ。肯定したヨル。頷いたシンヤ。
彼等が「足」と称したのは、どうやらこのサメのことらしい。
三匹のサメは、何れも渦と同等の大きさを誇っている。そのまま口を開いて飲み込まれたら、この場に居る全員が容易に呑み込まれてしまう大きさである。
先ほど、水の球体に閉じ込められて苦しそうにしていた男達の姿が鮮明に脳裏に蘇ってきた。――もしや、このサメに飲み込まれたまま移動するのだろうか? それこそ死んでしまう。
スズネが顔を蒼くするのと同時に、シンヤが近くのサメに手を伸ばす。獰猛な見掛けとは反対に、サメは心底嬉しそうにシンヤの手に水の体をすり寄せると、宙に浮かせていた体を低い位置まで下ろした。シンヤは勢いよくその背に飛び乗り、唖然としているスズネに視線をやる。
ああ、ああやって乗るのか。安心した。溺れることはなさそうだ。
平原に水のサメがいるだなんて異様な光景よりも、水中での呼吸方法を思案していた辺り、シンヤの不思議な力には多少なり順応したらしい。自分の順応力を自覚して肩を竦めつつ、スズネも彼に倣って近くのサメに近寄った。
「乗れる?」
「だ、大丈夫です」
気遣わしげなヨルの声に頷いて、スズネは恐る恐るサメに手を伸ばす。要するに、シンヤなりの馬なのだろう。馬と呼ぶには姿形が違いすぎるし、どうやっているかも謎だが、それは目的地に到着してから存分に尋ねれば良い。まずは移動するのが優先事項だ。
サメが体の位置を低くしてくれたおかげで、サメに乗るという慣れない行為でも、手間取らずに乗ることができた。
サメに――スカートで跨るわけにはいかないので――横乗りになったスズネは、サメの背鰭に手を添えて前を向く。
「じゃあ、行こうか」
「は、はい!」
「これに乗れば樹の里へは一時間と少しで着くはずだから」
すぐだよ、とにこやかに笑ったヨルの言葉に頷いてから、スズネは「え?」と声を出す。
徒歩で三日の距離が一時間と少し。それはあまりにも時間が短すぎないだろうか?
何処かで聞いたことがある。人間が一日に歩ける距離は大体三十キロメートル。それが三日分ということは、ここから樹の里までは単純計算で凡そ九十キロメートル。
馬でさえ、一日に走れる距離は八十キロメートルだというから、一日と少しかかるはずなのだ。
その距離を、たった一時間と少しで移動するだなんて。
記憶がない以上、移動距離の真偽はあるかもしれないが、スズネが思考するのに頼れる知識は現在自分の中に備わっているものだけなのだ。唯一の頼りである知識と、彼が口にした言葉が噛み合わず、スズネは小首を傾げる。
言い間違いだろうか。ぱちぱちと激しく瞬きをするスズネは、直後、彼の言葉が間違いでも何でもなかったことを実感することになる。
「それじゃ、行くよ」
淡々としたシンヤの呟きを合図に、三匹のサメ達は体をくねらせて移動し始めた。大きな尾鰭が左右に揺れ、水の中を泳ぐように空中を滑空する。
肌を打ち付ける風が爽やかだ。何処までも広がる青々とした草の群れが、まるで波のように靡く。水面を連想させる優美な自然の動きにスズネが、感動で息を吐いた瞬間――世界は、その顔を変えた。
「えっ」
肌にぶつかる風の量が格段に増えた。サメ達の移動速度が急激に上がったのだ。上半身を後ろに持っていかれそうになり、スズネは慌てて背鰭を掴む手に力を込める。風の圧力に負けて仰け反ったままのスズネなどお構いなしで、サメ達は鋭く空中水泳を始めたのだった。
先ほど逃げていった馬の速度とは比べ物にならない。瞬きの間に景色は前へ前へと進み、髪の毛が激しく風に煽られる。髪の毛が乱れる、だなんてことを気にする余裕はない。少しでも気を緩めれば、サメから落下して、確実に、死ぬ。
ああ、成程。これは確かに一時間と少しで到着するのかもしれない。
白くなった顔を風に殴られながら、スズネは遠い目をした。前を進むシンヤとヨルは、この速度に臆することも動揺することもない。彼等はこの移動手段に慣れているようだ。
これが、あと、一時間。
生き残れるだろうか。スズネの胸中に広がったそんな不安を解消する方法は、ただひたすらに、サメの背鰭に掴まるしかないのだった。
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