第2話 遭遇の平原

 鬱蒼とした森を歩き続けていると、漸く出口が見えた。その頃には覚束なかった足取りも安定して、倦怠感も抜けていた。

 ともかく、森から出なければ話が始まらない。歩きながらずっと自分の中から無くなった何かについて考えていたが、何一つとして思い出すことは出来なかった。自分の力ではどうしようもない。途方に暮れていても仕方がないので、人を探して自分についての情報を探さなければならない。それ以外に、現状の『よく分からない』を脱する方法は思いつかなかったのだ。

 何かを思い出さなければならない。そんな焦燥感がスズネの内心を焼いている。ジリジリと焼かれる感覚に苛まれながら、スズネは森の外へと足を運ぶ。身体を動かすという感覚は取り戻したが、整地のされていない道を歩き続けたおかげで、足が疲労で重くなっていた。それでもその歩調を緩めなかったのは、疲労なんかよりも自分の失った何かを取り戻したいという意思の方が何倍も強かったためである。

 平原だ。道を制限するような木々は見当たらず、広々とした大地が広がっている。少なからず目視できる範囲に人里はなく、また、人影もない。

 人のいる場所に行かなければならない。しかし何処に行けば人に会えるのだろう。

 訳も分からないまま広大な大地を歩くしかないという途方もない話に、スズネは溜息を吐く。そうして返ってくるのが沈黙だけだったことに虚しさを抱えながら、皮のブーツの靴底で地面をゆっくり踏みしめた。

 スズネの持ち物はなかった。食料や飲料の欠片もなく、身を守る術である短剣もランプも。自身の軽装から近くに村があると考えていたのだが――この分だとその推理は怪しい。もしかしたら、馬などの生物に乗せてもらってここまで来たのかもしれない。いや、それにしたって荷物が少ない。振り落とされでもしたのだろうか。

 悶々と考える内、スズネの視界を一つの影が掠めた。反射でそちらを振り向けば、丁度想像していたような馬が平原を駆けている。それも、一頭だけではない。少なくとも五頭はいるように見える。

 茶色や黒、白といった様々な色の体毛に包まれた身体には、しっかりとした筋肉がついており、逞しい足が力強く大地を蹴る。馬の嘶きがスズネの鼓膜を揺さぶった瞬間、スズネは何処となく懐かしい感覚を思い出した。


「……私……」


 ぽつりと落とした声は、風に攫われて空気中に容易く融けてしまった。けれど、スズネの胸に広がった郷愁はいつまで経っても消えない。

 スズネも馬に乗ったことがある。記憶の中のスズネは慣れない乗馬に手間取っており、自分が馬に乗ることで何か悪影響がないかと、酷く馬の心配をしていた。傷つけてしまわないか、潰してしまわないか、一緒になって倒れこんでしまわないか――考えつく限りの不安を述べる自分の言葉が頭の中を過る。それを聞いた誰かが、笑っていた。


『大丈夫だよ。ほら、手伝ってあげるから』


 優しい声が鼓膜を撫でるように紡がれる。差し伸べられた手に恐る恐る手を差し伸べれば、見掛けよりずっと力強い腕がスズネを引き上げる手伝いをしてくれた。馬は転ばなかったし、変なところも蹴らなかった。そうして初めて馬に乗ったスズネは、喜びとわくわくで声を弾ませた。


『すごいね、馬に乗ったの初めて!』

『楽しそうで何よりだよ。ね、乗ってよかったでしょ?』


 その得意気な声に、スズネは何度も頷く。そして、後ろを振り向いて、その人に……誰よりも愛おしいと感じていたその人に、笑いかけたのだ。


『うん。有難う、――』


 その人が笑う気配がした。けれど肝心の顔には白い靄がかかって思い出せない。その笑顔を見たいと願っても、その靄が晴れることはない。その人の名を呼んだのだろう自分の声には雑音が入り、聞きとれない。

 確かにその人はそこにいた。確かにその人とスズネは笑い合っていた。確かに愛おしいと感じていた。

 けれど、何も思い出せない。顔も名前も。今脳裏を過った声ですら急速に色褪せて、誰のものか分からなくなってしまう。

 何もかもが混じり合って分からなくなったところで、スズネはハッと正気に返る。目の前には、靄のかかった誰かではなく、数頭の馬が駆けている平原があった。

 確かに馬たちが走る姿は生命として輝かしい様子ではあったが、スズネがそれを凝視したのは、それから感じ取れる生命力に感動したからではない。その背に、人が乗っていたからだった。

 遠くからでは顔が良く見えない。性別すら判別がつかなかったが、そんなことは最初から気にしていない。大事なのはそれが『人である』という事実だけだ。


「あ、あの! すみませーん!」


 こんなに何もない場所で見掛けた折角の人を逃してはいけない。先ほどの記憶については、後から考えればいいのだ。

 スズネが声を張り上げて手を大きく振ると、乗馬していた人間はこちらの存在に気付いたらしい。先頭に立っていた人物が何やら叫ぶと、他の馬に乗っていた人物もスズネの方に視線を向けた。それから、颯爽と馬を走らせて駆けてくる。

 ああ、よかった。これで助かる。

 胸を安堵で撫で下ろしたのも束の間だった。その時スズネが抱いた期待は、乗馬している人物たちを見て打ち砕かれた。


「んんー? お嬢ちゃん、俺達のこと呼んだかなぁ?」

「こんなところで何やってるのかな? この辺は危ないよ? 子供が来る場所じゃないなぁ」


 ニタニタとした笑いを顔面に張り付けた男たちは、どう見ても、善人ではない。この場合、厳つい顔やら筋肉質な身体に刻まれた傷痕、薄汚れて破けた粗末な服といった要素は全く関係ない。そんなことで人間の善性が分かる訳がないのだから。

 彼等の身体には、一様に刺青が施されていた。漆黒の翼が生え、鋭い牙を持つ凶悪な顔をした蛇の刺青だ。この刺青をしている者は、善人ではない。ある一定の条件を満たした悪人が好んで施す刺青である。

――その一定の条件が、思い出せない。けれども、スズネの中に眠る知識が言っている。彼等は、善人ではない。とびっきりの悪人だ。

 思わず後ずさろうとしたスズネの背後に、馬に乗ったままの男が素早く回り込んだ。馬は六頭、それに乗る悪人も六人。悪人は何れもスズネを見下ろして、愉快そうに口角を上げていた。男たちと目が合った瞬間、背筋をゾッと悪寒が走り抜けていくのを感じた。

 悪意に満ちた目である。頭の中で警鐘が鳴りやまない。速くこの場から離れなければ。先ほどよりも強い焦燥感がスズネの中で暴れていた。心臓が速い。男たちに見下ろされながら、スズネは口を開く。


「……すみません。知り合いかと思って声を掛けたのですが、勘違いでした」

「こんなところに知り合いがいるかもしれないなんて、変わってんねぇ。お嬢ちゃん、本当は迷子なんじゃないの? 俺達に助けてほしかったんでしょ?」


 見透かしたような言葉に肩を跳ねさせると、男たちは一斉に笑いだした。分かりやすいねぇ、とか、嘘は良くないよ、とか、四方から飛んでくる笑い混じりの言葉に、スズネは拳を握りしめた。

 男たちは馬に乗ったままスズネの周りを歩き始める。あれだけ躍動感に溢れていた馬が、今ではすっかりスズネを脅かす生物だ。馬が悪いのではなく、この男たちが悪いのだが。


「大丈夫大丈夫、俺達がちゃんと君を安全なところに連れてってあげるよ」


 男たちの中でも一際屈強そうな体をした男が、愉快そうに笑いながらスズネに太い腕を伸ばした。その瞬間、男の手首がちかりと光る。


「ん?」


 手首に巻かれた赤い紐と、それに通された透明な石。その石はスズネに近付けられると同時に何かを訴えるように強く発光し、存在を主張する。それを見た男は一瞬目を丸くしてスズネを見た後、再び大笑いした。酷く不愉快な気持ちになるような笑い方だった。


「おい、おいおいおい! 見ろよお前ら! 精霊石が光ってらぁ!」

「ってことは、コイツ、精霊か?」

「ああ! 久しぶりの大物だなぁ、おい!」


 男は手を叩いて喜んでいる。次々と声を上げて狂喜乱舞し始める男たちを横目に、スズネは瞬きをして小首を傾げた。


「……精霊?」

「ああ? とぼけてんじゃねーよ。精霊石が光ったのが何よりの証拠だろうが。お前は何処の精霊だ? ん?」

「とぼけてるわけじゃ……精霊って、何ですか?」

「何言ってんだお前。そんなことで誤魔化せると思ってんのか?」

「だから、誤魔化してるわけじゃないですってば! 私、記憶がないんです! 自分の名前しか知らないのに、精霊が何かなんてなんて分かるわけない!」


 だから精霊のことは知らない。スズネが叫べば、男は一拍置いて、さらに大笑いした。他の男たちもそれを見て釣られるように笑いだす。周囲の男達が彼の顔色を窺っているところを見るに、この一番大きな体を持つ男が主導者なのだろう。心底不快になる笑い声に囲まれ、スズネは顔を顰める。

 そんなスズネを見て、主導者の男は数本抜けた歯を見せつけるようにして口を開く。


「なら尚更都合がいいじゃねえか! 記憶喪失の精霊なんざ滅多にお目にかかれねぇ」

「私をどうするつもりですか」

「お前、自分の帰る場所も分かんねぇんだろ? じゃあ俺達がお前の新しい居場所に案内してやるよ。お前ら精霊を欲しがる人間なんざわんさか居る。どんだけ金が貰えるか、想像するだけで滾るねぇ」

「……まさか、私を売るつもり?」

「お前は新しい居場所を手に入れる。俺達は金が貰える。悪いことないだろ?」


 何処が、と、男の言葉に噛みつく暇はなかった。男はそれ以上喋るつもりがないらしく、スズネの方へ再び手を伸ばした。眼前に迫る大きな手に硬直したスズネは、スカートを握りしめて立ち竦む。

 精霊という言葉に聞き覚えは無い。彼等が何を言っているのかは理解できないが、少なからず、売りに出された後の未来はスズネにとって良くないものだろう。男達の表情から、そういったことが汲み取れた。

 逃げなければ。そう思うのに体が動かない。

 恐怖のあまり声すら出ない。男たちの笑い声が遠く聞こえる。鳥の囀りも風の音も、何もかもが遠い世界のように感じられた。無音になっていく世界の中で、心を支配する恐怖の中で、ただ一つの音だけが、スズネの鼓膜を震わせた。


「伏せて」


 少年の声だった。スズネの背後から淡々とした様子でたった一言の指示を出したその声に、スズネの体は反射的に従う。その場にしゃがみ込んだスズネが上を向くのと、男が悲鳴を上げるのは同時だった。

 スズネは、再び言葉を失った。先ほど恐怖に奪われた声が、次は、目の前の光景――否、そこにいた人物の美しさに奪われたのだ。

 そこには、少年がいた。

 銀灰色のふわりとした髪の毛が風に持ち上げられ、その下にある少年の瞳が見えた。青みがかった緑色の透き通った瞳は、美しさの中に確かな優しさを携えていた。強かな光が宿ったその瞳は、主導者の男を鋭く睨み付けている。

 少年が手にしている短剣が男の腕に刺さっており、男は苦痛に顔を歪めている。腕から滴った鮮血が宙を舞っていた。

 一瞬、世界の時間が止まったかのように感じられた。その一瞬が永遠に切り取られた絵画のように思えたのだ。スズネは息を呑む。――瞬きをする間に、世界の時間は動きだしていた。

 馬の間を潜り抜けてきたのだろうか。スズネの背後から突然現れた少年は、そのまま突き刺した短剣を思いきり引き抜く。痛みに呻いた男がサッと腕を退けたのが見えた。


「なっ……!」

「キミ達みたいな連中を見ていると反吐が出そうになるよ。女の子一人にもこんな人数で囲まないと太刀打ちできないだなんて。情けない。この、腰抜け」

「ッんだと、コイツ!」


 少年の唇からは、その美しさとは相反した言葉が出てきた。嘲笑の色が濃い言葉に苛立った様子の主導者を鼻で笑った少年は、その場にしゃがみ込んでいたスズネを一瞥する。

 あまりにも優しい色をした少年の視線と、スズネの視線が絡まる。

 少年は何度か瞬きをした後、スズネに対して、柔らかな声音で言葉を投げた。


「もう大丈夫。キミは、僕が守るから」


 そう言って、少年は再び男たちに目を向ける。数秒前まで纏っていた優しい雰囲気から一転して、その目付きは冷ややかで鋭い。

 不思議と恐怖はなく、いつの間にかスズネの拳から力が抜けていた。心臓がうるさくて熱い。

 まるで何かを伝えたがっているように暴れる心臓を胸の上から撫でつけて、スズネは静かに少年を見上げていた。

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