■1──識別コードA‐009(4)
■
「箱庭」敷地内の端に位置する、小規模な温室庭園。
天井に設置された投影装置によって時間帯にかかわりなくいつでも月夜を映し出すこの造花の庭園が、
……「箱庭」に、空はない。最重要機密である聖女たちの存在を秘匿するため、施設全域の上空には常に光学
聖女たちの概日リズム管理のために定期的に朝と夜とを映し出す、
けれどそこに──月はない。
だからだろうか。彼女は暇さえあれば常に、この
庭園の中央にある真っ白なティーテーブルに腰掛けて、彼女は告げる。
「では、先生。どうぞお好きなように」
改めてぺこりと頭を下げる彼女に
彼女が不自由なのは左足だが、とはいえ障害部位が拡大しないとも限らない。そのため、上肢から網羅的に診察していく。
聖女が前線に
聖女の運用にあたって少しでもその不確定性を消すための、アカデミーの苦肉の策だ。
応じるように差し出された、小さな手。親指の付け根のあたり、
左右の手で握手を終えた後、私は
次に足を診察する
「スカートの中、
そんな彼女の
しゃがみ込んで
「ひゃうあ、くすぐったいです」
妙に艶めいた声を漏らす彼女をよそに、私は膝から先を軽く曲げたり伸ばしたりを繰り返した後──彼女の足を抱え込むようにして
右足は反射良好だが、左足はというとだいぶ反射の減弱がみられる。
次に、曲げ伸ばしを促す。
ぶらぶらと、足を前後に軽く振る彼女──左足も動かないわけではないが、
「せいぜい、こんな程度です」
「幸い、痛みは特には」
微笑を浮かべながらそう返した後──しばらくして、彼女はぽつりと口を開く。
「どうですか、先生。私は」
世間話をするような軽い調子でそう問う彼女に、私は少しだけ沈黙した後、正直に返答する。
左足の神経障害の進行。
そして──右手の筋力が以前よりも低下しているという
「あは。……何となく、そんな気はしてたんですよねぇ最近」
からからと笑うと、それから彼女は小さなため息をついて椅子に体重を預ける。
「やれやれ、早く戦争なんて終わって欲しいものです。そうすれば、あの子たちが戦場に行かされることもないですし」
どこか
彼女たちを──他の聖女たちを戦わせたくないのか、と問う。
私の問いに、
「戦場なんて、ろくなもんじゃないですから。……ほら、見て下さいよこの新聞」
そう言って、彼女はテーブルに置いてあった新聞記事を指差す。
「
記事を読み進める。『聖女の
「随分と、悪趣味な冗談です」
むくれた様子で腕を組み、彼女は猫のしっぽみたいに右足をぶらぶらと揺らしながら続ける。
「
「
うら若き乙女が敵軍をなぎ払い、連邦を勝利へと導く。……それはもう、格好のプロパガンダの種というものだろう。
「……だいたい何ですかこの『
ぶちぶちとそう
彼女の保有する
恐らく彼女の二つ名は、彼女自身というよりはその犠牲者たちが生きながらに腐敗し、
話題をそらすべく、私は前線についての様子を尋ねる。
「前線、ですか。……言ったでしょう。
つまり。この戦争の行く末は、どうであるかと。
「少なくとも、勝てはしません」
彼女の答えは、簡潔なものだった。
「……とはいえ、敗北するかと言えばそれもまた微妙なところでしょうけれど」
どういうことか。
私の問いに、彼女は目を伏せて言葉を続ける。
「帝政圏の方も、あの感じではだいぶ疲弊しています。最近は自国の領土の回復に専念しているようで、こちらの前線が後退しても食らいついてくるほどの熱意はないみたいです」
そう告げる彼女の言葉は、逐一流れてくる国営放送や新聞の内容とは大きく食い違っていたが──とはいえその言が誤りであるとは思わなかった。
A‐009、「
……それに、何より。
少なくとも彼女は、実際の戦場を知っている。その彼女が言うのであれば、きっとそうなのだろう。
勝てはしない。けれど、負けることもない。
つまりは──停戦。それが、彼女の導き出した予測だ。
「それがきっと一番現実的かと。誰も納得はしないでしょうが、誰もが納得するしかない落とし所です」
「半年。半年と少しで、この馬鹿げた戦争は終わります」
作り物の月を背に、彼女はこちらへと振り向いて続ける。
「ねえ、先生」
何だ、と問う。
「戦争が終わったら、私と結婚して下さい」
いつも通りに茶化すような響きの、そんな言葉に。
私はいつも通りに、首を横に振る。
そういうことを言う者は、得てして早死にするものであると──そうたしなめて。
「おや。それは大変です、気をつけるといたしましょう」
小さく笑った後、彼女はもう一度、口を開く。
「ねえ、先生」
何だ、と問うと、彼女はおもむろに服のポケットから何かを取り出す。
「108」とだけ書かれた簡素なラベルが貼られた小さな、ガラス製のアンプル瓶。
月明かりに
「いつになったら、先生は私を殺してくれるんですか?」
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