眠る春の夜に鈴が鳴る。

深夜みく

一章 「樹の里」

第1話 目覚めの森


 五万文字の恋文が届いた。

 だから、八万文字の返事を書いた。

 愛とは何ぞと神は問う。

 愛とは、五を八に増やした、三という数字そのものだ。

――だから、私は貴女を愛している。

 いつまでも、何処までも、深く、深く。

 例え、気が遠くなるような未来の先でも。

 私は貴女のことを、愛している。


 手紙はそこで途絶えていた。それは、彼女の遺した最後の言葉だった。



◆ ◆ ◆



 視界が白い。刺すような眩さに襲われて、少女は静かに瞼を上げた。

 白藍色の瞳が、目覚めることを拒否しているような重い瞼の下から現れる。その瞬間に飛び込んできた光の強さに慌てて目を閉じた少女は、数秒後にもう一度目を開けた。

 不思議なことに、目を開けてもそこに広がる景色は白一色だった。これでは、目を閉じていたときと何ら光景が変わらない。少女は、訳も分からず周囲を見渡す。視界には光を通す白い皮のようなものしか映らなかった。背中には何か硬い感触のものが敷かれている。目の前に広がる皮は滑らかな曲線を描き、少女の背後に回っている。この皮は立体の楕円を描いており、少女はその空洞の中に横たわっている。だから視界が白一色なのだ。

 どうやら、自分は眠っていたようだ。謎の皮のようなものに包まれて。

 咄嗟に『いつもの目覚めとは違う』と思った少女は驚きのあまり飛び起きようとしたが、体はぴくりとも動かない。そこで、少女は初めて自分の体に多大な倦怠感が募っていることを自覚した。

 この状況は異様だ。言い知れぬ不安感と恐怖を覚えた少女は、眉間に皺を寄せる。そして同時に、こう思った。

 何故、この状況が異様なのだろう?

 何故、いつもの目覚めとは違うと思ったのだろう?

 何故、私は恐怖しているのだろう?

 それはきっと、この状況が普段とは異なっているからだ。異なった状況下で目を覚ませば、その状況を異質なものだと感じて恐怖する。当然だ。

 ならば自分にとっての普段とはどういう状況なのだろうか。

 そこまで考えて、少女は悟った。

 どうにも、自分には記憶がないらしい。何故って、眠る前に何をしていたのか、何故こんなことになっているのか、さっぱり見当がつかないからだ。

 遠くで小鳥の囀りが聞こえる。歌合戦でもしているかのように四方から鳴き声が聞こえてくるのは、この異質な状況に似合わず酷く平和なものに思えた。少女の心は少しだけ落ち着きを取り戻す。決して鳥の声を聞いたからではない。それは、鳥の声を『鳥の声』と認識できたことに対する安心感だった。

 記憶はない。だが、知識はある。全ての記憶を失ったわけではないらしいことを知って、少女は試しに呟いてみた。


「……私の名前は、スズネ」


 少女――スズネは、緊張感を孕んだ自身の声を聞いて、静かに肩を竦めた。

 自分の名は覚えていた。声も出る。意識は清明。感触や感覚も感じとることができる。鳥を鳥と認識する力や自分の名前に関する知識はあるが、自分が何をしているのか、どうしてこんな状況になっているかは分からない。こんな状況、というのは「記憶を失っている上、謎の皮の中で眠っていた」ことを指す。

 スズネはそれらの情報を心の中で整理して、静かに桜桃色の唇を結ぶ。

記憶が無くとも、ハッキリ言えることが一つだけあった。

 この状況は『異質』だ。そして、できるだけ『異質』な状況にはいたくない。

 強くそう感じたスズネは顔を強張らせて、まるで自分のものではないように動かない腕に力を込めた。指先がぴくりと動き、やがてぎこちなくスズネの意思に従って動き始める。滑らかさを失ったかくかくとした動きは、糸で操られている木製人形のようだ。しかし、スズネが体を動かそうと思えば思うほど、それらの動作は滑らかな人らしさを取り戻していく。

 拳を作って開く、その動作が問題なくできるようになってから、スズネは眼前にある皮に視線を注いだ。


「これは、木?」


 白い皮のようなものをよく見れば、木目が通っていることが分かる。皮自体は薄いらしく、向こう側から光が漏れている。表面は滑らかで、明らかに自然にできたものではない。自然にある木はもっと表面がごつごつとしているし、厚さもある。誰かが故意的にスズネにこれを被せたことは容易に想像することができた。

 何故? 一体、何のために。

 スズネの白い指先が恐る恐る皮の表面に触れる。指の腹が白い木の皮に触れた途端、それは触れた場所からはらりと薄っぺらな破片になって造形を崩した。

 まるで花弁のような儚さに、スズネはびくりと手を引っ込める。けれど、皮の壁は決してその姿を戻すことなく、ひらひらとスズネの前から姿を消した。

 気怠い上半身を起こすと、肌の表面を温い風が撫でて通り過ぎていった。風は、彼女の艶やかな黒髪を弄ぶと同時に、青々とした草木の香りを運んでくる。目に飛び込んでくる色鮮やかな新緑に、先ほどとは違った眩さを覚えて、スズネは目を細めた。

 そこは森だった。数多の草木がひしめき合い、スズネの周囲を囲んでいる。木の皮に遮断されていた光が直接スズネの目を焼くのが眩く、それを庇うように周囲の木から伸びた細い枝が影を作っている。隙間から漏れる木漏れ日が、あの木の皮の向こうにあった光の正体らしい。


「……ここ、何処?」


 スズネは迷子になった幼子のような気持ちで呟いた。実際、スズネは迷子だ。記憶喪失という、厄介極まりない性質を持った特殊な迷子だが。

 周囲に人気はなく、遠くの空で鳥たちが楽しげに歌を歌っている。唖然としたスズネの手の甲を、細長く伸びた草むらが撫でている。揶揄っているようにも、慰めているようにも見えた。スズネは瞳を大きく開いたまま、未だ謎の怠さに囚われている身体でふらりとその場に立ち上がった。生まれたての小鹿が漸く立った時のような感動感はない。

 彼女の名はスズネ。記憶喪失の少女である。

 踏みしめた大地は広い。自身の心臓の辺りがやけに騒がしく、また、不思議と熱を帯びている。

 自分が何を忘れているかも分からない。けれど、何か大切なことを忘れている気がした。記憶は勿論大事だが、それよりも、使命や宿命といった、そういった大層なものを忘れている。そんな気がしてならない。

 そんな感覚に襲われて、スズネは小さく息を呑んだ。

 失われた何かを探すために、スズネは、確かな一歩を踏み出した。

 深い森での出来事だった。

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